第9話 一番のバケモノ
―――――かつて、リヒトは願った。
ヒューゴに。
リヒトが死ぬまでずっと、そばにいてほしい、と。
彼がただの人間なら、問題はなかった。問題となったのは、リヒトの神聖力だ。
ヒューゴは力の強い悪魔である。
ゆえに、簡単に消滅などしない。
が、リヒトの神聖力は強大だ。
ヒューゴですら危ういほどに。
力のない悪魔なら瞬時に消し飛ぶだろう。
というか、実際に消し飛んだところを何度も見た。正直言おう。
怖い。
心底、怖い。成長すればするほど、ヒューゴはリヒトが。
なのに、幼い頃から見ていたせいか、心配でたまらない。常に案じられる。
自覚はある。
ヒューゴのこれは、ひどく矛盾した感情だ。本来、両立などしないシロモノ。
なんにしろ、ただリヒトのそばにいる、それだけならばヒューゴとていずれ消え去るのは必然。
結局、ヒューゴは悪魔なのだ。
そうならないためにはどうすればいいか。
神聖力で削られる悪魔の力を、神聖力に耐え続けられる分量だけは常に保持し続ける必要がある。
保持し続けるためには、神聖力を食う必要があった。神聖力は悪魔の力になる。
よって、ヒューゴはリヒトのそれを、精気を吸い上げる方法で摂取していた。
ヒューゴがリヒトの願いを叶える代償が、このように、リヒトを食うことになったのは、必然だ。
ただしそんなことまで知っているのは、本当にわずかな人間だけだった。
表向き、ヒューゴの役割は、『奴隷傭兵』であり、『捕らえられた悪魔』である。
ただ―――――そのためだろうか。
「あぁ、お前が噂の、神聖力で捕まった間抜けか」
…こうして絡まれることがある。人間にも悪魔にも。
ヒューゴの私室がある奴隷棟でリヒトの衣類の始末を終え、皇宮の渡り廊下まで出たところで、すれ違った相手に声をかけられたわけだが。
(…コイツ)
ヒューゴは足を止め、相手をまじまじ見つめた。
相手が、すれ違う前から、ただの人間でないことは理解していた。が、正面に立てばはっきりと正体が見える。そう、正体。
これは、人間ではない。青年の姿をとっているが―――――悪魔だ。しかも。
ヒューゴのように、ヒト型になっているわけではない。
なるほど、こんな化け方があるのだな、と感心しながら、ヒューゴは首を傾げた。
「その趣味が悪い『着ぐるみ』、お前が用意したものか?」
ヒューゴの目の前にいるのは、青年―――――それこそが、着ぐるみ。人間の、皮だ。つまり。
…本来の、中身は。
聞きながらも答えは求めず、ヒューゴは青年から視線を逸らす。彼がやってきた方を見た。
そちらにあるのは、後宮。さらに言えば、東側。ということは。
(王国ハディスの関係者か)
あちら側には、ハディス王国の王女―――――フィオナ・ハディスの宮殿がある。
厳しく、教育が行き届いた彼女の監視網を掻い潜って、身元不明者の出入りは不可能だ。
つまりこの青年は彼女が知った上での来訪者ということで。…要するに。
(貴賓)
視線を戻せば、そう見目は悪くない男は、奇妙な表情をした。怒っているような、半分泣いているような。
おそらくは、笑ったのだろう。
筋肉の使い方に慣れない、そんな印象を受けた。
相手の状況を考えれば、それは仕方のないことだ。
だが、これでは折角の、うつくしい銀髪碧眼が台無しだ。まさかこの碧眼も本来の持ち主から奪ったものなのだろうか。
「おっと、口の利き方には気をつけろよ」
ヒューゴを侮り切った声で、悪魔は続けた。
「『この身体』はそれなりに高い身分らしいから」
ハディス王国は、帝国との戦争に敗北した、敗戦国である。結果、多額の賠償を負った。
ただし交渉の結果、王女を差し出し、オリエス皇室と姻戚関係を結ぶことによって帝国の属国として生きながらえた国である。そんな国の、
(高い身分、か)
目の前の男は、やはり貴賓なのだろう。が、ハディス王国で王族が亡くなったという話は聞かない。
