第2話 プレゼント。
麻乃と景子の乗る桜色のレヴォーグが先に国道五十八号線を左折していく。交通量の多い場所で二人の後をついて、ゆっくりと走るわけにはいかないという判断からだった。
「勇くん、行きましょうか?」
「うん、お姉ちゃん」
ツール・ド・おきなわ開催期間中は、ここから全コース、レースの時間帯で一部の車線を、通行止めにして行われていた。だが、今日はそうではないから、全車線とも車が走っている。だから咄嗟に怒るであろう事故などにも、注意して進まなければならないだろう。
この先、宮里四丁目北交差点を左に曲がったあたりで待ってるとのこと。そこまでは、勇次郎が先に、杏奈が後になって進んでいく。速度はおおよそ、時速十キロから十五キロくらいだろうか? 本来ならもう少しスピードを出せるのだが、それには理由がある。
この界隈、左側の歩道には、歩道と自転車レーンが併設されている。だがここは、『あのときと同じレースを行ったコースを走る』という意味でも、勇次郎も道路を走りたいだろう。
だが今は、交通規制が一際されていない。それゆえに、自転車レーンがある場所は、そこを走ることになっている。だからここは、多少スピードが落ちようとも、決まりに従って走らざるを得ない。
ここを走る自転車は、勇次郎たちが乗るスポーツバイクだけではない。
地方自治体によっては、双方向通行可能な自転車レーンもあるだろうが、ここのレーンは通り基本一方通行である。進行方向は左側通行の右側を走る自動車と同じだが、逆走してくる自転車も少なくはない。道路の路肩を逆走してくる自転車が存在するのと同じように、避けられない事実だったりするわけだ。だからそのあたりは、細心の注意が必要になるだろう。
ここ名護市は北部地区ということもあり、風はひんやりしていて快適。日差しは二人を優しく包むように暖かく、早朝ということもあり人も少なく安全に走れている。
(華奢な身体、あの可愛らしいお尻。わたしの前を、勇きゅんが走ってるという事実だけで、十分幸せすぎるわ……)
心の声をダダ漏れになるのを必死に押さえながら、前を行く勇次郎を眺めながら進んでいく杏奈。そんな獲物を狙う狼のような、杏奈の視線を気づくこともない勇次郎。
(いいなぁ。さいっこうだなー。あっちでは平坦地が少ないから。走りやすいよねー)
勇次郎の内心は、楽しくて仕方ない状態。前にこちらへ来たときは、時間を掛けて自走してきた。今日はここまで車で、帰りも名護から車。なんて贅沢なんだろうと、勇次郎は思ったはずだ。
その昔、登山を趣味とする人が内地(本土のことを沖縄ではこう呼ぶ)から越してきた際、『沖縄には山がない』と嘆いたという噂があった。確かに、沖縄本島で一番標高の高い場所は、北部地区国頭村にある
だが、沖縄本島は平野でないため、勇次郎が言うように平坦な道がとにかく少ない。東海岸から西海岸方面へ、ただ抜けるだけでおおよそ百メートルの高低差がある坂道を登らなければならない。長崎県に次ぐと言われるほどの、坂の多さ。一家庭に
沖縄はとにかく、自転車に乗る人が少ない。夏場の紫外線量が、内地の倍近くあったり、日照時間の長さもトップクラス。自転車に紫外線対策なしで長時間乗っていると、夏にどんより曇りの日だったとして、日焼けをしてしまうくらい、自転車乗りにはきつい地域だったりするわけだ。
この北部地区でツール・ド・おきなわが開催されるのは、さまざまな要因もあるだろうが、快適に走れる平坦地の多さもそのひとつだと、勇次郎は思っていただろう。事実、地元
勇次郎が動画配信サイト『テラチューブ』で。内地にいる『自転車系
しばらく自転車レーンを進んでいくと、赤丸に似た看板のあるファミリーレストランが目印の交差点にさしかかる。ここで自転車レーンとはお別れとなるわけだ。国道五十八号線を左折すると、名護市から本部町へ伸びる国道四百四十九号線に入っていく。
