雪解けは旅立ちと共に
わさび醤油
第1話
──雪を見て嬉しく思わないこと。
それが大人への仲間入りだと、どこかの誰かが言っていた。
都会育ちの偏見極まりない戯れ言。
田舎育ちが聞けば、それこそ鼻で嗤うだろうくだらない言葉。
だが、それは確かに間違いとは言いがたい。都会で交通の利便に気を取られ、一面の銀世界に興奮を覚えないのであれば、確かに童心はもう持ち合わせてはいないのかもしれない。
……だとすれば。
もしそんなくだらない冗談一つが、僅かでも正しいとするならば。
俺の子供時代は大事な二人を失ったあの時──数年ぶりに降り注いだあの大雪で、とっくに終わったのだろう。
「──
肩を小さく揺らされながら、耳側で呼ぶ可憐な声にゆっくりと瞼を開ける。
窓から零れる日差しを手で遮りながら、軽く頭を揺らして付近の時計に目を向ける。
針の指す時間は七時十五分。五分遅れの時計だから、正確には今の時間は七時二十分ってところか。……早いな。
「起きたー? もうご飯出来るからねー!」
もう一眠りしてもいいなと、枕と布団の出す誘惑の手を掴もうとした所で、それを遮るように頬に張り付く少女の手。相変わらず金属のように冷たいと思いながら、その手の主に顔を向ける。
制服の上に桃色のエプロンを着けながら、目の前の寝坊助に呆れた顔と手で示してくる少女。
誰もが美少女だと謳うであろう、綺麗な黒髪を持つ幼馴染の名前だ。
「ほら、二度寝しないっ! 朝弱いのは良いけど、ご飯冷めちゃっても知らないからね!!」
「……へいへい」
「返事は一回、だよ!」
ようやく若干目が覚めてきた頭で返事をしながら、軽く一度欠伸をして布団から離れる。
動作の怪しい暖房を除けば、碌な暖房器具がないからこの寒さ。
せめてこの朝の目覚めだけは暖かくしたいと思わなくもないが、今更変えるつもりもないし、考えても仕方のないことだ。
だって冬は特別寒いもの。
どれだけ暖かくしようとしても。時を重ねても変わることなく、寒さで心を犯すものなのだから。
洗面所の冷たい水で顔を洗い、本当に目を覚ましてからリビングへと向かう。
食欲を誘う朝の匂いが鼻孔を擽り、腹から目覚めの音を出させる。
椅子に座れば白米と卵焼き、そして湯気の立つ味噌汁が既に並べてあった。
「──いただきます」
「はい、召し上がれ~」
目の前に座った
濃くなく薄くもなく、熱くもなく冷たくもない。
俺の理想をそのまま写しだしたかのような温度と味。……うん、相変わらず美味しいな。
基本的に目覚めは悪いのだが、それでも
卵焼きも甘くて俺好み。ご飯は昨日俺が研いで炊飯器に任せたから特に言うことはないが、他の二つが合わさってより美味しく感じる美味だ。
自分で作るとこう上手くはいかないのだから、やはり
「うん、美味しい。いつも悪いな」
「うむ、感謝するがいーぞ! ……ふふっ、なんてね」
朗らかに微笑む
特に急いでないというのに、あっという間にお皿にあった食事はなくなってしまった。
「ごちそうさま。また腕上がったんじゃないか?」
「そーう? まあ伊達に作り慣れてないからね!」
嬉しそうな表情で胸を張る
朝だというのに整っているとは流石美少女。努力しているのは知っているが、それでも実に羨ましい容姿だと思いながら、テーブルに置いてあるリモコンを手に取ってテレビに向ける。
朝のニュースはどれも同じだと人は言うし、一方で必ず一つは特色はあると言う人もいる。
どちらもネットのどうでも良い意見なのでどうでもいいことだが、それでも見やすさはあるという一点については同意出来ると俺は思っていた。
『さあ次のニュースです! 今週話題のトピックは『
映し出された見慣れたスタジオ。
いかにも人生絶頂中って感じの端麗な容姿を持つアナウンサーが、机にあるのであろう原稿を読み上げていく。
朝聞くにはちょいと強い声。去年結婚で卒業した、柔らかな声のアナウンサーの方が良かったと過去を惜しみながら、少し音量を下げて垂れ流す。
「……人気絶頂だってよ?
