第7話 なまえ 其の五 後編
彼との暮らしは、私にとって何もかも新鮮で輝いてみえた。二人で一緒にコンビニに行ったり、お揃いのマグカップを買ったり、ほんの些細な事が嬉しくて仕方がなかった。
朝起きたら彼がいる、それだけで私は満たされた。それは、私がずっと待ち望んでいた生活だった。
大学に通い、アルバイトをして、部屋の掃除や洗濯などの家事にも追われる毎日。慣れない暮らしに私の体力は限界に近い状態だった。私はアルバイトを辞めようと考え、彼に相談した。
すると彼は猛反対した。
「えりには好きなことをしていて欲しい。編
集部の仕事は夢に繋がるものなんだろ。だから、絶対に辞めてはいけない。家の事をいろいろとやってくれているのは有難いのだけど、
それはしなくてもいいんだ。もともと僕は一人でやっていたのだから、何も心配はいらないよ。僕が全てやるから、えりは大学にちゃんと通い、好きなアルバイトをして欲しい。結婚しても、えりのやりたい事は諦めないで欲しいんだ」
私は彼の言葉を聞いて涙が溢れてきた。私の事をこんなにも考えてくれて理解してくれている。彼は間違いなく私の王子様だ。
彼はいつも私に言ってくれる。
『結婚はえりが大学を卒業してからだけど、
えりは専業主婦ではなく、自分のやりたい事をやって欲しい』
私は本当に幸せなんだなぁとこの瞬間の喜びを噛み締めた。これからもこの幸せがずっと続きますように、そう祈りながら。
彼と同棲生活をして半年。転機は突然に訪れた。大学を卒業するまであと一年となった四月のことだ。
私は妊娠したのだ。
父は怒り狂い、彼を何度も殴った。彼は無言でただ殴られていた。母は私の身体を心配して、大きな大学病院に入院させた。母の予感は的中していた。私の身体は出産には耐えうるほどのものではなかった。一度衰弱して痩せ細っていた頃から私の体重はもとに戻っていなかったのだ。
みなが私の出産に反対だった。私自身、何度も悩んだのだが、いつも答えは変わらなかった。
産みたい。
私は愛する人の子供を授かったこの奇跡を無くしたくなかった。
体調も安定してきたところで、私は退院した。実家には戻らずにそのまま彼の家で暮らした。何度も迎えにきた両親のには頭を下げて、
妊娠して半年ほど経ったある日、彼が婚姻届を持ってきた。
「未婚の母にしたら、子供がかわいそうだよ
な。結婚式は出産が終わった後にちゃんとしよう」
私は嬉しくて、すぐに婚姻届に自分の名前を書いた。
これから私は、田中えり、になるんだ。
そう思うと自然と顔が綻んでいた。
出産予定日まであとわずかに迫っていた。
私は、お腹の中の娘と愛する夫と共に暮らせるようにして欲しいと神様に何度も何度もお願いした。
それから、少し心を落ち着かせようと手紙を書くことにした。両親に向けて。彼に向けて。そして未来の娘に向けて。筆をとり、私は時間が経つのを忘れるくらいに、没頭していた。
最後に残ったのは、お腹の中のこの子に宛てた手紙。
書き始めはこうだ。
『
十八歳になる最愛の娘へ
まずは、十八歳のお誕生日おめでとう。
あなたの成長を私は傍で見守ることはできているのかな。そうだと嬉しいな。
名前はなんだろう。きっと素敵な名前なのでしょうね。
あなたは今、私のお腹の中にいて、すくすくと成長しています。信じられないでしょう?
あなたが生まれてくるのを心待ちにしているんだから。早くあなたに会いたくて、もう待ちくたびれました。だから、あなたはこの手紙を読んだら、私を待たせたお詫びに、私の事を抱きしめてください。十八歳のあなたになら、少しは甘えてもいいですよね。この手紙を渡す時までは、あなたの事を大切に守っていくからね。
あなたへの誕生日プレゼントは......
』
私は全ての手紙を書き終えた。
なんだか、色んな気持ちが整理できたようで、落ち着いて出産を迎えられると覚悟が決まった。
私は生きたい。
なんとしても、娘に会うのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます