物を騙るは語り手か
分厚い印刷用紙の束、そこに綴られた物語を読み進める。
そして、今。それが終わった。
机の上に、手汗でわずかに湿った紙束を置く。
椅子に身体を預けるようにして、瞼を閉じた。
――なんだ、この作品は……?
突然現れた「篠宮レイ」と名乗る女性。いるはずのない僕の交際相手と名乗っていた。
そんな彼女が書いたという小説を、僕は読み終えた。
いや、読まされたというべきだろうか。
押し付けられた原稿に書かれた物語。それはある少女の片思いの記憶のようなものだった。
学生時代から物語は始まり、クラス全体からいじめられている男子生徒を救えずに葛藤する主人公。高校卒業後、難病で苦しみながら後悔する内容が続く。
そして、主人公は後悔したまま亡くなってしまう。
救いのない物語、それはある意味ではエッセイのようにも読める。
主人公の心情、想い、それを表現する文章や描写は丁寧で読みやすい。
だが、メインとなるストーリーはただひたすら傍観している主人公と追い込まれている男子生徒がいるというだけで、盛り上がるような場面も無い。
他人の悲劇だけを見たいという人間には手にとってもらえるかもしれないが、全体的に「読み進めたい」とは思えない作品だ。
だからこそ、僕は疑問だった。
あの「篠宮レイ」がどうして、こんなものを書き、僕に読ませたのか。
商業展開やジャンルを意識した作家なら、作品としてのコンセプトや見所を固めるはずだ。
しかし、これにはそういったものが感じられない。
誰かを楽しませたい、面白く感じてもらいたい、そういった匂いを一切感じられなかった。
だとしたら、これはただの日記でしかない。
再度手に取り、流し読みをする。
やはり、違和感が拭えない。
これは人に読ませる小説として書かれていない。
そこそこの文章力と構成力で最低限読めるレベルにはなっている。
だが、それまでだ。
――どういうことなんだ?
逆の立場に置き換えてみよう。
篠宮レイはこの原稿を読ませる必要があった。
つまり、『難病の女性』の物語を僕に伝えるのが目的だったのかもしれない。
彼女が僕の交際相手と名乗ったことは不可解だが、それは原稿を読ませるための手段の1つとしておこう。
どうしても『難病の女性』の物語を伝える。
それをしたところで、僕に何らかの影響を与えることが目的だったのか……?
だが、僕に直接アプローチする必要も無いはずだ。
例えば、僕の仕事の窓口から原稿を投げてくる――クライアントに扮して、仕事として原稿を読ませることも可能だろう。
再度、原稿を読む。
この原稿に綴られた要素、内容を紙に書き出してみる。
物語の構造は難しくない。
始まりは学生時代、ずっと気になる男子がいて、その男子はクラス全員からいじめられていた。
そんな男子を陰から見守る主人公の女子。それはずっと変わらない。
いじめを止めたり、男子を励ましたり、アクションと取れるものは一切起こさなかった。
傍観者の片思い、ただそれだけだ。
そこから一転、病室で過ごす日々。
四季に合わせて、学生時代の後悔を思い起こす。
そして、それを妹に吐露し、ひたすら哀しみ続ける毎日。そこに変化は一切無い。
後悔を残したまま、妹を相手に嘆きながら最後を迎える。
どこまでも救いの無い物語だ。
これに金を出して読みたいと思うような読者は多くは無いだろう。
だからこそ、僕は気になってしまう。
――どうして、僕なんだ?
仮にも作家、県内の商業作家とは何人かとコンタクトを取ってるし、たまに一緒に仕事をすることもある。
だから、作家を対象としているなら僕でなくてもいいはずだ。
つまり、僕個人を対象として選んだ理由がある。
ふと、デスクの引き出しにあるものを入れたままだったことを思い出す。
そこに入っていたのは、機密保持契約書。篠宮レイにサインさせたものだ。
――やはり、調べるしかないようだ、
住所と氏名、それだけあれば個人を特定するのは難しくない。
もちろん、警察沙汰になることは避けるが最終手段としても使える。
PCや携帯端末でスケジュールや進捗管理を確認。
今日明日くらいは自由に動けるようだった。
――動ける時に動くべきだな。
携帯端末のナビアプリで住所を検索、当然のようにヒット。
車で2時間、細路地の奥が目的地らしい。
外出用の服装に着替え、部屋を出る。
駐車場に停めている自分の車に乗り、発進。
篠宮レイが書いた住所は偶然にも僕の地元だった。
あまり行ったことのない地区ではあったが、場所は把握している。
道はそれほど混んでいるわけでもなく、スムーズに移動できた。
たかが2時間、あっという間だ。
目的地付近のコンビニ、その駐車場に車を置き、徒歩で移動。
ナビアプリを開いた携帯端末を片手に、町の通りを歩く。
町とは名ばかり、そこは超が付くほどの田舎。車や歩行者はほとんどいない。
昼間だというのに、通りは静寂に包まれていた。
どこか遠くから微かな物音やラジオ、テレビ番組の音声が聞こえてくる。姿の見えない住人の存在を感じ取りながら歩みを進める。
細路地へと踏み込んでも、物静かなのは変わらない。
自分の靴音だけが響く。その静けさに、少しずつ不安が積もっていく。
しばらく進むと、両手を広げたくらいにしかなかった道幅が急に広がった。
目の前に現れたのは、古びてはいるが大きな家屋。
敷地には小さな家庭菜園や花壇があったようだが、すっかり雑草で見る影も無い。
家屋に近付き、玄関口を覗き込む。
表札には『篠宮』と刻まれている。
――ここで間違いないようだが……?