「もーやめてよー! 家ではそう呼ばないでって言ってるでしょー?」
頬を赤くしながら膨らませる
どうしてか、世間に浸透している芸名を俺に呼ばれるのは嫌らしい。俺が呼ぶのも他の奴が呼ぶのも、そう大差はないとは思うけどな。
「ごちそうさまっ! 私もう行くから、お皿洗ってちゃんと学校行ってね!」
「……ああー」
「行・っ・て・ね♡」
生返事をに強くを念を押した後、パタパタと慌てるように扉を出て行く星奈。
一気に静かになった食卓。音を出すのは聞きたくもないテレビの音と、
寂しくはない。ただ少しだけ物足りないと、それが当たり前で彼女がいる時こそ恵まれているとわかっていても、そんな風に思ってしまう。
それだけ彼女は側にいる。たった一人で泣いていた頃に手を差し伸べてくれたときも、国民的アイドルグループへと進んでも、変わらぬ笑顔で近くにいてくれる。
例え両親が既にいなくとも
「……はあっ」
──それでも。例え自分でもそうなのだろうと、そう思えていたとしても。
「……寒いな」
心の雪はいつまでも溶けはしないのだから、やはり俺という人間は強欲の極みなのだろう。
両親が自己で他界したと、その連絡を受けたのは俺が小学一年生の頃だった。
冬休みに母方の祖父祖母の家に預けられていたある日。大晦日で夕方には父と母は家に着き、皆でご飯を食べて年末を迎えようとしていた頃。
鳴り響いた電話の音。多くの人が携帯を持つ世の中、それを持たなかった故に固定電話を取って慌てる祖母。
初めは何もわからなかった。小学一年生に適した玩具など家には少なく、その電話が鳴ったときもテレビに飽き飽きしていた。
そんな俺でもわかる。わかってしまう。それほどに祖母は取り乱した様子のまま、俺を強く抱きしめた。
──嗚呼、人は何かあるとこんな風に焦るのかと。
何も知らない小さな愚人の頭は、そんなどうでもいいことだけが一番記憶に残ったのだ。
学校というものは実に退屈なものだ。
三年間抱き続けてきた感想を抱きながら、シャーペンを握る手を動かしていく。
黒板を眺めても面白いことなど何も書いていない。人気のある授業である理由がよくわからないまま、雑学混じりの
もうすぐ私立は本番が近いというに、どうしてこんな意味のない授業に身を置かねばいけないのか。
一月末と言わずに、今年は卒業式前までずっと休みでもいいんだけどな。
そう思っていると俺の名前が耳に引っかかったので、席を立って淡々と答えを読んでいく。
「──流石は
「……はい」
暑苦しいしどうでもいいから、小さく返事だけして席に座り直す。
閉じてしまった参考書を再度開き直し、再びペンを走らせようとしたところでチャイムが鳴り響いた。
……なんだ、もう終わりか。
教師の一言で授業が終わった後。帰宅の準備を済ませていると、後ろから肩を叩かれる。
振り向けばそこにいるのは馴染みの顔。俺は少ない友達だと思っている内の一人、推薦で進学を決めているからこの時期でも余裕そうな男──
「よう
「……
「応とも。今日も一緒に帰ろうぜっていう提案をしに来たわけよ」
親指を立ててはにかむ
こいつの
人の適応力はいつも予想異以上期待以下だだと改めて感じながら、
「お、珍しい。いつもなら苦言の一つも出てくるっていうのによ」
「……お前は俺をなんだと思ってるの?」
「頭脳明晰毒舌ツンデレ
全く聞き覚えのない不名誉なあだ名に対し、軽く手を払って拒否を示す。
毒舌は別にいい。頭脳明晰もまあ貶してはいないから、間違ってても訂正なんかしてやるつもりはない。
けどツンデレって何だツンデレって。俺のどこに、そんな面倒な部分があるっていうんだ。
「……筋肉ゴリラめ」
「褒め言葉だぜそれ。やっぱ悪口言う才能ないよお前」
一杯食わせたと言わんばかりににやりと笑みを浮かべて勝ち誇る
悪口の才能がないではない。ただこいつが悪態を欠片も気にせず流せる剛胆な人間って話だ。
これ以上張り合っても馬鹿を見るのはこっちなので適当に流していると、入ってきた教師が軽く静かにするように言ってから
一年間、変わることなく話すのが長い担任の男。どうでもいいこの時期でも五分くらいは無駄に座らせられるのだろうと小さくため息を吐いていると、腰回りに僅かな振動を感じた。
ポケットに手を突っ込み、目的の物を引っ張り上げて画面を眺めると、そこに映るのは馴染みの会話アプリのアイコンだ。
『ここはどうじゃ? 昼肉旨しと話題の店ぞよ』
『○』
俺のスマホで二番目に活動しているチャット、その中の駄文とリンク。
俺の知る限り、この毎回変わる不可思議な文法を使うのは一人だけ。そしてそれに続く、短縮した返事をするやつに該当するのも一人だけ。
……なんだ、結局全員参加か。ならいつもと変わらないじゃないか。
『さっすが
単純明快。実にシンプルで分かり易い
今日は当たり、それとも前回のようにはずれか。
後者が七割なので期待もせずにタッチしてみれば、画面に出てきたのは何となく雰囲気の良さそうなお店。どうやら不安は杞憂だったらしい。
癖はあるが退屈しない連中。
けれどもうすぐこれも終わる。それぞれが違う道へ、恐らく重なることもないくらい異なる夢へ向かって歩き始めようとしている。
