第39話
暗闇と星明かり
黄昏時の山の中。登山道を勢い良く下る少女の姿があった。
「…ううっ〜!もうちょっと待って〜!」
綺麗な夕焼けをご褒美に下山を再開した薫だったが、幾らもしないうちに周囲が薄暗くなって来た。
陽が傾き、薫のいる登山道が稜線の影に入ったのだろう。
暗闇に包まれてしまう前に少しでも前に、あわ良くば下山してしまいたい薫だったのだが、そう都合良くはいかない。
急ぐ薫の足は駆けていると言っても良い程。岩から岩へと飛び、滑る足元に任せて下り続ける。
だが、その強行もそろそろ無理かもしれない。
本格的に暗くなれば足元はおろか周囲も何も見えなくなってしまうかもしれないのだ。
薫はそれを恐れた。
下町とは言え都会で育った薫は真の夜闇を知らない。
北海道に来てから多少は暗い夜を過ごす事もあったが、キャンプ場などの人間の生活圏の中の事。
これからこの場所にどの様な夜の闇がやって来るのか、多少は想像出来ても知らない事は恐怖であった。
次第に黄昏の頃合いを過ぎ、足元の岩の輪郭も朧げになる。
辺りの草木は背の高いものも増え始た。
森林限界を超え大分降って来たと実感するものの、薫の記憶では上り始めにうんざりした九十九折りの場所。
西の空遠くがぼんやりと明るいが地面を照らすほどの代物では無い。
薫は暗くなって緩めていた足をとうとう止めた。
目を凝らす薫の視界から、次第に物の輪郭が解けて消えていく。
もう足元も周囲の木々も何も見えない。
近くに翳す自分の手でさえ見えなくなってくる。
薫は自分が目を開けているのか疑わしくなる程の暗闇の中にのまれてしまった。
暫し呆然となる薫。
「参ったわね。こんなに真っ暗になっちゃうなんて。」
見えない周囲をキョロキョロと見回し、足の先で足元を探りながら歩を進める。
記憶では左右は木が茂っていて、崖などは無かったはず。
「でも、結構な段差は有ったと思うしなぁ。」
油断して転びでもすれば、下り坂なのもあって結構な事態になりそうである。
数歩進んだもののこの調子ではキャンプ場に着くのは何時になる事か?
「?!」
コツコツと爪先に当たる感触にしゃがみ込み手で触って確かめる。
どうやら大きめの岩の様で、薫はそこに腰を下ろし一息つく。
「いやぁこんなに暗くなるものなのね。どうしようかしら?全然見えない。」
ほぼ全力で休み無く下って来たおかげでヘトヘトだった。
暗くなる前にと急いでいた訳であるが、暗くなってしまえば今更なのでじっくりと一休みする事にする。
サワサワと風に揺れる草木の音と、遠くで鳴る虫の音、今だに荒い自分の息遣いがやけに大きく聞こえる。
改めて周囲を眺め、やはり何も見えない事に落胆した。
自分の鼓動がやけに大きく感じる。
薫が動かなくなったからか近くで虫が鳴き始めた。
見えないにもかかわらず無意識に視線を向けると、薫の目はぼんやりと揺れる草の影を捕らえた。
「!?」
ジッと眼を凝らすとその影の上方に、ほんの僅かに薄く同様に揺れる草の姿があった。
当然の様だが薫にも、周囲にも光源と呼べる物は無い。
影と揺れる草の延長線を追う様に、薫の視線が上方へと向かう。
「………!」
そして美しさの余り息を呑んだ。
薫にとっては初めてだったかも知れない。
薫の頭上には、満点の星が瞬いていた。
西空の明るみはもう既に無く、漆黒の夜空が色付きそうな程の無数の光点。
薫の視界一杯を光の星粒が埋め尽くしていた。
「す…凄い!足元ばっかり見てたから、全然気が付かなかった。」
人里離れた山の中。周囲数キロに渡って大きな光源が無い事もあって、有り得ない程の大小様々な星々の光が薫に降り注いでいる。
間抜けに呆けた顔であんぐりと口を開いたまま次の言葉が出てこない。
どれ程の時間をアホ面で天空を眺めていたのか?首が少し痛い。そして開けていた口の所為なのだろう、喉が渇く。
唾を呑もうかとするも、喉が張り付いて上手く嚥下出来ない。どうやら結構な時間こんな状態で呆けていたらしい。
薫は喉を潤そうと残りの少なくなった水を取り出す為にウエストバッグを下ろし中からペットボトルを取り出した。
「あれ?!」
一口水を飲みながら、つい先程までの視界の悪さが若干だが好転している事に気づいた。
相変わらずの真っ暗闇なのだが、物の輪郭がボンヤリだが理解出来る。
周囲の岩や草木も形を確認出来た。だが木の影や物の下の部分は全く見えない。
どうも、目が暗闇に慣れてきたのと、この星明かりのお陰らしい。
「う〜ん。でもなぁ。このままじゃまずいねぇ。」
この状態ならこの辺りだったら少しくらい進めるかも知れない。だが木が高くなる此処より標高の低い登山道は木の陰になる。星明かりは届かない。
再び闇に捕らわれ立ち往生するだろう。
「う〜ん。何か無かったっけなぁ?」
