第4話 人 足
桂庵、人宿、口入屋ともいう。外神田のその店の前に喜市は立っていた。
もうずいぶん長い間立っている。
その肩をポンと叩かれ、喜市は夢から覚めたように振り向いた。
「何をなさってるんで、小頭」
お目付け役の源兄ぃだった。
「あ、あのさ、源兄ぃ」
喜市は源兄ぃを近くの天水桶の陰に引っ張っていった。
ちなみにこの源兄ぃ、木更津の源次という二つ名を持つ、れっきとした渡世人だ。
何故かは知らぬが観音屋に草鞋を脱ぎ、以来もう十年近くも香具師の仕切りを手伝っている。喜市が神田明神の仕切りを任されたとき、真っ先にその手下になると手を挙げたのが源次だった。
「おいら気が付いたんだよ」
「気が付いた、何を」
「うん、おいらまともに金稼いだことねえなって。ちゃんとした仕事ってぇか、したことねえなって」
「ああ、それで人宿・・」
源兄ぃはにやりと笑った。
確かに、観音屋の親父から正月や大祭、節季ごとに相応の金が渡され、これで仕切れと命じられる。足りなければ言え、余れば皆でわけろ・・・だからいつも懐はそこそこ潤沢だったが、それは己が稼いだ金ではない。小遣いか、駄賃だ。
「考えてみたらこの年までぼうっと生きてたなあって。」
「ははあ」
「この世の中、いろんな仕事があるのは知ってる。香具師のみんなだって、大道芸に宮地芝居、物売り口上、どこでそんな仕事見つけてきて、腕を磨いているのか、考えたこともなかったんだ」
「なるほど、確かにそうですねえ。今日思いついて明日からってぇわけにゃいきませんよね」
「棒手ふりでも、町の鋳掛屋でも、屑ひろいだって、取り仕切る元締めがいて、何がしか上前をはねられて、元締めは町の顔役に上納金を差し出す・・」
「そうそう、その顔役はお目こぼしを願って役人に賄賂を渡し、役人はそのまた上役に賄賂を使う・・と」
「うん、そういうこと何にも考えずに、親父の言うままに神田明神を見回ってた。まるでガキの使いだなって」
源兄ぃは深く二度ばかり肯いた。
「それで・・」
「親父に、明神様の仕切りは当分できねえって、断り入れてきた。とにかく一人で金稼いでみようって」
「ここら辺りじゃまだ無理でしょう?」
「そうなんだ。人宿に入ったら、小頭何人必要ですって聞かれるし・・」
源兄ぃはぷっと吹き出した。
「でしょうね。ここらじゃ小頭は雇われる側じゃなくて、雇うがわだ」
「いっそ、御府内を出て、知らねえ土地に行ってみようか、なんて・・」
「思案してなすったんですね」
「うん・・」
源兄ぃは腕組みをして、しばらく考えていたが、やがてポンと手を打った。
「やっぱり八方出だな」
「八方出?」
「変装ってやつで、まぁ任しといておくんなさい」
連れて行かれたのは明神下の裏路地を抜けた先にある小体な仕舞屋。周囲を背の低い生垣が囲み、粋な感じのする引き違いの格子戸の脇に『常磐津指南』と女文字で記された看板が揺れていた。
訪ないもいれず、いきなり格子戸を引き開けた源兄ぃは、
「おう、小頭がお見えだ。」
と、奥に声をかけ、
「ささ、上がっておくんなさい」
すると奥から、あらあらとかまあまあとかいう声と共に、地味だが垢抜けた着こなしの年増が現れた。
「えっと、あのこんにちわ、お邪魔します」
喜市が生真面目にぺこりと頭を下げると、年増はぷーっと吹き出して、源兄ぃの肩をどんどんと音のするほど叩いた。
「やめろ、こら。小頭の前だ。こいつ、笑い上戸で・・おみちで・・」
「みちです。ようこそ」
挨拶も笑いの中だった。
「あ、あの、喜市です。と、突然おじゃましまして。」
喜市が膝を畳んで頭を下げると、おみちはもう我慢できないとばかり、袖で源兄ぃを叩きながら、
「か、可愛い・・」
と笑い転げた。
「変装なんて、大層なことはできないけど、幇間の梅さんがこう眉毛の形を色々変えて威張ったお殿様や、極悪人の盗人や、情けない若旦那やら演じ分ける芸をやってたのね」
向島で昔芸者をしていたというおみちは。眉墨でちょいちょいと喜市の眉を書き足し、ついでに頬の上にも黒子だかあばただかを点々と散らして鏡を見せた。
「おお、喜市っちゃんがおっさんに見える」
源兄ぃは大喜びだ。
「これで頬被りして、着物も小汚いのに変えたら、まず観音屋の喜市っちゃんには見えないね」
おみちは自信満々だが、喜市はちょっと意気阻喪していだ。もう少しいい男にはできなかったのか、と。
「あっしのお手伝いはここまでで。神田明神の仕切りと親方への報告は任せておくんなさい。半年、取りあえず半年、その体一つで生きてみなせえ」
おみちの用意した古い単衣に履き古した雪駄を身に着けた喜市は源兄ぃに深々と頭をさげた。
「弱音は吐かないつもりだよ」
「観音屋の連中には道ですれ違っても声をかけるなと言っときまさ。それでも何か、とことん困り果てたときはこのおみちンところをつなぎにしておくんなさい。」
そこへおみちが小さな風呂敷包みを持って出てきた。
「寝巻用の浴衣と下帯、それに頬かぶり用の手拭ね。それと昼餉・・」
「おい」
「甘やかしてるんじゃないよ。おみち姐さんの家に来て、茶の一杯も出さなかったと言われたら恥ずかしいだろ」
背中に斜め掛けがいいか、腰に巻いた方が粋か、とあれこれ世話をやいた挙句、おみちは小さな守り袋を喜市の首にかけてくれた。
「じゃ。がんばって、こが・・あん、何て呼べばいいのかねえ」
喜市は答えず、もう一度二人に深々とお辞儀をすると、背を向けて歩き出した。
花も散り終えて、空気がどことなく湿り気を帯びたような四月半ばのことだった。
≪ お圭 その3 に続く≫
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