──ではそのとき。夢もなく、未だ進学先にすら悩む俺は、彼らのように歩き出せるのだろうか。
『りょうかい』
捻れの欠片もない簡潔な返事をしてから画面を閉じ、湧き出した無意味な思考をから逃げるように教師の言葉の羅列へ耳を傾けた。
「はー腹いっぱい! 旨かったなー!」
満足そうに腹をさすりながら、後ろを歩く俺たちに勝ち誇ったような顔を向ける
たまたま良い店当てただけでよくもまあそんな勝った気になれると呆れるが、まあ美味しかったのは事実なので、余計なことは言わないでおこうと口を塞いでおくことにした。
「……たまの奇跡なくせして、よくもまあ有頂天になれるよな」
「言ってやるなよ
目の前の男に辟易しながら呟く髪の長い男──
飯に行った後はいつも騒がしい。安くて旨い隠れた名所に行ったときも、糞みたいな外れに行き着いてしまったときも、ほとんど変わることはなかった。
……あと何度、四人一緒でこんな風に出掛けることが出来るだろうか。
どんなに多くとも百を超えることはないのは、俺の頭でも容易に理解できることだ。
「……もうすぐ、高校も終わりだな」
「……色々あったよなー。特に中二病チックな
「……忘れろ。今生で三指に入る黒歴史だからな」
顔に手を当てながら提案するが、張本人の
よして欲しい。あれは思い出すのもちょっと悶えたくなるくらいの醜態だったんだから。
「進路、確か
「……学校は違うけどな。俺は心理系に強いとこ、対して
「情報系。ゲーム会社への就職に有利なとこで、」
やりたいことを掲げながら、それぞれがはっきりと進路を口にする。
どちらも早くに決めて勉強に励んでいたな。特に
俺にはない熱の塊。
何になりたいかすら曖昧な俺にとって、どれだけ高く遠い夢であろうと構わず挑める気概こそが羨望の対象に他ならない。
得手不得手など関係ない。
それこそ昔の
──いや、それどころか誰かの夢を縛る鎖にでしかない俺。
もっと遠くに羽ばたけるはずだった一人の少女の翼に、飛ぶのを躊躇う程の重りを付けている可能性だってあるのだから、度し難いことこの上ない。
「あ、
嫌な思考が胸に渦巻き始めたとき、前を歩く
指差されたのはビル。より正確に言えば、その側面に貼られている大型掲示板に映る四人の少女。
──
『いやー、今回も四人の魅力がこもった素晴らしい曲でしたねー。今回はどなたがテーマをお決めに?』
『
和やかな空気で進んでいくインタビュー。
収録とはいえ、よくもまあ個性を出せるもんだ。
「……二年の時は同じクラスだったけど、
「あんま来れてなかったらしいしな。……まあ、それでもテストの順位は高かったらしいけど」
「うっへー。やっぱ持ってるもんが違えんだろうなぁ」
隣で画面を見上げながらしゃべる
疲れて帰ってきた日も家で勉強していただけで、あいつは別に器用って訳じゃない。
歌や踊りだってそうだ。伸びたのは才能だったのかもしれないが、それでもあいつが歌うのが好きだったから、だからここまで続けられたんだ。
それを変えちまったのは他ならぬ俺。
彼女に過度な負荷を掛けているのは、輝くべき星にしがみついてしまっているのは、他でもない俺自身なのだから。
『次のライブは三月とのことでしたが?』
『はい。今まで培ったことを出し切れればと思っております』
確かリーダーだったと記憶している女性──ミスズが芯のある口調で意気込みを告げた。
ライブ、か。そういえば、確か一度も行ったことなかったけか。
「……そろそろ帰ろうぜ。あんまり見てると冷えちまう」
「そうだな! 俺も犬の散歩をしなきゃだしな!」
冷えたのか小さくくしゃみをした
『ありがとうございました! 最後にあまりしゃべれなかったセイナさん、是非意気込みを!』
『え、私っ!? ……ごほん、絶対笑顔にするので楽しみにしててね、……会場で待ってるから!!』
星奈の言葉に背を向けながら、三人の後ろをついていく。
浮かべているであろう眩い笑顔。けれど今はどうしてか、そんな彼女を見る気にはなれなかった。
父と母が死んだ日から、俺の世界は色を失っていた。
好物だったお寿司を食べても美味しいとは思えない。引き取ってくれた祖父祖母がこれ以上ないくらい優しくしてくれても心は沈んだまま。
どれだけ気温が暖かくなっても、どんな励ましや同情があろうとも。心の中には、あの日降った雪がそのまま溶けぬまま、俺は誰もいない場所で蹲るしか出来なかった。
『──れんくん、どうしたの?』
そんなとき、学校の誰もいない裏で泣いていた俺に掛けられた言葉。
それは俺と同じくらいの背丈。確か歌うことが好きで、夢は皆を笑顔にすることだと自己紹介で言っていた、席が隣の黒髪の女の子に似ている声。
──
『……なんでもない』
『うそ! だっておちこんでるもん!』
彼女の言葉に釣られるように腕で顔を隠しながら、逃げるように立ち去ろうとした俺。
けれど、
『……はなしてよ』
『いや! げんきだすまではなさない!』
困っているのはこちらだというのに、
先に折れたのは俺の方。目の前の頑固な同級生を前に、枯れた喉から出たガラガラ声で問いかける。