国の王族は、戦争にも参加しなかった。では王族ではないのだろうが。
「そんな高い身分の人間の死体を、召喚者が用意したのか?」
それとも悪魔が殺したのか。
聞く途中で、ヒューゴは言葉を消した。思考が一瞬で切り替わる。
「いや、どうでもいいか」
乾いた声で呟いた。
ヒューゴにとって大事なのはリヒトだ。悪魔に尋ねはしたものの、相手の目的には興味がない。
この悪魔が何の目的で召喚されたにしろ、リヒトに関わりがないなら勝手に遊戯を愉しんでいればいい。
だいたい悪魔がなんの条件もなく地上へやってくることなどできない。
悪魔と契約した召喚者が差し出す代償が必要だ。目的の度合いによっては、それが命となる場合もある。もしくは。
(魂)
代償は大きい。
だが悪魔の力を欲するものは意外と多く、召喚の儀式は絶えない。
ハディス王国のそれなりに高い身分らしい青年は、…いや、悪魔は、にやにや笑いながらヒューゴの顔を覗き込んだ。
無造作にヒューゴへ手を伸ばす。
舐め切った態度だ。
だが、ヒューゴは避けない。片手で首を掴まれる。
が、表情一つ動かさず、じわじわと締め上げる力に黙って息を止めた。
「つまらないな…神聖力にさらされ続けて、相当、弱ったんだな?」
いっきに退屈そうになった声にも、ヒューゴは微動だにしない。
男性的に整った顔は無表情で、崩れもしなかった。
ただ、濃紺の瞳だけが、悔しいほどに動じない。怯むほどに、真っ直ぐだ。
その目に一瞬震え、相手は手を引っ込めた。
やり返すように、侮蔑する視線を向ける。
「遊びに混ぜてやろうと思ったから、声をかけたんだけど…」
咳込みもしない不動のヒューゴの前で、相手は一歩下がった。
「こんなに弱ってんじゃ、だめだな」
距離を保った状態で、ヒューゴとすれ違う。
「お気遣いどーも」
ヒューゴは前を向いたまま肩を竦めた。
「けど俺は、遊びが嫌いでね」
余裕のまま、笑う。
「一人で寝てる方がよっぽど楽しい」
だいたい、前世の記憶が蘇って以来、数百年間はそうしてきたのだ。
悪友からすきっ腹の音がうるさいと文句を言われた時に、食事のために起き上がる程度で、ヒューゴは基本、ずっと寝ていた。
負け惜しみだな、と笑いながら青年は離れていく。
「皇帝なんかに捕まった以上」
不意に、相手は強い声を出した。ヒューゴの言葉を打ち払うように。
「お前にもう自由はない」
青年は勝手なことを言って嘲る。
「もちろん、あの皇帝のそばでも、無事でいられるってことは、それなりの悪魔なんだろうが、あんなバケモノの近くにいる以上、すぐ死ぬ」
呪いのような悪意に満ちた声で。
そのくせ、すぐ親し気な態度に翻り、悪企みに巻き込む口調で唆してくる。
「そうだ、どうせ死ぬなら、皇帝を一口でも食ってみろよ。神聖力ってのは、すげえ美味い」
手を出そうものなら、リヒトは悪魔など瞬時に消し炭にするだろう。
どちらにせよ近いうちに死ぬなら、最後に挑戦してみろ、と相手は言っているわけだ。
相手がヒューゴを完全に侮っていることは理解したが、それはヒューゴを特に揺さぶりはしなかった。
何事もなかったかのように互いに分かれ、数歩進んだ後で。
「…あ?」
青年の台詞に引っ掛かりを感じて、ヒューゴは振り返った。だが、青年の姿はもうどこにもない。
つまり、ヒューゴのようにちまちま歩いて移動しているわけではないということだ。悪魔なのだから、当然だろう。
ヒューゴの方が変わっているのだ。
気配を辿って追いかけようとした寸前、ヒューゴは思いとどまる。眉をひそめた。
―――――神聖力ってのは、すげえ美味い。
(…なんだ?)
まるで、実際に食べたことがあるかのような、欲望むき出しで涎が滲んでいるかのような台詞だった。
ヒューゴはすぐ、踵を返す。
リヒトの身が案じられた。
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