第2話 品 川
しばらく好天続きで、花見の話が出る頃だというのに、今日は気の早い花曇りか、厚い雲が空を覆っている。
「一雨、きますかね」
喜市は空を見上げて暢気に言った。
「久々のおしめりはよいが、濡れるのはかなわんなあ」
武藤の口調ものんびりしたものだ。黙りがちな宗助を気遣っている。
行く先はもう間違いない、品川だ。。
「飯盛り女・・」
ぽつりと宗助が呟いた。
品川では、女郎が表向き飯盛り女と呼ばれることは周知の事実だ。
はじめは一つの旅籠に二人まで、とかお定めがあったらしいが、そんなものは糞喰らえとばかり、外見からあからさまな女郎屋も増えているという。
何しろ、海があって山があって、景色が良いうえに食い物が美味い。墨引きの外だから少々の羽目は外しても大目に見てもらえる、
女郎目当ての客は、わざわざご府内から来てやったんだから、楽しまねばもったいないとばかり、大騒ぎする。
そういう意味では、内藤新宿や千住、板橋などよりご陽気な感じがする。
お圭には合ってるかもな、密かに喜市はひとりごちた。
それに品川には二番目の兄貴・太市がいる。
お圭たちの一行は徒歩新宿から北品川に入ってすぐの小さな女郎屋、とても旅籠には見えない店にやってきた。
年寄りの女衒が掌で店を指して何か言った。
ここだよとでも言ったのか。
お圭は頷いたが、立ちすくんでいる、足が震えているのが分かった。
宗助が足を踏み出そうとする。
喜市が止めるより先に、お圭が振り向いた。
「お見送りありがと。楽しかったよ」
声も少し掠れている。
「でさ。もう一度言っとく。あたいのことなんか忘れっちまいな。何十年かまっとうに働いて、余分な金ができたら身請けされてやるよ。いいかい、まっとうな稼ぎだよ」
そう言うと、くいと顎を上げ肩をそびやかして、足取りはまだ覚束なかったが、店に入って行った。。
「身請けされるつもりだせ、あの馬鹿」
喜市の軽口に武藤も宗助も答えなかった。
お圭たちの入っていった女郎屋は看板に“於福屋”とあった。
門口から見る限り部屋数は多くない。もしかしたら奥が深いのかもしれないが、それでもそうたいした構えではなかった。
「目黒川のそばに、於福神社ってえのがあったな」
「おお、喜市、詳しいな」
「うん、その近くにおいらの二番目の兄貴が婿入りした旅籠があるのよ」
「ほう、それはご挨拶しておかねばなるまいな」
三人は於福屋を通り過ぎた杉の木の根方に突っ立っている。宗助は震えていた。
「どうする宗助。お前がお圭の初めての客になってやるか」
宗助の身体の震えが大きくなった。
「初めての客なら祝儀をはずまにゃならねえな。何しろお圭はきむ・・」
宗助がいきなり頭突きをかませてきた。
予想していた喜市は宗助の両肩を掴んで受け止めた。
宗助はやみくもに喜市の胸をなぐる。長い腕を突っ張れば、宗助の腕は喜市の胸には届かない。が、喜市は甘んじて殴られてやった。
内働きだけだろうに、宗助の殴る力は強くて痛かった。喜市はその痛みを、宗助の心の痛みだと思った。
品川には神社仏閣が多い。街道沿いに善福寺、杉森稲荷、ちょいと外れて品川神社などなど。ついでに品川宿の本陣も北品川にある。
目黒川を越せば南品川という境に太市兄貴の旅籠、浜屋がある。
飯盛り女を置かない宿を平旅籠と呼ぶが、浜屋はその平旅籠で、大名行列の本陣に泊まりきれない御家来衆の宿泊所としても利用されている。
と言うのは名目で、江戸は目と鼻の先。多くのお大名は財政難だから。供揃いも倹約しながらやってくる。辿り着いたここ品川で、禄高にあった供揃いを整え、威風堂々江戸に入るのだ、
