推しを飼いたい ~人生をかけて推し活している相手は、近所に住むお嬢様女子高生。ある日突然、「私を飼って」と家に上がり込まれました~

いとうヒンジ

推しを飼いたい



 私にとって仕事は生きるためのお金を得るための手段でしかなく、やりがいとか生きがいとか生きる意味とか、そんなキラキラしたものでは断じてない。


 今日も今日とて、禿散らかした上司に怒鳴られ、客先のデブ親父にはセクハラされ、挙句帰りにビールを買ったら年確までされて(これは別に店員さんは悪くない)、もうほんと散々な一日だった。


 そんな仕事で疲弊しきった社会人三年目の私――一ノ瀬美紀を癒してくれるのは、推しである。


 今日も生きていてくれてありがとう。

 今日も笑顔でいてくれてありがとう。


 そんな、この世界に存在してくれているだけで奇跡のようにありがたい推しがいるからこそ、私は何とか日々を生きているのだ。


 ただし。


 私の推しは、芸能人でも地下アイドルでも二次元のキャラでもない。テレビをつけても映らないし、インターネットで検索しようにも下の名前すらわからない――そんな推しだ。


 少し変わってる? その自覚はある。


 でも、私の生活には欠かせなくて、こそ私の生きる意味で、がいない世界なんて到底考えられなくて、のためなら全てを捧げてもいいと思える――そんな推しなのだ。


 佐久間ちゃん。


 その苗字しか知らない女子高生は、私の住むボロアパートの向かいの、大層立派な門構えをした大豪邸に住んでいるお嬢様。


 今日も私は。


 彼女のために――推し活をするのだ。





「おはようございます」



 爽やかな空気と晴れた空は、きっと仕事に向かう私を馬鹿にしているんだろうと太陽を睨みつけていたら――不意に声を掛けられた。


 今の時代、見知らぬ他人に挨拶をすることなんて滅多にないだろう……それもこんな、世界の全てを憎んでいるみたいな人相の悪い成人女性に挨拶をする女子高生なんているはず……って、え?



「あ……えっと……」



 私に声を掛けたのは、他でもない。


 向かいの大豪邸に住む推しの女子高生、佐久間ちゃんだった。


 思考停止。



「……」



「あの、大丈夫ですか?」



「……あ、えっと、大丈夫、です……」



 これは夢か? うん、そうに違いない……ただ万が一現実だった可能性を考慮して、この場で頬をつねるのはやめておこう。佐久間ちゃんに引かれてしまう。



「大丈夫ならよかったです。お仕事、頑張ってくださいね」



 彼女はそう言い残し、私の行く方向とは反対の道へと歩き出した。彼女の通うお嬢様学校はここから徒歩で五分程だから、私と違って駅に行く必要はないのである。



「……」



 遠くなった彼女の背が道の角に消えたのを見て、私はようやく、自分の頬をつねった。


 なんなら平手打ちまでしてみた。


 でも、夢から覚める気配なんて微塵もなくて、頬に残る痛みは現実をジンジンと主張してくる。



「……しゃべっちゃった。佐久間ちゃんと」



 今にも叫び出したい気持ちを堪え、私は駅へと歩き出した。





 駅へ向かったはいいものの、しかしこんな精神状態ではまともに仕事ができるはずもないので、貴重な有休を一つ消化し、今日は会社を休むことにした。


 電話口で嫌味な禿上司がグチグチ言っていたが、そんなことは気にもならない。


 だって。


 私は今日――推しとしゃべったんだから。



「……信じられない」



 足早にアパートへと戻った私は、勢いよく布団にダイブする。そして今朝あった出来事を絶対に忘れないよう、頭の中で記憶を何度も反芻した。


 近くで見ると本当に可愛かったなぁ。全身から溢れるオーラが、ザ・お嬢様といった気品に溢れていて、それでいて少しの嫌味もない爽やかな笑顔だった。



「……」



 私は狭い部屋の隅に目をやる。


 そこには、この部屋に対しては大きすぎるタンスと、厳重に封をしたダンボール箱が一つ、鎮座していた。


 タンスには洋服。

 ダンボールには、現金が入っている。



「……」



 布団から立ち上がり、タンスの一番上を引き出すと――私なんかには似つかわしくないきゃぴっとした服が何着も仕舞ってあった。


 例えば――佐久間ちゃんが着たら似合うであろう服が、大量に。


 身長は小さくて、瞳は薄っすら茶色がかっていて、髪は輝く黒髪で、肌は陶器みたいに白くて滑らかな……そんな彼女にピッタリな服。


 もちろん、サイズが違うので私は着ることができない。これらは全て、佐久間ちゃんにあげたら喜んでくれるだろうという一心で買った、いわば推し活の証なのだ。


 そして――ダンボールに入っている三百万弱の現金は、彼女にもしものことがあった時用に貯めた、推し貯金なのである。まあ見ての通り佐久間ちゃんのご実家はお金持ちなので絶対に使うことはないが、しかし推しのために貯金することに意味があるのだ。


 この現金を貯めるため、私はかなり切り詰めた生活をしている……家賃激安のボロアパートに住み、食費がない月は食べられる野草を探す。ビールだけは例外だが、それくらいは許してくれるはずだ。


