黒煙
草履を出してもらって、借りて、外へ出た。
やっと地面を歩ける、とほっとしたのだけど、その気持ちはすぐにかき消えた。
「……おい、あっち……」
辰之助が息を吞む。私もその意味などすぐ分かった。
もくもくと煙が立っているのだ。薄黒い煙。
火が出ているのか、それともさっきのような……。
「くそ、急ぐぞ、夜留子! なんか嫌な予感がしやがる!」
「ひゃぁ!」
言われたことは同意であったが、辰之助のそのあとのことは丁寧とは言い難かった。
なんと私を抱え上げ、肩の上に担ぐようにしたのだから。
私は急に宙に浮き、俵のように抱えられて、悲鳴を上げていた。
「なっ、なにをっ、じ、自分で、走れます!」
「うるせぇ黙ってろ! こっちのほうが早いんだよ!」
走り出した辰之助に、やっと言う。
けれど辰之助は息も上げずに走りながら、ばしっと言った。
それはそうかもしれないけれど!
私は心の中で叫んだ。
が、もがいて逃げるわけにはいかない。
だって、走って行くうちに気付いた。
煙が上がっているのは、私たちが過ごしていた場所……道場だったのだから。
「……どういうことだよ……」
辰之助は呆然と言った。
私をやっと下ろしてくれたので、私は小さく息をつきながら地面に立つ。
が、それどころではなかった。
「辰さん……!」
やってきて、火の出ている道場を見ながら呟いた辰之助のところに、ばたばたとやってくるひとがいた。それはお流である。
がばっと辰之助に抱きつく。その様子は痛々しいものであった。
「お流、どういうこった、こりゃ……!」
煙を上げている道場は勿論、放置されているなんてことはなく、消火隊かなにかだろう、大勢のがたいのいい男たちにより、次々に水をかけられて、消火されようとしていた。
そのことで私は思う。
これは多分、本当の火なのだろうと。
妖魔絡みだったら、普通の水で消えるものか。
ではどうしてこんな、いきなり火事なんて。
「急に出火したんだ。外に積んであった薪だろうとの見立てだ」
そこへやってきたのは宗太郎。強張った顔でそれだけ言う。
「マジかよ……放火ってことか!?」
「そうかもしれん」
こんな平和な街で、放火事件など。
おまけに昼間に堂々と。
私はそのやりとりを聞いて思ったのだけど、すぐ思い当たった。
辰之助も同じことを思っただろう。
「暗疎のやつか……!」
「おそらくそうだろうな」
その通りのことを二人もやり取りする。
「わりぃ、俺のせいで……」
辰之助は心底悔やんだ、という様子で絞り出すように言って、だが宗太郎は「お前のせいじゃないだろう」と言っていた。
私は目の前の道場の火事と、それが先程まで対峙していた男の手によるものだということに、それだけで心臓が冷えて頭はくらくらしていたのだけど、もうひとつ、頭を殴られたようなことが耳に飛び込んできた。
「そうだ……子一郎のやつは!?」
はっとした顔で言った辰之助。
そういえば、この混乱して騒ぎになっている場に、子一郎の姿が見えない。いてもおかしくないのに。
「え、子一郎か? 今日は稽古のない日だから……」
宗太郎は言ったが、そしてそれは『この場にはいなかった』というくちぶりであったが、辰之助はそれにむしろ不審を覚えたらしい。くちびるを噛み締めるのが見えた。
「あいつ、言ってたんだよ……今日は竹刀を新しくするから道場に行くね、って!」
「……なんだと」
辰之助は吐き出すように言って、宗太郎の顔は一気に強張った。
「くそっ、まさか中に……!?」
辰之助は今にも、火のくすぶる中に駆け込みそうになったけれど、それはお流が組みつくように止めた。実際にしがみついてくる。
「それはないよ! 消火隊の方が全部見てくれたんだ……誰も残っていやしない!」
「じゃあどこに……」
お流の言葉に辰之助は顔を歪めた。
が、すぐに思い当たったらしい。
「それならあっちかもしれねぇ……、ちっと見てくる!」
辰之助はそっとお流を剝がし、代わりに私の手を掴んだ。もう痛いほどの力であった。
「夜留子、急ぐぞ!」
今度は手を引かれて、私は半ば足が浮いているような感覚を覚えつつ、引っ張られるままになんとか駆けた。
心臓が嫌な具合にどきどきしている。
子一郎、無事だろうか。
この状況でいなくなるなど、嫌な予感しかしない。
胸がざわつく。
暗疎といったあの男がきっとこれをすべて仕組んだのだろう。
宗太郎、お流、それから道場のひとたち……。
傷つけられ、壊されたことに私のお腹の奥からも、ふつふつと怒りが沸いてきていた。
許さない、と思う。
今ばかりは『辰之助に協力する』という気持ちではいられなかった。
私自身が許せない。
私がこの世界にやってきて、居場所として受け入れてくれたひとたちを傷つけられたことに。
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