第二章 ふたりの誕生日
第1話 サプライズ。
沖縄自動車道を北上中の、杏奈、勇次郎、麻乃、景子の四人。桜色のスバルレヴォーグの車体には、『東比嘉大学女子自転車部』。これは先日、杏奈が出場したレースの際にも使用された、備品のひとつでもある。
沖縄では思いのほか、学校関係の車も多く走っており、このように車体へ
三月二十七日、勇次郎の誕生日前日。現在時刻は六時を回ろうとしていた。那覇インターから乗り、五分ほど経っただろうか? 勇次郎は五時起きという、いつもより早起きだったからか、杏奈に身体を預けて必然的な二度寝の真っ最中。
『――すはぁ。温かくて柔らかくていい匂い、これが
杏奈にも感じられる、勇次郎の規則正しい寝息。自分の左肩に寄りかかる、彼の無防備な姿。これが彼女にとって、ご褒美以外の何物でもないのは確かだろう。
『杏奈お嬢様、表現が少々露骨でございます』
勇次郎を起こさないように、小声で呟く杏奈と、小声でツッコミを入れる麻乃。ルームミラーに映る景子の目は、それとなく生暖かい。
『
麻乃が言うのは、沖縄自動車道にある中城パーキングエリアと伊芸サービスエリアのことである。彼女が言う休憩は『トイレタイム』のこと。
那覇から許田まで、山城は制限速度を守って走るので、小一時間かかる予想。飲み物や軽食などは、社内に用意されているから慌てる必要もない。杏奈次第では、そのまま現地へ向かっても問題はないだろう。
『そうですね。伊芸までに、勇くんが目を覚ましたら休憩。そうでなければ、そのままでいいかしら?』
『かしこまりました。では、今のとおりでお願いします、先輩』
『はい。了解です』
▼
「――勇くん、勇くん」
「……ん? あぁ、おはようごじゃいまふ……」
「寝ぼけてる勇くん、レアだわ。食べてしまいたいくらいに、可愛らしい……」
「杏奈お嬢様」
「はっ、いけない。……勇くん、つきましたよ」
「ついたって、どこに?」
現在時刻は七時を少し回ったあたり。勇次郎が眠っている間に、到着したこの場所。
「あれ? ここって確か……」
「えぇ。勇くんが『会長っ! おめでとーっ!』って、言ってくれた場所のすぐ近くですよ」
名護市二十一世紀の森体育館の敷地内にある、名護市屋内運動場前。あの日ここで、杏奈の表彰式が行われた、勇次郎の記憶にも新しい思い出の場所。
「あ、ほんとだ。いつの間に……」
杏奈の姿もよく見ると、附属中学女子自転車部のユニフォームでもある、桜色のサイクルジャージを着けている。勇次郎も足下を見ると、見覚えのある黒いビブショーツ(肩紐つき自転車用レーサーパンツの一種)、その下には某メーカーの踝まであるインナーパンツを穿いている。腕を見ても、手首までの黒いインナーだった。
「勇次郎様、ジャージはどういたしますか? 無地でブランドロゴが入るもの、もしくは背中に大きくキャラクターが描かれたもの。両方お持ちいたしましたが?」
麻乃が言うのは、普通のサイクルジャージと、いわゆる『痛ジャージ』と呼ばれるもの。その背中の絵の原盤を描いたのはもちろん、鈴子だったりするのだが。
「えっと? これからもしかして、走る、とか?」
「そうでございますね、勇次郎様」
「えぇ。勇くんが嫌でなければ、『市民レース五十キロ』のコースを一緒に走ろうと思ってます」
「え? ほんとう?」
「あのですね、勇くん。わたし、勇くんへのプレゼントをあれこれ考えはしたのですが、何も良いものが思い浮かばなかったのです」
「わかる。僕も結構悩んだんだよね」
「そうだったのですか? お姉ちゃんは嬉しいです。……そこでひとつだけ思い浮かんだのが、この二人だけのグループライド。ものよりも、勇くんの記憶に残る贈り物になればと思ったのですが、……駄目でしたか?」
「そ、そんなことないよ。すっごく嬉しい」
勇次郎は、杏奈の左手をぎゅっと両手で握る。その状態で、満面の笑みを浮かべて見上げてくるのは、杏奈にとってあまりにも凶悪だっただろう。
「ゆ、勇きゅ――はふぅ……」
「杏奈お嬢様、戻ってきてくださいまし」