 推しのために買った服と、推しのために貯めたお金。


 気持ち悪い? そんなことはわかっている。


 でもこれが、私の人生の全てで。


 私の――推し活だ。





「すみません」



 平日に休めるというのは最高の休息らしく、私は昼過ぎから今に至るまで、死んだように眠っていたらしい。


 時刻は夜の十一時。そろそろ胃に何か入れたいとぼんやり考えていたら、玄関から声が聞こえた。


 その声はとても透き通った絹のような繊細さを持ち、心地よく耳に入ってくる。


 ……でもなぜだろう。私は最近、この声を聞いた気が――




「向かいに住んでいる佐久間と申します。一ノ瀬さん、いらっしゃいますか?」




 心臓が止まった。


 ……え、なに? どんなドッキリどんな冗談? 佐久間ちゃんが私の部屋を訪ねてくるわけないじゃない……そんなこと、例え天地がひっくり返ってもありはしない。


 これはさすがに夢だろうと、強めの一発を右頬にお見舞いする。



「……いったぁ」



 痛い……これは確かに、現実の痛み。


 ということは、今、玄関の扉の向こうにいるのは、あの佐久間ちゃん?


 私は息を殺しながら恐る恐る扉へと近づき、そっと鍵を回す。



「あ、やっぱりいた。こんばんは、一ノ瀬さん。今朝ぶりですね」



 そこに立っていたのは、紛れもなく私の推しだった。





「えっと、佐久間ちゃん、だっけ? どうしたの、こんな時間に」



 私が彼女と面識を持ったのは今朝が初めてだ……無論、名前を知っていてはいけないので、誤魔化すような話し方になる。



「そんな他人行儀にしないでくださいよ、一ノ瀬さん。あなた、前から私のこと見てましたよね?」



「――っ」



 気づかれていた。

 細心の注意を払って見守っていたのに……どうやら考えも行動も甘かったようである。



「実は私も、



「私を、見てた……?」



 そう言えば。


 佐久間ちゃんはどうして――私の苗字を知っている?


 このボロアパートに、……。



「あなたが私を見ていると気づいてから、私もずっと見ていました。名前や家族構成、恋人の有無も調べました」



「……」



「不自然に小さいサイズの服を買っているの、私のためなんですよね? プレゼントする相手はいないはずです」



「……」



「それで確信しました。あの人は、って……私が生きているだけで肯定してくれる人なんだって、わかったんです」



 いつの間にか。


 彼女は私を押し倒すように馬乗りになり――私はそれに、抵抗できなかった。


 彼女の薄く張りのある唇が――重なる。




「一ノ瀬さん……私を飼ってくれませんか?」






 推しとキスをしてしまった。


 頭は回らないし心臓は爆発しそうだし……吐くまで酩酊してもここまでじゃない。



「ふふ。赤くなって、可愛いです」



 佐久間ちゃんは私の上から降り、布団の上に正座する。制服姿の女子高生が布団にいるという非日常が展開されていた。



「綺麗ですね。もうほんと、食べちゃいたいくらい」



「……えっと、佐久間ちゃん? こういうのはその、あんまりよろしくないというか……成人した大人として、これ以上この不健全な状況に身を置くことに抵抗があるというか……」



「この状況って、夜遅くに未成年を家に連れ込んで、キスしちゃったことですか?」



 そう、客観的な第三者がこの部屋を見れば、一ノ瀬美紀は立派な悪人になってしまうのだ。生まれてこの方万引すらしたことのない私が、未成年淫行や誘拐で捕まるなんて考えたくもない。


 いくら生涯を掛けて推し活している相手が目の前にいるからといって、本来ならすぐさま迅速にお帰り頂くのが正しい判断なのだろう。


 だが。


 佐久間ちゃんは――泣いていた。



「……私の親、すごく厳しいんです。勉強もスポーツも、三歳から習っているピアノも五歳で始めた茶道も、全部一番じゃないと気が済まないんです。あの人たちは、



 見てくれない。

 そう言う彼女の頬を、透明の涙が伝う。



「でも、一ノ瀬さんは違います。初めてあなたの視線に気づいた時……私、嬉しかったんです」



「嬉しかった? どうして?」



「一ノ瀬さんは、ただ純粋に佐久間千鶴のことを見てくれていました。私の家のことや学校のこと、習い事のことなんかも何も関係なく、ただ私だけのことを」



「それは……その、大それた話じゃなくて、ただ佐久間ちゃんが可愛かったから……」



「私は、



 こちらの言葉を遮るように、彼女は力強く言う。



「可愛いだけで、生きているだけで、呼吸しているだけで、そこにいるだけで、存在するだけで、見ているだけで、愛される……あなたならこのお願い事、叶えてくれますよね?」



「さ、佐久間ちゃん……」



「千鶴って、呼んでください」



 言って。



 千鶴は再び――私と唇を重ねた。



 私は彼女の小さな手を握りながら、部屋の隅のダンボール箱に目をやる。


 あれだけあれば、まあ当分は。


 この、可愛いだけで愛されたいという、どこか心が壊れてしまったお嬢様を――飼うことはできるだろう。


 同じく壊れた者同士、以外と仲良くやっていけそうだ。


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