宮の奥へ

 ぺちぺち。

 ぺちぺち。


 頬にやわらかなものが触れている。

 触れては離れている。

 つまり、軽くはたかれているのだ。

 私はそれを自覚して、うっすら目を開けた。

 そこに映ったのは、あたたかなこげ茶色。

 その瞳が私を覗き込んでいる。

 ぼうっと数秒、見つめ返して、私ははっとした。

 そうだ、さっきのものは夢。

 今はこれが現実……。


「ああ、良かった。気付いたな」


 こげ茶の瞳の持ち主、辰之助は微笑になった。心から安堵した、という顔であった。

「戌の力を吸いすぎて、枯らしちまったかと肝を冷やしたぜ」

 辰之助はそっと私の体を持ち上げ、座る体勢にさせた。

 それで私はやっと気付く。

 辰之助の膝に頭を乗せ、寝かされていた格好だったのだと。


 あたたかさを感じたのはこのため……?


 私はなんとなくそう思い、急に恥ずかしくなってしまった。

 おまけにもうひとつ、恥ずかしいことも思いだす。

 辰之助に首すじなど触れられてしまった。

 しかもキスの形でだ。

 いくらそれが、血の流れるところを吸われたのだという不思議なものであっても、くちびるで触れられたのは間違いない。

 しかし私のその気持ちはわからないようで、辰之助は「どした、変な顔して」なんて言ったのだった。

「う、ううん……ごめんなさい、お膝を」

 よって別のほうを口に出した。

 辰之助は「ああ」と納得したように言ってくれる。信じてくれたようだ。

「夜留子なんて軽いもんさ。むしろ特別に感じて嬉しいね」

 辰之助は笑って、きっとそれは私を安心させてくれる意味だった。

 私もこんな状況ながら、つられて笑みのような表情になれたのだから。

「さ、気付いたばっかですまねぇが、ちっと行くとこがある。ついてきてくれるかね」

 辰之助に言われて、私は首を傾げた。

「行くとこ?」

「ああ」

 辰之助は単純に肯定し、くいっと親指を立てた拳を倒した。

「この宮の奥だ」

 ひたひたと廊下を歩く。

 裸足の足に吸い付くようであった。

 いつの間にか草履はなくなっていたのだ。

 浚われていたときは履いていたのに、脱げてどこかへ行ってしまったようだ。

 よくわからないながら、辰之助についていく。少し恥ずかしい、と感じながら。

 恥ずかしいのは単純なこと。

 右手を掴まれてしまっているからだ。

 「万一のことがあるといけねぇからな」と言われてこの形にされたのだけど、若い女子が手を引かれているのだ。普通に恥ずかしい。

 が、拒む理由も権利もないので、「わかった」と受け入れるしかなかったのである。

 廊下を行く間に、辰之助はぽつぽつと説明してくれた。この状況について。

「詳しいことは着いてから話すが、あんたには『戌の刻』の加護があるんだ」

「加護……?」

 加護、という言葉の意味はわかるものの、何故そんなものが私にあるというのか。

「あんたの世界じゃ、持っててもなんの力もないもんだったがな。あんたは字(あざな)があるんだろう。だから、家とか血筋とかがそうなんだろうね」


 なるほど。

 確かに私の名字は『戌井』である。一応の理屈は通るだろう。


「で、俺の持つ力は『辰の刻』……この関係がわかるか?」

 辰之助はちょっと振り返って、謎かけのように言ってきた。だが私にわかるはずがない。

 ただ、わかるとしたら……。

「時間を表す言葉、ってこと?」

 それには眉が下げられた。

「いや、その通りではあるが、それだけじゃなくて……十二支はわかるんだったな」

「え、うん」

 子、丑、寅、卯……のあれだ。日本人ならほとんどが知っているだろう。


「その十二支を円の形に収めたとき、向かいに来る位置なんだな。辰と戌ってのは」


 私は息を呑んだ。

 『円の形に収めたとき』は、実際になにかに描いて、図解しないと感覚的には掴めないだろう。

 でも辰之助が嘘を言うはずもない。向かいの位置に当たるというなら、そうなのだろう。

「それがなにか……?」

 それがなにに繋がるというのか。

 そこまではわからずに、また聞いてしまったのだけど、辰之助は私がわからないのは前提だっただろう。すぐ教えてくれた。

「反発しあうとか、相性が悪いとかがよく言われてるんだが、今回の件に関しては少し違う」

 辰之助はそこで廊下の角を曲がった。

 その突き当りには、立派な扉がある。

 木ではあるが、金色の縁取り、同じく金の取っ手、装飾も豪華だ。

 きっとここが目的地。

 私は悟って、その通りであった。


「光(こう)と暗(あん)の関係においては逆の意味になる、すなわち、引き合って互いの力を増幅する、って具合だ」