『……なにがしたいんだよ』
『ふっふー。よくぞきいてくれました!』
止まってくれたのが嬉しかったのか、
『いまからうたいます! わたしのうたでげんきになれー!』
『……は?』
『いきまーす!』
戸惑う俺を尻目に
大きさだけが取り柄。上手くもなく下手でもない、言ってしまえば年相応の一言で済む程度でしかない、どこでも聞けるだろうありきたりな歌声。
けれど何故か。どうしてかその歌は耳を綺麗に通り過ぎ、溶けることのない白い山を溶かそうと、ほんの僅かな熱を感じさせてくる。
──楽しそう。楽しそうに歌うなぁ、こいつ。
『どうだったー?? これでげんきいっぱいでしょー?』
歌い終わった彼女は自信満々に聞いてくる。
自分の歌で俺が元気が出たと本気で信じている目。俺とは違う、純粋で美しい小さな子供の目。
まるで夜空に浮かぶ星だと、覗き込まれたときに思ってしまった。
『……なるかよ。へたくそ』
素直になれなかったのか。それとも認めるのが嫌で仕方なかったのか。
理由はもう忘れてしまったが、確かそんな程度のつまらない意地に流されるまま、勢いで口にした否定。
少女はそれが大層予想外で、そしてそれ以上にお気に召さなかったのだろう。ぽかんとしていた顔が、それがわかるほどの怒りの面に変わっていく。
『なんだとー! このやろー!』
『へたにへたっていってわるいかよ』
『むっきー!!』
むきになってしまった最後、猫よりもくだらない理から始まった息が切れるまで続く口論。
いつどちらかが掴みかかるか分からない空気。それを無理矢理終わらせたのは、授業開始五分前のチャイムだった。
『じゃあいつかうまいっていわせてやるもん! わたしのうたでげんきになったって、ぜったいにいわせてやるから! えーん!』
逃げるように立ち去る
こんなくだらない喧嘩がおれと
三人と別れ、街中の賑わいが届かない自宅まで帰宅した。
家の戸を開けようと鍵を取り出そうとしていると、隣の住む女性──
かつて、両親と一緒に暮らしていたこの家。
彼らが残してくれた遺産。そして今の保護書である父方の祖父母の好意によって、そのまま住むことを許されたかけがえのない場所。
端から見れば実に奇妙な空間。両親を失った不幸な子供が、家だけ残されて
それだけでもどう接すればいいのかわからないというのに、そんな孤独な子供に対して自分達の一人娘が家族の時間よりも執心しているのだ。当然、距離感など測りかねても仕方が無い。
うちの娘とあまり関わらないでくれと。
結局
正直、そんな彼らの気持ちを否定することなど俺には出来ない。
昔交わした約束。幼き日の喧嘩口で生まれてしまった、実にくだらない誓い。
普通であれば一日寝ればそれでリセット。例え片方が覚えていたとしても、もう片方にとっては過ぎ去って久しい過去の話でしかないような言葉。
──だが、彼女は違った。あの日を境に、まるで親鳥に引っ付いて離れない子供のように付きまとい続けてきた。
最初はすぐに飽きてどっかに行くと思っていた。他人を気にする余裕などなかったのもあるが、それでも本気で鬱陶しくて、つい怒鳴ってしまったこともあるくらいだ。
それなのに、彼女は俺の側に居続けた。
怒るときはあった。泣くときもあった。掴み合う喧嘩になったときも、夕方のチャイムが鳴っても二人で外を走り続けたこともあった。
最初は邪魔だったけど、彼女の存在が次第に笑顔を取り戻していったのは確かだ。
──けれどそれが可笑しいと、そう思い始めたのは高校に上がるときだ。
『え? もちろん一緒の高校だよ?』
それはアイドル活動を始め、
まだ候補の一つも伝えていなかったのにも関わらず、
当時行こうと考えた高校の偏差値は、日本中の高校を上から並べて数える方が早かったところ。
いかに要領が良く、平均よりも優れた成績である彼女だとしても、芸能活動と兼業して通うのは不可能だと、誰が見てもそう言うであろう学校だ。
──それでも、彼女は一切の冗談なく本気だった。
宝石のように透き通る黒曜の瞳。いつもであれば輝く黒色が、夜よりも深い深淵に見えてしまったのだ。
ただただ恐ろしかった。
彼女はどこか可笑しいのではないかと、何年も一緒にいてくれた優しい少女に向かって、そのときはじめて恐怖してしまったのだ。
結局俺が選んだのは、最初に考えていた場所よりも偏差値の低く、彼女が無理をせずとも入学できるこの学校だった。
彼女を壊してはならない。
その姿を想像した瞬間にこみ上げた恐怖、それだけで学校を選んでしまったのだ。
──このままじゃいけないと、その時初めてそう思えた。
彼女が俺に執着しているように、俺もまた彼女に依存してしまっていることに気付いてしまったのだ。
だからこそ、彼女の両親が告げた言葉はある種の契機だと感じた。
わかっていても、自分では変えられない。俺自身が彼女との歪な絆にしがみついてしまっているからだ。
これを機に少しずつ離れていこう。くっついた磁石の磁力を弱めていくように、徐々に適切な距離を保っていこうと、軽い決心で決め実行しようとしたのだ。
……まあ結果は散々。
彼女の突撃は俺のささやかな抵抗など吹き飛ばし、より一層近くにいるようになったのだが。
彼女の所属するアイドルグループに火が付いたのは、そのとき起きた良い偶然だったのかもしれない。
彼女の意志とは関係なく熟す必要のあるスケジュールの数。クラスが違うのもあるせいか、結果として彼女が俺の家に訪れるとき以外、まともに話す時間が取れなくなったのだから。
「……はあっ」
改めて彼女と俺について振り返ると、自分の心の弱さにため息が漏れてしまう。
……別に今日に限った話ではない。気持ちが不安定なことなど、一人でいればいつもどおりのことだ。
沈みがちな気持ちのまま自室に入り、制服から部屋着のスウェットに着替えて一息つく。
先に風呂。その後ご飯。後は勉強するだけで終わる、変わり映えのない普通の日常。
何とも退屈な生活だ。華と言えば
さながら降り積もった雪のよう。違うとすれば、溶けもせずそこにある意味もないことくらいか。
……このまま生きていくのだろうか。何も為せず、ただ無駄に歳を重ねてくのだろうか。
「……ん?」
将来への漠然とした不安。そして
高校三年になってから急速に膨らみ続け、そして今年に入っていよいよ抱えきれなくなってきた悩み。
身を掻き毟りたくなるこれからへの悲観に呼応するように、がたりと、どこからか音が聞こえた。
突然の物音に体をびくつかせながら周囲に見回してみる。
音の大きさ的にこの部屋から生じた音のはず。
けれどどこも崩れた形跡はない。そもそも片付けておかないと、
じゃあどこから聞こえたのか。少し悩んで、ふと目に入った押し入れが答えだと察した。
……押し入れか。確かにこの中からならそれほど違和感はない。
──この場所には、子供の頃の思い出が詰まっているのだ。
聞かなかったことにしよう。見なかったことにしてしまおう。
扉の奥からの呼び声に、いつものように目を背けようとした。
──だがどうしてか。足は心に反して近くまで近づいていき、手は吸い寄せられるかのように伸びていく。
いつまでも目を背けてはいけないと。いい加減向き合えと。
口を持たないはずの意思が、ため息交じりにそう言った気がしたのだ。
ごくりと唾を飲み込み、抗うのを止めて覚悟を決める。
どうせいつかは除かねばならないのだ。遠回しにしていた
取っ手を掴み、ゆっくりと少しずつ開いていく。
ぎぃ、と軋む音を立てながら扉はズレていき、暗闇は徐々に光に照らされていき、朧気に記憶に存在する過去と一致した中が目に映る。
最後に開いたのは、確か中学生の頃に物を突っ込んだ頃だったか。
懐かしさがこみ上げてくる。何故か目に滴が貯まているように感じたが、多分籠もっている埃のせいだろう。
今になって中の汚さで一瞬躊躇いを覚えたが、それよりも強い昂ぶりと不安に掻き消される。
そうだ。ここまで来たのだから、もう引き下がることなど出来やしない。
──今ここで振り返らなければ、俺は一生この場所と向き合うことはないと、不思議とそう思えるのだから。
「……懐かしいな」
中に置かれている無数の箱。
入れた記憶のあるもの。いつからそこにあったのかすら定かではないもの。最早何が入っているかすら察することが出来ないほど小汚い小箱など。
一つずつ見ていこうと、まずは一番近く見覚えのある箱から取り出し、ゆっくりと箱を開く。
子供一人なら隠れられそうな大きさの箱。中を開けばそこには記憶通り、中学生の頃に使っていた物が入っていた。
綺麗に畳まれた制服。寄せ書き一つ書かれていない卒業アルバム。後は教科書が数冊と、くたびれた生徒手帳があるくらいか。
特に何かを手に取ることもなく、一通り見返して箱を閉じる。
中学で思い出すことはほとんどない。
……そういえば。最後に話したあの娘は、今でも陸上を続けているのだろうか。
ふと誰かの言葉を思い出すも、最早声も顔も、そして名前すらも浮かんでこない。
少しだけ思い出そうと試みるも、思い出すことはなく。
それならそれでいいとすぐに切り替えながら、今見た箱を奥へと仕舞って次の箱と入れ替える。
星形の模様の入った、先ほどよりも少し小さい箱。
箱を開こうと蓋に触れようとした時。ほんの一瞬、自分しか分からないくらいほど僅かな躊躇いが、蓋に触れていた指先の力を緩める。
──嗚呼、この箱は何となくだが覚えているな。
脳裏を過ぎった淡い記憶の答え合わせをするために、意を決して蓋を持ち上げる。
久方ぶりに光を浴びた箱内。充満していた乾いた臭いを嗅ぎつつ、中に手を入れて中身を取り出していく。
表面に傷の付いた黒い箱状の筆箱。先ほどよりも少ない数の教科書と、それよりも多くの冊数があるノート。その他にも、目に映すだけで軽く微笑んでしまいたくなる──小学生の頃に残した品々が入っていた。
……懐かしい。
確か教科書はいらないから良いけど、書いたノートを捨てるのは勿体ないって残しておいたんだっけ。
埃の被さったノートを手に取り、ぱらぱらとページをめくって中を見てみる。
読み取れないほど汚くもなく、かといって見習えと言えるほど綺麗とも言えない字と書き方。