平旅籠はそういったにわか供侍の待機場所であり、最近では商人が接待に使うことも増えているという。
喜市の兄の太市は若いころ仲間と連れ立って女郎買いに来た品川で。たまたま祭礼だった杉森神社の香具師の仕切りを手伝い、それが縁で浜屋の婿に収まったのだと聞いている。
ちなみに浜屋では代々主は豪右衛門を名乗るので、いくら兄弟でも太市兄ちゃんでは取り次いでもらえない。
「江戸は神田の喜市と申します。豪右衛門の旦那を・・」
恐る恐るそう言うと。ぷくぷくと丸っこい色白の女将さんが転がるようにやってきた。
「あ、義姉さん、ご無沙汰してます」
「まあ、まあ、喜市っちゃん、大きくなって。いい男になったじゃないかえ。お義母さんの七回忌以来だから、四年ぶりかねえ」
太市兄ちゃんは寄り合いで、すぐ近くの料亭に出かけているという。
「うちが始めた店でね、浜屋の料亭だからって浜御殿なんて大仰な名前つけたけど、目黒川沿いをちょいと遡った処にある見晴らしのいいのが取り柄の田舎臭い食い物屋だよ」
その浜御殿の手前には、庶民向けの一膳飯や蕎麦を食わせる飯屋もつくったという。こちらは浜乃家というらしい。
あまりゆっくりはしていられないと言うと、女将はその浜乃家に案内してくれた。
なるほど隣は、広い庭に手入れの行き届いた庭木を配し、江戸にもそうはなかろうと思えるほど豪奢な作りの料亭があった。
その裏口から痩せた小男が急ぎ足で出て、こちらの店の勝手口から入ってきた。
「よう来たな、喜市。大きゅうなって」
兄の太市こと浜屋豪右衛門だった。
お圭の話をかいつまんで話したのだが、豪右衛門はフムフムとにこやかに頷くばかり。それはそうだろう、男が三人、雁首揃えて品川くんだりまでやってきたのだ。
誰が聞いても遊山気分の女郎買いとしか思えない。
と、いきなり宗助が小上がりからおりて、床に土下座した。
「喜市っちゃんのお兄さん、お願いします。お圭がひどい目や怖い目に合わないように、気を付けてやっていただけませんか。お圭は、お圭はきっと私が請け出して女房にするんです。お圭のいない将来は考えられないんです。お願いします」
店には客が、五・六人いたが、一斉にこちらを注目した。
「こいつあ・・」
豪右衛門が言葉を失った。
「兄貴、聞いてくれ。宗助は真剣なんです。真剣にお圭を案じて・・」
喜市がいい、武藤が宗助を小上がりに戻して裾の土を払ってやった。
ふうむと、豪右衛門が唸って腕を組んだ。小柄ではあるが、その顔つき、佇まいに風格が滲み出ている。さすがに北品川の顔役の一人だと納得させられた。
「さっき、喜市から紹介されたときは聞き流したが、あんた、米屋の近江屋さんの手代さんだっていったね。手代の宗助さんっていうと、いま噂の算盤なしで算盤はじくってえ、あの宗助さんかい?」
豪右衛門が声を憚ってくれて助かった。
土下座の男が噂の人だなどと知れたら、噂がどんなものか知らなくとも、ちょっとした騒ぎになっていただろう。
豪右衛門は三人を奥の座敷に誘うと、一品料理をずらりと並べて、好きに食べてくれと言った。
「ようがす、そんなすげえお人が惚れた娘さんだ。私と女房とで、しっかり目配りしておきましょう。何かあったら、喜市、お前ンとこに知らせりゃあいいんだな?」
「頼んだぜ、あんちゃん」
「おう、任しとけ」
先ほどのにやにや笑いではなく、豪右衛門がしっかりと宗助を見て、微笑んだ。
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