高俅(こうきゅう)の意地 ~値千金の東坡肉(トンポーロウ)~

四谷軒

01 北宋末期、奸臣・蔡京(さいけい)、国を牛耳ること

 中国。

 北宋の末期。

 五代十国ごだいじっこくという戦乱の時代を制した北宋であるが、統一国家の常として、ばつが生じていた。

 すなわち、新法党と旧法党。

 新法とは、かつての宰相(というべき立場)の王安石が唱えた、いわば行政改革に関する諸々の法のことである。そしてその新法を推進する立場を新法党と言った。

 対するや、旧法党とは、新法への反対・批判する者たちのことを称する。ただし、その「反対」のスタンスは様々なもので、中には旧法の在り方にも異を唱えるもいた。


 新法と旧法。

 どちらが正しいかと言われれば、非常に判断に悩む問題である。

 無駄を廃するという新法の精神は正しいが、性急に事を行うことにより、損害をこうむる者もいる。

 かといって、冗費や冗官が絶えない現状を容認したままで良いのかという命題がある。

 ただ、これだけははっきりと言えることがある。

 それは――新法党と旧法党の争いが、北宋という国家を損耗させ、ついには亡国の一端を担ったということである。


「このままでは、国が割れる」

 

 誰からともなく言い出したその言葉がふさわしいほど、新法党と旧法党の争いは、いつしか互いを否定し、反対し、やがては放逐し、弾圧するという方向へ暴走していった。

 その極致が、『水滸伝すいこでん』の時代――北宋の末期・徽宗きそう皇帝の時代の宰相・蔡京さいけいである。

 徽宗は文化人、芸術家としては冠絶するほどの才能を有していたが、政治についてはそれほどでもなかった。につけこんで、蔡京は巧みに徽宗に取り入り、気がついた時には蔡京から政治をまかされ、ついには太師(宰相)に任じられる。


 その時、蔡京は新法党と


 だが実際は、蔡京は都合よく旧法党となり、新法党となり鞍替えを転々としていた。

 たとえば、かつて旧法党の領袖である司馬光が政権を握った時のこと、その司馬光がある旧法の復活を五日で達せよという命令を、蔡京は首府・開封かいほうという最も法令・行政が煩雑な地で、期日通りに達成する。他の地方各地では期日を過ぎても達成できない中、この蔡京の「手腕」は司馬光に感銘を与えることに成功する。。

 ちなみにこの「旧法の復活」には批判的な旧法党の人物もいた。


「新法でも優れた法は残すべき」


 旧法党にして、能書家・詩人としても知られる蘇軾そしょく蘇東坡そとうば)は、そう言って公然と批判を行った。蘇軾は、かつての部下から批判の取り下げを勧められても曲げず、結局、地方へと左遷させられている。



 閑話休題。

 いずれにしろ、蔡京は「新法党」の太師として実権を握り、そしてそれを確たるものにするため、最終的な手段に打って出た。

 それこそが、開封の皇宮の前に建てた「元祐党石碑げんゆうとうせきひ」である。


「この石碑に刻まれた者は、『旧法党』である」


 そしてその「旧法党」は弾圧すると蔡京は宣言した。

 その「旧法党」の中には、実は新法党の者も含まれており、つまりは蔡京に反対する者を「旧法党」として扱い、弾圧すると宣言したのだ。

 その弾圧は熾烈を極め、「旧法党」とされた人々は続々と放逐され、中央官界から遠ざけられていった。

 さらに蔡京は、弾圧の対象を生者から死者へと広げるべきと主張した。つまり、たとえ故人であっても「旧法党」である罪は子孫に及ぶとし、冷遇すべき、と。たとえばその「子孫」が科挙(役人になる試験)の受けようとした場合、それを許されないと、太師として命じる、と。


 ……誰もが蔡京の権勢を恐れ、その「暴挙」から目を背けた。


 だが。

 ある男が、この石碑を倒した。

 その男、名を高俅こうきゅうという。

 これは――『水滸伝』の悪役であり、奸臣の筆頭として知られる彼の、意地を描いた挿話である。





 

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