確かに俺のノートだ。ノートの取り方はこのときから固定なのだと、成長していない自分に嬉しさと悲しさの両方を覚えてしまう。……こんな所も変わっていないんだな、俺は。
懐かしさからか取っては開くを繰り返していると、ノートに紛れた一冊が目に入る。
卒業文集と表紙に書かれた冊子。……そういえばあったな、こんなのも。
中を見てみれば、豪勢にも一人一ページで様々なことを書かれている。
たまたま開いたページは知らない男子のページ。野球選手になりたいのだと、その道の険しさをこれっぽちも理解せずに自信満々と書かれている。
……夢、か。そういえば、俺はこのとき何と書いたんだったか。
欠片も思い出せず、想像すら付かない将来の夢。疑問のまま俺が書いたページを探してみると、思いの外すぐに発見することが出来た。
──将来の夢はありませんが、人の役に立つ仕事に就きたいです。
子供らしくない退屈な夢だと、自分で自分に呆れてしまう。
どうせその場を凌ぐために適当に書いたのだろう。だから今の今まで思い出せなかったのだ。
将来を考えたくなかったのはこの頃かららしい。……いや、この頃は考えたくもなかったってのが本音か。
……まったく、だから今になってツケを払うことになるんだ。
子供なら子供らしく、もっと無茶無謀な大志を掲げておけと苦言を呈したくなるが、意味の無いことだと一人で勝手に落ち込んで冊子を閉じて箱をしまう。
その後も何個か開封を繰り返し、ずっと閉じ込めていた過去を紐解き続ける。
一通り見終えたのは、時計の短針が八を示した頃。夕暮れと夜の切り替わるぎりぎりに帰宅したというのに、すっかり空は黒く染まってしまっていた。
明日も普通に学校なんだし、そろそろ風呂にも入ろう。
湯を沸かそうと作業を切り上げ、足に力を込めて立ち上がろうとした。
「……あっ」
その拍子に右足に何かがぶつかり、思わず声を上げてしまう。
じんじんと痛む親指。何にぶつけたのか、少しの苛つきを抱えながら諸悪の根源を見る。
そこにあったのは銀色の薄っぺらい缶。煎餅なんかが入っていそうな、見覚えのない箱だった。
多分片し忘れでもしたのだろう。疲れていたとはいえ、我ながら実に散漫な意識なことだ。
せっかくだしこれも見てしまおうと、くすんだ銀箱を雑に拾い上げる。
見覚えもなく、中身に皆目見当も付かない箱。だいぶ古い物なんだろうが、一体何が入っているのだろうか。
どうせ大した物はないと、特に期待をすることもなく開こうとするが、少しの力ではびくともしない。
面倒臭いと思いながらも、開けずに放り投げておく気も無かったので、再度座り込んで力を入れ直す。
少しの手間を掛けることで、ようやく開いた最後の箱。
どうせ碌な物はないだろう。せめて千円くらいのへそくりでも入れてあればと思いながら、がさがさと漁っていく。
「……なんだこれ?」
中にあったのは、折り曲げられた何枚かの紙と色鉛筆だった。
昔は白だったのだろうが、既に色褪せて黄ばみ始めている紙。ちょっと触りたくないと思ったが、それでも興味に負け、破らないようにゆっくりと紙を開いていく。
「──あっ」
その紙に描かれているものを見た瞬間、稲妻のような刺激が脳内を駆け巡る。
絵だ。色鉛筆で描かれていたのは、三人の人間が仲良く手を繋いでいる姿だった。
思わず口に手を当てながら、それでも目は目の前の一枚に釘付けのまま。
──そうだ、思い出した。これは俺が子供の頃、まだ両親が生きていた頃に描いたものだ。
「……父さん、母さん……」
今はもうこの世にはおらず、二度と返事の返ってくることはない二人。
一緒にいればいつも笑顔でいられた、それくらい大好きだった両親が、小さな俺と一緒に微笑んでいる。そんな幼い少年が描いたにしては上出来なだけの絵。
けれどその拙い一枚には、今の俺には絶対に届かない幸せが詰め込まれていた。。
視界の潤みを腕で拭いながら、それでも涙の原因から目が離せない。
鼻を啜る音。くしゃりと紙が歪む音。部屋に響くのは、そんな小さな音だけだ。
他の絵も見てみようと、銀缶に眠る紙を次々と開いていく。
富裕層しか買えないであろう赤いオープンカー。別段得意でもなかったろうに、テレビ中継で見るようなユニフォームでバットを握る男。そして最後の一枚は、やはりブルーシートの上で幸せそうに笑みを浮かべる三人家族の絵。
人差し指で描かれた両親をなぞりながら、この絵を描いていた頃に思いを馳せる。
そうだ。あの頃は絵を描くのが大好きで、その絵を両親に褒められるのが、これ以上ないくらい嬉しくてしょうがなかった。
──そしてもう二度と、その嬉しさを感じれないのがどうしようもないのが嫌で、だから絵を描くことを避けていたのだ。
『
『うん! ぼく、おとなになったらまんがかになるんだ!』
『そうかー! 将来が楽しみだなー!』
幼い頃。父に頭を撫でられながら、低く優しい声で言われたのを思い出す。
『ほら
『だっで、だっでへだだっで! がげだえがへだだっで、いっでぐるんだもん!!』
『あらあらー? じゃあ次は、もっと上手く描いて皆を笑顔にしなきゃねー?』
泣きべそ掻いて帰ってきた俺を抱きしめ、背を撫でながら掛けてくれた母の声を思い出す。
