リコルート
リコルート 1
「瑠璃子、今日は随分早いじゃない?」
朝早くから姫野家に、リコの母の声が響く。
窓から見える外の様子は、日が登り始めたばかりでまだ薄暗い。
だというのに、娘は既に学校に行く準備をしている事に疑問を持ち、声をかけるリコの母。
「あぁ、うん。友達と約束しててさ」
ちょっとだけ歯切れ悪く答えるリコ。
普段なら娘の態度が気になり、あれこれと詮索しようとするリコの母。
「そうなの? 気をつけていくのよ」
だが、この日はあっさりと引き下がった。
なぜなど聞くまでもないからだ。今日はバレンタインなので。
「分かってるって」
母があえて何も聞いてこない事で、なんとなく察されてるのを察するリコ。
だがここで下手に動揺すれば、後で面白おかしく母が聞いてくるだろう。なので動揺を隠すために、まるでなんでもないようないつもの態度でぶっきらぼうに返事をしながら家を出る。
残念だが、母はそんな娘の考えなどとっくにお見通しである。
この後、リコの母が、まだ寝ている夫を叩き起こし「あなた、聞いて聞いて。瑠璃子がボーイフレンドにバレンタインのプレゼントを渡すためにもう出かけたのよ」と嬉しそうに話したのはいうまでもない。
朝も早く、まるで夕方のように赤らんだ街を、一人の少女が歩く。
肩にかけた鞄を時折持ち替えては、少しでも鞄に衝撃を与えないように気にしながら。
ゆっくりと歩きながら、これで何度目かの鞄の持ち替えをして、軽くため息を吐く。
「……らしくないよな」
拗ねたように口を尖らせる。
誰に聞かせるでもない、ただの独り言を呟くのは、恥ずかしさからだろう。
頑張って作ったクッキーをオタク君に渡す事を考えるだけで頬が赤らみ、胸の鼓動が速くなっていくのを感じる。
そんな状態なのにシラフのままではいられないので、一人で拗ねたような態度を取ったり独り言を呟いているのだ。
もし小田倉に会ったら、言いがかりの一つでもつけてやろう。そんな理不尽を考えている矢先であった。
「おはようございます」
「うおっ」
まさかのオタク君登場に、思わず驚きの声を上げるリコ。
驚いた際に飛び跳ね、あれだけ丁寧に扱っていた鞄が大きく跳ねる。
跳ねた鞄が自分にぶつかり、中身がどうなったか気になるところではあるが、今のリコはそれでどころではない。
「リコさん、大丈夫ですか?」
「あっ、あぁ。気にするな」
あれだけオタク君に言いがかりをつけてやろうと思っていたリコだが、いざ本人を前にするとそんな気持ちは吹き飛んでいた。
それよりも今は、どうやってクッキーを渡すか。それだけで頭がいっぱいなので。
ぎこちない朝の挨拶をすると、オタク君とリコは肩を並べ歩きはじめる。
「リコさん、今日は随分早いですね」
「小田倉こそ、いつもこんなに早いのか?」
「いえ、今日は日直なので」
「……そうか」
「はい」
何か会話をしようとしても、会話が続く事がない。
先程の衝撃で鞄の中身が気になるリコ。先程から鞄の中身を気にするリコを見て、その中身が気になるオタク君。
(もし中のクッキーが割れてたらどうしよう)
チラリと鞄を見てから、リコがオタク君に目を向けると、たまたま鞄の中身が気になってチラ見していたオタク君と目が合う形になった。
オタク君が即座に目を逸らすが、時すでに遅し。いや、なんならその行動で更に状況は悪化したといえる。
オタク君がそのような行動をリコが見逃すはずもなく、ニチャァと笑みを浮かべ、オタク君の前に移動すると、後ろ歩きをしながら、鞄を隠すように前屈みでオタク君を見上げる。
「小田倉、何が気になるんだぁ?」
「い、いえ」
「お前が気になってるのは、これだろ?」
極めて自然に、いつも通りの仕草でバレンタインのクッキーを渡せるチャンスだと、いつものようにからかい始めるリコ。
鞄からクッキーを取り出すリコの耳が赤くなっているが、きっといつも通りである。
対して、自分の心が読まれた事と、バレンタインのプレゼントが気になりすぎてチラ見をしていた事がバレた恥ずかしさで思わず目線を逸らすが、目線を逸らした先にリコが移動しの繰り返しである。
「どうしてもって言うならやっても良いんだぞ? なんならアーンしてやろうか?」
自分の勝ちを確信したリコが、オタク君をからかい始める。
普段ならリコにからかわれても恥ずかしいどまりのオタク君だが、今日は違った。
恥ずかしい事が重なり、彼の中での羞恥心は限界ギリギリ。
そこへ、好きな人から「アーンしてやろうか?」である。
「はい。どうしてもアーンして欲しいです」
結果、ヤケクソ特攻に走ってしまった。
もはやこれ以上はどれだけ恥を重ねたところで一緒なので。
まさかのオタク君の反撃に、思わずたじろぎそうになるリコ。
だが、自分から言い出しておいて、やっぱりなしなどと言い出せる性格でもない。
「ま、まぁ小田倉がどうしてもって言うなら」
(小田倉のやつ、急に開き直りやがって。その程度で負けないけどな)
そもそも勝ち負けなど存在しない。勝手にリコが優位に立ったと勘違いをして意地を張っているだけである。
「ほら、小田倉。口開けろ」
「あっはい、アーン」
顔を赤め、必死に口を開けるオタク君。
そんなオタク君の口元に、必死に手を伸ばしてアーンをするリコ。
「ど、どうだ?」
「美味しいです。すごく」
「本当にか?」
「本当ですよ。嘘だと思うならリコさんも食べてみてくださいよ。すごく美味しいですから」
そうかと言って、クッキーを一つ摘んで取り出すリコ。
それを口に入れようとして、あることに気づく。
(さっき小田倉にアーンした時に、小田倉の唇が指についてたよな……)
そう、つまりオタク君の唇に触れた指先でクッキーを食べれば、間接キスになる!
とはいえ、今までオタク君との間接キスなど気にも留めなかったリコがその程度気にするわけが。
(間接キスじゃん!)
あった。
完全にオタク君を異性として意識してしまっている今のリコには、間接キスも恥ずかしい行為なのだ。
指先のクッキーを見て、胸のドキドキが加速しはじめるリコ。
そして、意を決し、クッキーを口にする。
「ほら、次は小田倉の番だぞ!」
どうだ。アタシは食べたぞと言わんばかりに語尾を強めるリコ。
もちろん、リコの気持ちなどオタク君がわかる訳もなく、何故か強気にクッキーを口元まで持ってきてアーンをするリコに、ちょっとだけ気押されながらオタク君は口を開ける。
お互いに顔を赤めて、バカップルのようにいちゃつきながら朝の街を歩いていく。
吐く息も白い気温も気にならないような熱さを伴いながら。
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