「――はっ、いけない。これからお楽しみがあるというのに」
「杏奈お嬢様が楽しまれてどうするのですか? 勇次郎様をおもてなしするというのに……」
「あははは。と、とにかくね、お姉ちゃんありがとう。僕、とっても嬉しいよ」
「まだプレゼントできていませんよ。ほら、準備をしましょう」
「はい。あ、麻乃お――」
「こほん」
「あ、麻乃」
こくこくと頷く麻乃。勇次郎は危うくまた、『麻乃お姉さん』と呼んでしまうところだった。
「背中に絵が描いてる『あれ』じゃなく、普通の方でお願い」
「かしこまりました」
さすがに杏奈と一緒では恥ずかしいと思ったのだろう。
東比嘉大学の広告塔でもあっただろう、杏奈が乗るロードバイクは、女子のプロロードレーサーがプロチームから供給されるものとほぼ同じ。『東比嘉大学附属中学女子自転車部』のロゴが胸元と背中に入った、桜色のジャージを着た杏奈。あのときと同じ姿をしていて、勇次郎には眩しく見えただろう。
対する勇次郎が乗るのは、ロードバイクではなく小径車。いわゆる『ミニベロ』と呼ばれるもので、杏奈の乗るものよりタイヤが小さい。だが、一部のマニアには有名なブランドで、走り方によってはロードバイクに引けを取らないと言われている。
『麻乃麻乃。勇きゅ――勇くん。すらっとしていて、華奢で、お尻がちいさくて、後ろ姿だけ見たら、まるで女の子じゃない?』
『えぇ、三連覇するのも頷けるというもの、……実に眼福でございます』
勇次郎はヘルメットを被り、ヘルメットに付属しているシルバーミラーのシールドを被せる。彼は視力が悪く、乱視も持っているので杏奈のようなアイウェア(風の巻き込みで目が乾いたり、虫やゴミが入らないように保護をするサングラスに似たもの)をつけられない。だから眼鏡の上から、覆うように被せられるこのブランドのヘルメットは重宝していた。
「お姉ちゃん、準備できたよ」
「えぇ、あ、そうだ。麻乃、『あれ』はあるかしら?」
「はい。勇次郎様の分も準備してございます」
勇次郎に手渡したものは、耳を塞がないタイプの『骨伝導ヘッドセット』。
「勇次郎様、このヘッドセットは、こちらの耐衝撃スマホに接続されています。このスマホを通じて、私たちと通話が可能になっております」
「あ、これって無線の代わり?」
「そうですね――」
麻乃は勇次郎に細かく説明をする。レヴォーグには、無線LANが装着されており、車の周りであれば各自が持つスマホに繋がる。ソーシャルネットワーキングサービス、ビームのグループ通話を利用して、無線の代わりに使うことなったというわけだった。
「なるほどねー」
「私と先輩は、ハザードをつけ、後からサポートさせていただくことになっております」
この界隈から、辺戸岬にかけて、たまにこうして自転車競技を行う学校で同じようにトレーニングをすることがあるらしい。その際は、麻乃が言うようにするとのこと。もちろん、周りの車の邪魔にならないように注意をし、邪魔になりそうだと判断した際は、二人を追い越して少し先で待つようにするなど、配慮も怠らない。
「勇くん」
「はい?」
「このコース、五十キロと長いですが、大丈夫ですか?」
「大丈夫。僕、ここ何度か走ったことがあるから」
「そうだったんですね。それなら、あ、でも。その小径車で大丈夫かしら?」
「僕はさ、筋力も体力も、持久力も、お姉ちゃんには敵わないと思う。でもね、ロングライドはそれなりにやってるし、これ」
勇次郎は、自分がまたぐフレームをぽんぽんと叩く。
「結構走るんだよ?」
ちょっとだけどや顔になる勇次郎。そんな彼の表情を見て、完走はできるだろうと安心する杏奈だった。
「では、勇次郎様、杏奈様。先に出て、ファミレス抜けたあたりでお待ちしてます」
「うん」
「えぇ」
「勇次郎様、杏奈お嬢様。お怪我のないように、おねがいいたしますね」
「わかったよ」
「わかりました」
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