そうだ。あの頃は今と違って、誰でも呆れてしまうほど泣き虫だった。
「──そうだ。そういえばそうだった」
皆を笑顔に出来る絵を描くこと。自分の描いた物で人を笑顔にすること。
それが昔抱いていたはずの夢。──薄情にも今の今まで思い出すことなく、辛さ故に閉じ込めておくしかなかった、一人の子供の大切な願いだった。
潤みが視界を勝手に滲ませながら、ぽたぽたと絵に水滴が垂れていく。
止まらない。止められない。──止めたくない。
声と何かを懸命に噛み殺しながら、葛藤と激情の全てを嗚咽と吐き出し続けた。
──嗚呼、これほど泣いたのはいつ以来か。
少なくとも、泣き虫だったあの頃を忘れてしまうほどには遠い過去なんだろう。
「……描いてみよう」
思考と同時に、無意識に口から漏れた言葉。
知らず知らずに拒んでいた行為。けれど今はどうしてか、この溢れんばかりの衝動に体も心も預けてしまいたい。
片付けることすら忘れ、箱に入っていた色鉛筆を取って机に向かう。
何を描くかなど決めていない。ただ腕の動く限り、心の赴くままにペンを動かし続けた。
風呂も食事も、あげく睡眠すら忘れて描き続ける。
何枚も何枚もただ無心で。ずっと遠くに置いてきた夢という名の光を、凍え冷え切った心に再び灯すかのように。
卒業式も終わり、高校生と曖昧に名乗れる期間もあと数日になる頃。
押し潰されそうになりそうだと、そう錯覚するくらいの人混みに流されながら、目的に向かって歩き続けていた。
『急がずゆっくりと前にお進みくださいー!』
多くの雑音を塗りつぶし、拡声器に乗せられたノイズ混じりの大声量。
普段であれば、こんな誘導をされるような場所に近づこうとすら思わない。
数人程度の人混みですら苦手だし、ヘッドホンをしていても貫通してきそうな、無遠慮に聞こえてくる煩い会話音も嫌で嫌で仕方ないからだ。
けれど、今日は全てを我慢してここに来ている。
彼女が──
ここに来ることを
言わない理由は二つ。
俺の関わらない
誰か一人にではなく、ステージから見える全ての人へ光を放つ可憐なアイドル。そんな彼女の姿を見に来たのだから、言えば本末転倒も良いところだろう。
慣れない人の数に四苦八苦しながら、ようやく指定された席へと辿り着く。
買えた場所は二階席の最前列。あちら側から見えない遠さだが、こちらからはぼんやりと見ることの出来る、そんな丁度良い距離感の席。
──これでいい。本来なら、彼女と俺はこれくらい離れた位置にいるんだから。
「今日のセイナちゃんめーっちゃ楽しみー!」
「えー? 一番はルナ様なんだけどー!?」
左右と後ろで和気藹々と話されるのは、どれも同じような会話。
自分の推しを待ち望む無数のファン。これから始まる唯一無二の数時間への興奮を、誰もが抑えきれずにいる。
──嗚呼、これがライブ。これこそが、
実際に来て初めて体験するスケールの大きさにただただ感嘆しながら、遠くに聳えるステージをぼんやりと眺める。
もう少しすれば、あそこで
余計な体力を使わぬよう、腕を組んで目を閉じながら待ち続ける。
これから始まる
やがて空気が変わり出す。案内放送が終わり、雑談も次第に消えていく。
誰もが視線を一箇所に集め、今か今かと待ち続けている。この場の全員が気持ちを一つにし、登場を心待ちにしていた。
──そしてついに、始まりは突然に訪れる。
『みんなー!! 今日は盛り上がっていこうねー!!』
鮮烈で高らかに。曲のイントロに発したその一言で、この場の空気を一変させる。
嗚呼、これこそがアイドル。
無限の光の中で最も輝く一番星。俺が知ろうとしなかった、彼女の本当の輝き。
眼を奪われ、心を焼かれる。これほどの身を焦がす興奮は、生まれて初めてのことだった。
「……叶わないなぁ」
動くことなど叶わず、絢爛なステージの上で光を放ち続ける
凄い、凄いよ
ずっと近くにいてくれた彼女。俺を笑顔にすると約束して、それからずっと側で導いてくれた黒髪の少女。
そんな彼女が世界で一番輝いている瞬間。初めて会ったときから、一片たりとも曲げずに追い求めていた夢の果て──誰かの笑顔が見たいと、その決意の到達点。
──それが今目の前にある光景。
たった一人から始まった夢は、こんなにも多くの人を笑顔にしているのだ。
「……なんだ、もっと前から来れば良かったなぁ」
誰もが魅了されるパフォーマンスの中、瞳を潤ませながらぽつりと口ずさむ。
ありがとう。そしてもう大丈夫だ。
やりたいことを再び見つけることが出来た。お前のおかげでまた心から笑えた。
だからもう心配ない。こんな枷は外してやるから、お前はどこまでもどこまでも羽ばたいてけよ。
手を伸ばそうと届かない、初恋の少女が魅せる輝きを、最後の一瞬まで余すことなく目に焼き付ける。
大好きだった少女を最後の奇跡を心に刻むように。そして、これから分かつ道に後悔を持ち越さないように。
──さようなら。どうか幸せに、誰よりも満ち足りた幸福があらんことを。
馴染みのある音楽の流れる店内。
台車に積まれた箱の中から物を取り出し、慣れた手つきでてきぱきと棚へと並べていく。
「田辺君。後で点検の方頼んでいいかな?」