バッグを開けたついでに手探りで中を弄る。
底を探る様に這わせると、手に小さな物体の感触が有った。
「あぁ!これが有ったか!」
触った途端に気づいた。
バーナーに点火するために使用している100円ライターだ。
取り出し早速着けてみる。
たちまち薫の前に、小さな炎が創り出す揺らめく優しい光が、色付いた小さな世界が広がった。
途端に周囲の闇が濃くなる。
小さな炎が眩しく感じる。と同時に安心感が薫の心を満たしていく。
「こんな小さな火一つで随分と落ち着くわねぇ。」
足元を照らすには心許ないが、これで光源を確保出来た。無事にとは言えないかも知れないが、下山出来る。
「これで何とかなるかなぁ。……あっ!熱っっっ!」
安心したのもつかの間。ライターを持つ手に耐え難い熱を感じてライターを放り出してしまった
と、途端に訪れる真の暗闇。
「嘘でしょ?まじか!」
安いライターなどは使い続ければ熱くなるのは当然であった。
反省反省。
いつもの薫であれば、放り出したライターを再びキャッチする事は可能だったかも知れないが、手放すと同時に真っ暗になったのではお手上げである。
近くに小さな音を立てて落ちたライターを、再び四つん這いになって手探りで探す。
これが今唯一の光源。諦める訳にはいかない。
「むう!むむむっ!」
光に慣れてしまった目では、いくら凝らして見ても全く何にも見えない。
大体あの星明かりでライターが見えるとも思えなかった。
「うん!あっ!有った!見付けた!」
根気良く探す事十数分。
やっとの事で探し当てたライターを早速着ける。
「最悪の場合は仕方ないけど、これを片手に進むのは無理じゃないかなぁ?」
数分も持っていられないライターを光源に下山するのは現実的ではない。
風が吹けば消えてしまうし、安物ライターがどれ程の時間保つのかも不明だ。
「他に何か無いかなぁ?」
ライターの小さな火を光源に、再びバッグに手を突っ込む。
バーナーやガソリンボトル、空になったペットボトル等、大物から取り出し粗方空になったバッグに見慣れない物を見付ける。
「……あぁ!これが有ったわ!良かった。放り込んでたのね。」
言いながら取り出したのは拳大の深緑の物体だった。少し面長なフォルムの側面から黒いコノ字の取手の様なものが付いている。
「流石私!無意識ながらも必要な物は解るのよねぇ〜」
薫の記憶では電池も入れたはず。そんな事を思いでしながら天辺の黒いツマミをカチリと回すと、反対側の透明な部分が明るく光り出した。
稚内で買い出しをした際に、テント内で照明に使おうと衝動買いした一品だ。
と言うか、昨晩も使っている。
テント内で急ぎの山登りの準備中に、偶然にもバッグに放り込んでしまったのだろうが、薫が自画自賛するのも仕方が無い。
不幸中の幸い。ミラクルが起きた。
ライトを手に、40分程で甘露泉水まで辿り着いた。
今となっては暗闇に右往左往したのが滑稽にも思える。
最初からライトの存在に気付いていたならば、山頂でもっとゆっくり好天を待てたのかも知れない。
素晴らしい絶景をこの目に焼き付ける事が出来たのかも……。
でもそれは今更だ。
結果として、刹那の美しい夕陽や息を呑む降る様な星空を堪能出来た。
そのどちらもが普通に無難に過ごしていては得られない出来事。
「実害も特に無いし、結果オーライって事で良いかな。」
山の中腹、夜の闇に立ち往生した絶望的な事柄は取り敢えず置いておく事にした様である。
ついでとばかりに、甘露泉水をペットボトルに汲んでからキャンプ場に向かう。
此処からは数分の道のりだったはず。疲れてはいるが薫の足取りは軽い。
森を抜け自分のテントに辿り着いた。
色々とあったが良い経験だった。
「次からはもっと考えて行動しようかな。」
一人呟きつつテントに荷物を下ろす。
(今日は疲れたぁ。お風呂に入りたいなぁ。)
「お帰り。随分と遅かったね。」
想いに耽る薫へ向け不意に声が掛かる。
薫のテントから少し離れて3つのテントが等間隔に貼られていた。
連れ合いでは無いのか、微妙な距離感だ。
一番遠くに張られたテントの前のタープの下に、3人の男女の姿がある。
炭を使って焼肉でもしているのか、小さなコンロを囲んでいる男性一人と女性二人。
声を掛けたであろうその男性は薫の顔見知りだ。
「戻ってこないから山泊して朝日でも見て来るのかと思ったよ。」
トングを片手に手を振る男性。
一緒にこちらを向いている女性二人に見覚えは無い。
「………太郎さん。」
何日か振りの再会に薫は思う。
この野郎!私が酷い目にあっている間、ハーレム状態で肉食ってやがった!
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