第11話 首に傷痕

どいつもこいつも、つける薬がないと首を横に振り、リュクスは恨めしい気分で言う。


「君は立場に伴う責任を負うのが嫌なだけでしょ」


「そのようなことはございません」




心外とばかりに眉をひそめ、悪魔は平然と嘘をつく。




放っておけば終わらない茶番と察したか、






「ノディエ閣下」






リュクスを呼びながら、誰かが席を立つ音がした。


その低い響きのいい声が、食堂は食堂でも、皇族専用の広い室内にそっと広がる。




二人が目を向けた先にいたのは、癖のある燃えるような赤毛を後ろで一つに束ねた男。目が合えば、彼は空色の瞳を和ませた。








彼が、リカルド・パジェス。35歳。


謹厳実直と言った容姿の彼は、帝国すべての騎士たちの頂点である将軍にして、憧れの存在だ。




この、日頃は落ち着き払った声が、戦場に立てば、戦士たち全員の腹の底まで震わせる裂帛の気合となり、激しい戦闘へ駆り立てるなど、誰が想像できるだろうか。








「ヒューゴの説得は、また今度―――――さあ、君たちは下がりたまえ」








ぱん、と大きな掌を彼が打ち合わせた。とたん、給仕のために立ち働いていた侍従・侍女たちが、揃って動きを止める。すぐさまやりかけの作業を中断。


一斉に、頭を下げた。波が引くように食堂から出て行く。




それを尻目に、リュクスは皿の上の野菜にフォークを突き立てた。


「けれどね、パジェス将軍。このままだと、次の戦勝の宴もボイコットだよコイツは」




「おやそれは困りましたな」




着席しながら、リカルドは穏やかに応じる。


「では閣下、今度、共同戦線を張って」




「奴隷風情を宰相と将軍が挟み撃ちか?」




侍従たちが姿を消すなり、ようやくヒューゴは素を出した。








敬語を取っ払って、簡単に言うなりになりそうな雰囲気を消す。




それだけで、がらりと空気が変わった。








「俺は全力で逃げるだけだな。俺が本気で逃げたら誰も捕まえられないぞ」


にやりと笑って、リヒトの方へ足を向ける。


不満げに、リュクス。




「宴に出るくらいなんだって言うのさ」


「皇帝主催の宴だろ。奴隷が出られるわけがない。つまりは」




「騎士の叙勲は受けて頂かなくてはなりませんな」




言葉尻を捕らえたリカルドが微笑むのに、ヒューゴは顔をしかめた。






「その上で窮屈に着飾って誰彼となく会話しなきゃならないなんて、地獄の方がまだましだな」






想像だけで疲れた態度で、ヒューゴ。


「いつもと違う服着て人と話すだけの何がだめなのさ」






「『だけ』ですむかよ、簡単そうに言っても騙されないぞ」






ヒューゴは、作業途中で放り出されたワゴンを横へ避けざま、ちらとその上の状態を目に映す。


そこに広がるのは、慣れないような雑な片付け方。


そこから、扉の方へ視線を移し、




「微妙に、要所要所で新人が配置されてるな」




「ああ、そうなんだよね。侍従たちの中に新顔が増えた気がする。外の騎士もそうだったんだよね?」


「だけじゃないぞ、奴隷もそうなんだよ」




「奴隷も? 集団食中毒があったという話もありませんが…妙ですな」




顎を撫でたリカルドがひとつ頷く。


「組織内における要職の者がすげ変わった話はありませんから、中より下の者たちでしょうが」


「この間から違和感はあったけど、言われてみれば、だんだん目につくようになってきたね。…調査の必要がある、か」




真面目な顔で頷くなり、リュクスはすぐ疲れた顔になった。






「ぼく家に帰りたい…もう五日、皇宮に詰めてるんだけど」






「皇宮のメシは美味いんだからいいじゃないか」


先ほどからナイフもフォークも動きを止めないリュクスに言えば、




「ぼくの屋敷のご飯だって美味しいよっ?」


料理を口に限界まで詰め込んだ彼の反論を聞き流し、


「ヒューゴ」


それまで黙っていたリヒトが、なかなか近くへやってこないヒューゴに手を伸ばした。




「ああ、悪い」


すぐ足を向けたヒューゴに、リヒトの目が細められる。




「…どうした?」


座るリヒトに顔を近づけるようにヒューゴが腰を屈めれば、












「…首に傷ができている」












そんな言葉と共に、ヒューゴの首にリヒトの指が触れた。


黄金の目が、怖くなるほど真剣だ。




「ヒューゴに傷?」




驚きの声を上げたリュクス以上に、ヒューゴの方が驚く。








首を傷つけられたとしたら、先だって、青年が首を絞めてきた時の話だろう。


革の首輪をしているのに、覆われていない場所にわざわざつけたわけだ。




そして彼は、ヒューゴがオリエス帝国皇帝の奴隷ということは承知だった。即ち。








皇帝への挑発。








「―――――やったのは、誰だ?」




リヒトの声から温度が抜ける。ゆらり、彼がまとう空気が、大きく揺らいだ。つまりは、リヒトが内包する、強大な神聖力が。






立ち昇ったのは、冷たい怒り。






ヒューゴは内心、逃げ腰になる。


ただ、彼の悪い癖として、こういう時、表面上はからかう態度を取ってしまう。今日も今日とて、






「知りたいのか?」






…そんな風に、意外だとでも言いたげに。




ヒューゴとしては単純に、一呼吸おいて相手に落ち着いてほしいわけだが。










時にその態度は逆効果になる場合がある。










リヒトの黄金の目が、瞬いた。冷たいような光を宿して。


それだけでも、気の弱い者は本能的に命乞いするだろう。


物騒さを増す一方で、リヒトは微笑んだ。




「ヒューゴに傷をつけたのなら、僕への宣戦布告だろう?」




ヒューゴとて、すぐに答えない理由は、隠そうとしているからではない。


同じ悪魔とはいえ、庇う理由もなかった。






リヒトの敵はヒューゴの敵だ。






それにこの場合、


「落ち着いてよ、リヒト」


リュクスが声を挟んできた。


だが、気もそぞろなことは、視線が食事にだけ向いている様子からはっきりしている。




彼はヒューゴを庇う気などさらさらない。


リヒトが無意識に放つ圧力によって、美味しい食事を邪魔されるのが不快なだけだ。




「ヒューゴは相手を庇ったり隠したりはしないよ。そのつもりなら、傷を自分でなおしてきた、そうでしょ」








…その通り、この場合は、傷に気付かず、なおさなかったヒューゴに責があった。








屈めていた身を起こし、ヒューゴは自身の首を撫でる。すぐさま、傷は消え去った。


他が何かを言う前に、ヒューゴは告げる。














「悪魔」














リヒトが微かに目を瞠った。


リュクスの食事の手が止まる。


リカルドが手の内のカップの中身をゆらりと揺らした。




「俺に傷をつけたのは、悪魔だよ」




「つまり、ヒューゴは」


リカルドが思慮深げな声で正解を口にする。










「この皇宮内で、ご自身以外の、悪魔に会ったというのですな」










刹那、室内の空気が、容赦なく塗り替わった。


和やかな食事の席についていた誰かが入れ替わったというわけでもないのに。




今すぐこの場で誰かが死んでもおかしくない、と言った空気が。




じわり、と黒く淀む。






日常的に繰り返される気安い会話に騙されがちだが、忘れてはならない。










この場に集うのは、この国の首脳部。




それも、もっとも帝位から遠いと思われていながら、数年のうちに権力を掌握した者たちである。












…真っ当な人間では、ない。いい意味でも悪い意味でも。








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