そこでやっと、ハザードを
『勇くん聞こえる?』
骨伝導ヘッドホンからはっきりと聞こえる杏奈の声。
『はい』
『ここからはわたしが前に出ますね』
『はい。お願いします』
『わたしのあとをついて、麻乃たちの車の前に出ますよ?』
『はい』
杏奈が勇次郎を抜いて先頭に出る。そのまま、レヴォーグを追い抜く。左を見ると、麻乃が外へ出て手を振って見送ってくれる。景子も運転席の窓から、笑顔でお見送り。
『勇次郎様、聞こえますでしょうか?』
『あ、はい。大丈夫です』
杏奈の声同様、麻乃の声もしっかりと聞こえる。
『私たちは、後から見守るように追走しますので、安心して走ってくださいね』
『うん、ありがとう』
『手前のドリンクボトルには、特製のミネラル豊富なドリンクが、後のボトルには水が入っています。比較的涼しいとはいえ、自転車は有酸素運動。捕球は忘れないようにお願いいたしますね』
『了解ですよー』
勇次郎たちが抜いていくと、麻乃が助手席に乗り込み、レヴォーグが発進する。
ハンドルに着けられているサイクルコンピュータに表示された速度は、現在二十キロほど。まだまだ杏奈はゆっくり走ってくれるようだ。それでも自転車レーンより走りやすく、路面も綺麗だから速度は伸びていく。ただ、車が追い抜いていくだろうから、更なる注意は必要だ。
「うわぁ」
左を見ると碧い海が広がる。沖縄の海は、南部がエメラルドグリーン、北部はコバルトブルーだと言われている。そこにある珊瑚などの色や、光源の具合もあるのだろうが、概ね間違ってはいない。
美しい光景と、前に走る杏奈の姿。海とは比べものにならないほど、勇次郎にとって彼女は憧れた存在。そんな彼女があのときの姿のまま、すぐ前を走ってくれている。これほどのプレゼントが予想できたであろうか?
(これ、ビデオで撮っておきたかった……)
特等席、アリーナ席、最高のシチュエーション。勇次郎は、内心そう思っただろう。
『勇くん』
『はいっ』
『少しだけケイデンス上げるけど、大丈夫かしら?』
杏奈のいう『ケイデンス』とは、ペダルを一分当たりに何回回転させるかの数値である。速度を見ると、二十キロを行ったり来たり。それほど強くはない向かい風。勇次郎は強がることなく返事をする。
『まだまだ大丈夫だよ』
『そう。しばらくの間、わたしが引くから。もう少し前に詰めてくれる?』
なんと、憧れの杏奈が引いてくれるというではないか? ここでいう『引く』とは、風よけになってくれるということ。ロードバイクなどの自転車は、風の影響を受けやすい。
『いいの? お姉ちゃん』
『――はぅぁっ。……大丈夫、これでも現役の選手なんですからね?』
するすると、速度を上げていく杏奈。二十五キロ、三十キロ、三十五キロ。勇次郎は杏奈のすぐ後へぴたりとついて走っているからか、風の影響が少ない。
『あら? 本当に走るのですね、その可愛らしいバイク』
杏奈と違って選手でもない勇次郎が、風の影響が少ないとはいえ余裕で着いてこれている。勇次郎の乗る自転車が『ロードバイクではないから、大丈夫だろうか?』と心配していた杏奈だったが、それは杞憂だったようだ。
『だから言ったでしょ? 走るって』
『あらぁ、それならもう少し、回しても大丈夫なのかしらね?』
杏奈は軽く後を振り向き、勇次郎の位置を確認する。言葉遣いは麻乃のときとは違って、いつものように丁寧ではあるが、口調や声の高揚から杏奈も楽しそうにしているのは勇次郎にもわかっただろう。
『大丈夫だよ。疲れたらギブアップするからね』
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