 辰之助は私を見て、言った。その瞳は穏やかで、優しくて。

 私はつい見入ってしまった。

 すぐに辰之助は前を向いて、扉の金色の取っ手を手に取った。かん、かん、と音がして、きっとノックだったのだろう。

「入るぜ」

 返事はなかったけれど、辰之助はぎぃ、と扉を開けて、中へ向かう。

 私も戸惑いつつ、手を引かれるままに中に入った。

 中に居たのは中年の男性だった。

 白髪の混じった赤髪をうしろでくくっているようで、体格はとてもいい。

 先程の部屋のように、板張りの部屋の中、少し高くなった畳の間に正座している。

 目を閉じていたようだが、辰之助と私が入っていったことで、目を開けた。

 その瞳。

 なんだか既視感を覚えた。

 あたたかな茶色。

「よう、親父。久しぶり」

 辰之助はずかずかと入っていき、板張りの場所、畳敷きの前で止まった。私もとことことついていったのだけど。


 ……親父!?

 この方が!?

 いかにもこの建物に住んでいますといった様子の方が?


 私は目を白黒させてしまった。

 だって、辰之助は町の長屋なんてところに一人暮らしをしていたではないか。

 お世辞にも立派とか豪華とか言えないような家に。

 おまけに宗太郎やお流に言わせると、ばらがきという不良……。

 それが、どうして。

「ま、座れよ」

 私の動揺はわかるだろうに、辰之助は私を招き、自分もどかっと座った。遠慮もなくあぐらをかく。

 私はどうしようと思いつつも、突っ立っているわけにもいかないので、小さく頭を下げて、すっと正座をした。また痺れさせないように気をつけつつ。

「よく参った。戌の娘」

 目の前の男性に呼ばれて、私は怒鳴られたわけでもないのに首をすくめてしまう。

 そう言われても、まだ辰之助に少し説明されただけなのだ。「はい!」なんて元気に肯定できるものか。

「暗疎には逃げられたようだな」

「俺のせいじゃねぇや。撃退しただけでも褒めてほしいね」

 今度の言葉は辰之助に向いていた。

 おまけにじろっと睨むような視線で、横にいた私すら、もうひとつ首をすくめた。

 なのに辰之助は効いた様子もなく、堂々と言い返す。図太いといえるまでの返しであった。

「ま、それはいい。それより親父、時間がない。あれを」

 辰之助が促す。

 男性は小さくため息をついて、その場を立った。

 うしろへ向かい、そこにあった豪華な装飾棚のひとつの引き出しを開ける。

 なにが出てくるのか、と思った私だったが。

 出てきたのは小さなナイフのようなものであった。

 この世界風になら、小刀、とか言えるだろう。

「夜留子とか言ったな。私は旭光の長。申之助(しんのすけ)と言う」

「は、はい」

 申之助と名乗った彼、文字は響き的にきっと辰之助と同じ字なのだろうな、と私は思った。

「暗の者……妖魔と俗に呼ばれるあれを祓うために、戌の子の力が必要だ。少しでいい。この愚息にお貸し願えないだろうか」

「愚息とは酷い言い様だな」

 辰之助が苦笑するのが見えたけれど、それは申之助によって無視された。彼は私だけを見ているのだから。

「あの……なにか、私の中からなくなったりするんでしょうか。それから……、……」

 必要だとか、貸してほしいとか言われても、はいわかりました、とすぐには言えない。

 だって、なにか大切なものが私の中からなくなるのなら困ってしまうではないか。

 そして、もうひとつ。

 私が言いたかったことはすぐわかったのだろう。申之助は口の端を少し上げた。それは多分、笑みだった。

「元の世界に帰れるか、だな。ああ、帰れるとも。こやつの力で送らせよう」

「辰さんの……?」

 申之助は今度、きちんと辰之助を見やった。私は内心、首を傾げて辰之助を見る。

「辰よ、お前、どこまで話したのだ」

 私の様子に、『理解されていない』と知ったようで、申之助はどこか呆れたように言った。

 辰之助は気まずそうに少し首をすくめるのが見えて、私はそんな場合ではないのに少しおかしくなってしまった。

 ここばかりは、普通に父親に頭が上がらない息子の様子だったものだから。

「戌の子の力が必要ってことと、俺の力を増幅させる力があるってことだね」

「それっぽっちか。不親切な……」

 申之助は口の中でなにかぶつぶつ言ったけれど、すぐ私に向き合ってくれた。

「すまんな。つまらん息子で。仕方がないから私から説明するか」

 そこから申之助の話がはじまった。私はここにきてやっと詳細な説明が聞ける、と思って、しっかり座り直した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る