歯車

小狸

歯車

 ――歯車だ。

 長い間愛用していた目覚まし時計が壊れた。

 高校の時から使っていたものだ。

 通学路がとても遠く、朝早く起きねばならなかったから、小遣いを叩いて購入した。音が大きい上にきちんと押さないと鳴りやまないという機構が、彼のお気に入りだった。

 最近はアラームに変な音が混じっており、挙動がおかしいことが気がかりだった。

 そして今日。

 ついに、動かなくなった。

 幸いなことは、今日が仕事が休みだったということだろう。

 寝坊することはなかった。

 役目を終えた時計を持ち上げると、かちゃかちゃと、小さな部品が、機構の中で動くような音が聞こえる。

 試しに電池を変えようと後ろを開くと。

 そこから、一つの――小さくて黒い歯車が転がり落ちてきた。

 ――これは、僕だ。

 とりしんは、生涯においてもう何度目か分からないその思考に至る。

 自分を周囲へと溶け込ませ、意志のない一つの機能として生きる。それはまるで機械製品の部品のただ一つの歯車のように。

 布団の上に落ちた歯車を広い、じっと見た。

 成程、噛み合う部分が摩耗し、すり減っていた。

 経年劣化、長い間、動き続けていたせいであろう。

 元々安物の目覚ましではあったので、良く頑張ったものだ――と名取は思った。

「…………」

 ――僕は、歯車だ。

 歯車を眺めながら、もう一度、名取は思う。

 成人し、地方公務員として市役所で働く傍ら、やはり彼はそう思う。

 彼の人生のどの地点においても、彼の中にあるその認識が変わったことはない。

 ――僕は意志のない、ただの部品だ。

 ――そこで、あるべき役割を全うしているだけだ。

 そう思う。

 名取は、己の人生を歯車だと思って生きてきたし、今だってそう思っている。

 小学生の頃、誰もやりたがらない児童会の仕事の時、同じクラスの人達ほとんど全員名取を推薦した。

 中学生の頃、校外学習の時にはいつも班長を押し付けられた。

 高校の頃、誰もしないことを率先して気付く便利な輩として良いように周囲に使われた。

 大学の頃、部活の役割決めの際には、とりあえず名取にどんな仕事を押し付けるかが、まず話し合われた。

 ――今から思えば、やはり良いように使われていたのだろう。

 ――そして、都合の良い人間だったんだろうな。

 ――面倒事を、さながらブラックホールのように引き寄せてくれる、便利な存在。

 しかし名取は、義憤に駆られることはなかった。

 人はそんな名取を「優しい」「お人好し」「自己犠牲的」だと言う。

 それらの表現は一見的を射ているように見えて、しかしどれも根幹の所で間違っている。

 名取にとって――それは当たり前のことなのだ。

 何故なら彼は、歯車だから。

 誰にも配慮されず、誰からも心配されず、誰からも声を掛けられない。感情を慮りはしないし、踏みにじって当然、邪見に扱うことが日常、蔑みストレスの捌け口にされる。

 ――今ここにいるのが僕である必要はないし。

 ――僕が死ねば、別の誰かが取って代わる。

 ――名取真司という僕は、唯一ではない。

 ――所詮、誰かの代わりでしかない。

 だからこそ「優しさ」も「お人好しさ」も「自己犠牲さ」も、彼からは最もかけ離れた言葉なのだ。

 彼をよく知る人物ならば――次の文言に共感してくれるのではないだろうか。

 名取は見知らぬ誰かのために、当然のように命を投げ出す。

 自分の命ですら、歯車の一つであり、部品だと捉えているからだ。

 もしも。

 天文学的に遠い可能性ではあるけれど、もし――彼のそういう内面に誰かが気付くことがあれば、そして誰かの何かになることができれば、ひょっとすると、彼は救われたのかもしれない。無論この場合の救いは、世間一般的に言う「普通」の価値観に是正されるということを意味し、名取にとってそれが本当に「救い」かどうかは定かではない。

 だが――どうだろう。

 面倒事を良いように回収し、汚れ役を買って出て、自ら傷付いていく存在。

 集団にとって、そこまで都合の良い存在があるだろうか。

 人には個性があり、それぞれ感情がある――嫌なことは嫌と言うし、辛いことは辛いと言う。

 しかし、名取真司はそれを言わない。

 歯車だから――自分を世の中の機能の一部分だと捉えているからである。

 つまり、名取を救うということは、その都合の良い存在を手放すということに等しいのだ。

 彼が抱えていた面倒事も、汚れ役も、傷も、集団に属する人々に分配されることとなる。

 

 、「、「。利用しない手はあるまい。 当の名取は、自分の感情を踏みにじられることを、当たり前だと思っているのだから。

 事実、名取の属した集団の人々は、「そう」であった。

 ただ、彼が自滅していく様を、遠くから笑いながら、指を差しながら見ているだけであった。

 と。

 少々悪意のある表現をしてしまったけれど、誤解をしないで欲しい。

 決して、その集団の人々が悪い、と言っている訳ではないのだ。

 これらはあくまで、名取が勝手にやっていることなのだ。

 自分を歯車だと思うことも、根拠のない優しさも、心のないお人好しも、命など捨てた自己犠牲も。

 たとえ彼にどんな過去があり、歪んだ家庭環境に住み、追い詰められ、そう思うしかない状況に至っていたとしても――それを配慮し、助ける義理は、集団にはない。

 誰か一人の言葉で世界は変わってはくれないように。

 誰か一人のために、人は動かない。

 所詮他人だ――名取以外のほとんどの人間は、自分の人生をちゃんと生きている。

 当たり前みたいに自尊ができて、当たり前みたいに自信を備え、当たり前みたいに自分がある。

 だから――彼が誰にも理解されないのは、ある種当然と言えた。

 そして。

 恐らく聡明な方なら理解することができただろう。

 そんな無軌道な生き方は長く続かない。

 面倒事を引き受けるということは――それだけ人の負の面に触れるということに等しい。

 そんな環境で少年時代を、思春期を過ごし、身を削り続けた人間が、果たして「普通」に生きることができるだろうか。

 否。

 できるわけがないのだ。

 ――右耳は殆ど聞こえていない。

 ――手に上手く力も入らない。

 ――お腹が空いたのに、直ぐに吐いてしまう。

 ――気付けば死にたいと、考えている。

 ――でも。

 一昔前の鬱屈した小説のように、ここで名取が自殺をすると予想した方もいるだろうが、それは読み違えである。

 彼にとって、死など当たり前のことなのだ。

 ――部品にんげんはいずれこわれ、新しいものと取り換えられる。

 ――その時まで、回し続けなければならない。

 ――僕は、歯車なのだから。

 この時計のように、部品を交換されて、別の誰かが自分のいた場所に来るというだけ。

 今日も名取真司という人間はぐるまは、世界とけいの中で、無感情に動き続ける。

 摩耗し、擦り切れ、立てなくなり、壊れ、外れ。

 そして止まるまで。



(終)

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歯車 小狸 @segen_gen

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