「了解っす。やったら二人とも上がりますねー」
遠くから聞こえてくる会話から、丁度入れ替えの時間になったのを把握する。
窓から見える空の色は既に真っ黒、退屈な作業でも意外と時間を使っているものだな。
時間の経過と自らの集中を褒めながら、作業を終えて事務所に戻る。
エプロンを取って鞄に突っ込み、とっとと帰ろうと思っていたところで、肩に軽く叩かれた。
「おっつー
声を掛けてきたのはバイトの先輩である彼。
同じ大学の二つ上である彼。悪い人ではないのだが、この雑な距離感だけはどうにも未だに慣れることができていない。
……この人が誘うってことは、どうせ合コンか飲みの誘いだろう。
「ちょい一人空いちゃってさー。暇なら飲みどーう?」
「……あーすいません。ちょっと課題が多くて、今は遊ぶ暇がないんすよ」
案の定的中していた内容に、悩むこともなく答えを返す。
……合コンね。別に興味が無いとは言わないけれど、今は目先のやりたいことで一杯一杯だ。
「えーたまには行こうずぃー? 学生の内が華って言うし、いろいろやっとかなきゃそんだぜぃ?」
「あはは。すいません、また今度で」
やんわり断ると、これ以上は無駄だと退いてくれる先輩。
この一線が彼の美点。うざいだけの人か悪い人ではないと良い印象を抱けるかは、こういう些細な点で変わるのだと実感できる。
この絶妙さはやはり参考になると、今後の作品への材料として記憶しておくことにする。
店を出て、気さくに手を振って駆け出した彼と別れ家への帰路につく。
もう手袋もいらなくなったなと。
指先の冷えの消失という気温の変化を感じながら、携帯を開いて興味の出そうな話題を探していく。
パンダの出産。ノーベル賞候補者のインタビュー。……おっ、セイナが主演の映画か。
更に美しくなった元アイドルに懐かしさを覚えながら、空を見ながらふと一年を振り返る。
あのライブからもう一年。結局、俺が進んだ進路は芸術系の大学だった。
実に無謀だとは誰よりも理解している。現に高校二年までの俺であれば、間違いなく嘲笑っているくらい無鉄砲な試みに違いないものだ。
けれど、この選択に後悔など微塵もない。
いきなりすぎる進路変更に教師達も止めてきたが、欠片も曲げることなく卒業したのだから。
──人を笑顔にする絵を描く。
思い出せた理想の実現のために考えた結果、その夢を叶えるには漫画家が一番だと思い至ったのだ。
唯一話した祖父母は、母方父方問わずに笑って受け入れてくれた。
全く我が儘言わなかった俺が初めて自分から頼みを言ってきたと、むしろあっちが感極まって涙を流したのだから。
これほど心配してくれて、そして背中を押してくれる祖父母。
そんな彼らに少しの気まずさを覚えていたのだから、今までの自分はつくづく親不孝者だったと思う。
セイナ──
あの家を離れたのはライブの次の日。
約束は果たされたと、手紙にはありったけの感謝を込めた。
それでも直接会わないのは悪いとは思っている。けれど
まあでも未練がましい俺と違って、彼女は強いのは誰よりも知っていること。
現に更なる躍進を遂げているのだから、別れの選択は間違ってなかったのだろう。
高校の頃の友人達も似たような感じだ。
行き先も教えず、卒業以来一度も会っていない三人。それでも連絡を取り続けられる気の良い連中。……本当、俺には勿体ないくらいできた友達だ。
……離れたことのなかった街から出ての一人暮らし。振り返れば本当にいろいろあった。
家賃と生活費を自分で出すためのバイト。慣れない新環境への食らい付く日々。
どうにか受験は越えた俺に待ち受けたのは、不十分な知識と経験を補うため、死に物狂いで駆け抜けねばならなかった一年だった。
なまじ半端に物事を熟せていたため、今までしてこなかった苦労をまとめて圧し掛かってきた。
死ぬほど弱音も吐いてるし、全部ほっぽり投げて遊んでしまいたくなることだってあった。
それでも進み続けている。あの日取り戻した夢の続きを、俺は今も歩み続けている。
だってあいつも──
煌めき溢れる星の少女。努力して夢を叶えた彼女の一番近くにいた俺が、こんなところで弱音を吐いて言い訳がないのだ。
遅すぎるとは思う。こんな思いを抱くには、
だからこそ、俺は止まるわけにはいかない。次に彼女に再会したとき、眼を背けず真っ直ぐと向き合えるくらいにはならなくちゃいけないのだ。
……そうだ。のんびり歩いていられる時間などない。
早く帰って続きをやろう。より多くの枚数を描き、より人の心を掴める話を創らねば。
目指すのはあの日見た最高の光。
誰もが手に取り笑顔を浮かべることが出来る──彼女のような作品を生み出すことなのだから。
「……よしっ」
携帯をポケットへ仕舞い、大きく一呼吸して一気に走り出す。
長い長い道の果て。いつか辿り着きたいと願う、何よりも美しい光の側へ向かって。
──季節は春。少年の心に降り積もっていた雪は、もうとっくに溶け終わっていた。
雪解けは旅立ちと共に わさび醤油 @sa98
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