あとは本人に直接問い詰めるなり、家族に探りを入れてみよう。
そう思って、インターホンのボタンを押す――が、手応えが無い。
何度か押しつつ、玄関の扉に耳を当てる。
中でチャイムなり、電子メロディーが流れている感じはなかった。
玄関口横に電気メーターが付けられているのを発見。
古い型のメーターを確認してみると、動いている様子は無い。
もしかすると、電気は通っていないのかもしれない。
――もしかして、昔の住所を教えたのかもしれないな。
引っ越し前の住所をあえて記入し、こちらの特定を回避した……と篠宮レイが考えていたとしたら、なかなか面倒な相手だ。
しかし、利用できる手はまだある。
僕は携帯端末を操作し、通話アプリを起動。
あらかじめ確認しておいた町役場の電話番号に発信した。
数回のコールで通話が開始される。
「――こちらは、○○町役場の町民課です」
低い声の女性が通話に出た。
役場のオフィスは忙しいらしく、周囲の雑多な物音がノイズと一緒に通話に紛れ込む。
深呼吸してから、頭の中で考えていた文章を伝える。
「お忙しいところすみません、○○町の裏町○○の○番にある住宅って篠宮さんのお宅でしたよね? 呼び鈴を押しても誰も出てくれないみたいで……」
人の善意に頼ってみる。これも手段の1つとして使える。
最悪、親戚だの知人だのといくらでも嘘をつくことが出来る。不法侵入に比べれば大したことじゃない。
「えっ? 裏町の篠宮さんですか……? おかしいですね、そこはもう空き家になってるはずですよ」
――やはり、以前の住所を使ったようだ。
「そうでしたか。こちらの住所から手紙が届きまして、至急集まるようにと書かれていましたので」
僕がそう言うと、電話の向こうでひそひそと話し声が聞こえた。
怪しまれているのかもしれない。このままでは通報される可能性もある。
通話を切ろうと携帯端末から耳を離そうとした矢先、相手の女性が話し始める。
手元にメモがあるのだろうか、ボールペンのような筆記音が聞こえた。
「――すみませんが、お手紙の差出人をお伺いしても?」
――もしかして、通報するために聞かれているのだろうか?
周囲を見回す。
この一帯はほとんどが空き家らしい。僕を監視している様子は無い。
手紙なんていうのは嘘だが、契約書のことをでっち上げてもいい。
形ばかりの機密保持契約を破ったので、それを伝えるために来た――という別のストーリーに展開させることを考えつつ、僕はカノジョの名前を口にする。
「篠宮――レイ、です」
通話の向こうで、ひそひそと話しているのが聞こえる。
そして、通話相手の女性が息を呑むように沈黙する。
手にしていたボールペンを置いたのか、固い音が通話に乗った。
しばらく間を置いてから、職員の女性は言った。
「篠宮レイさんは既にお亡くなりになっています」
――なんだって?
「お手紙の日付は……?」
「す、すみません――ちょっと手元には……」
――どういうことだ?
篠宮レイ、その名前の人間が死んでいる。
いつかなんてどうてもいい。
その名前を使っている人間は、いったい何者なんだ?
それに、どうしてその名前で近付いてきた?
「――失礼します」
僕はそう言い放って、一方的に通話を切った。
頭の中にぐるぐると言葉が回る。
篠宮レイ、死んだはずの女。
それがどんな形であれ、僕の目の前に現れた。
僕にとって、篠宮レイは意味のある名前なのだろうか?
何度思い出そうとしても、その名前はわからない。
ただ、1つだけわかる。
僕の地元に篠宮はたしかに存在し、レイという女性がいたこともわかっている。
なら、次に取るべきアクションは1つだ。
携帯端末の通話アプリ、その中からいつも掛けている番号を呼び出す。
数回の呼び出し音の後、通話が始まった。
周囲の空気が重く感じられ、遠くから雨音が聞こえてきた。
鼻の粘膜を直接湿らせてくるような雨の匂いを感じつつ、通話相手に僕は告げる。
「篠宮レイを知っているな?」
普段とは違う、相手の声色。
大きく、深い溜息。携帯端末の通話越しではそれがどのような意図かはわからない。
だが、何かを観念――諦めたかのように、僕は感じた。
そして、相手は答える。
「知ってるさ」
普段の彼から聞いたことの無い、冷たい声色。
僕は思わず、携帯端末を耳から離してしまう。
続きを聞くべきかを迷っている間に、指が反射的に通話を終了させるボタンを押していた。
――戻ろう。
車を置いたコンビニの駐車場へ向かおうと踏み出した途端、空から雨粒が降りてきた。
それは一気に量を増やし、あっという間に土砂降りになる。
その物音はここに来るまでの静寂を掻き乱し、僕の足音すら塗りつぶす。
まるで、ここを調べに来た僕を誰かが嗤っているようにすら思える。
気味の悪さと、苛立ちと、不快感を抱えたまま、僕は歩き出した。
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