リインカーネーション・ラヴァーズ

柏沢蒼海

「カノジョ」と〈彼女〉の相違点

 寒空の下、アルコールで火照った顔を冷ましながら歩いていた。


 仕事での打ち上げ会――やたらと酔っ払うのが好きな親友に付き合って、少し飲み過ぎてしまった。

 僕自身、アルコールは得意ではない。

 少なくとも知り合いや友人のように、気持ちよく酔えた試しが無いのだ。


 それに、僕の仕事は頭脳労働。

 思考が回らなくなることは無いし、それが起きるとなれば非常事態に違いない。



 明日からは新しい仕事が始まることになっていた。

 その段取りを今晩中にいくつかしておかなければならないだろう。

 

 自分の部屋があるアパート、その郵便受けを確認してから階段を上がる。

 3階の角部屋、普段から郵便物が少ないから玄関前には何も置かれることはない。


 だが、そこに何かがあった。

 否、何かが


 階段の角で身を隠し、そっと覗き込む。

 3階の通路の奥――つまり、僕の部屋の前に誰かが座り込んでいた。


 目を凝らすと、おそらく女性だということがわかる。

 頭髪は短いが、体型――体付きから男性ではないのは間違いない。


 もしかしたら仕事の関係者なのかもと考えたものの、そのほとんどがオンラインでしかやりとりしていない。

 同じ県内にいたとしても、直接僕のところに来ることもありえない――となれば、仕事関係は違うことになる。



 ――ならば、一体誰だ?


 僕には交友関係がほとんど無い。

 だから、僕の部屋に直接訪ねてくる人間は1人くらいしか思いつかない。


 それに、僕は女性に縁が無いのだ。 



 あえて、知らないフリをして接触してみるか――


 見知らぬ女性に刺されるようことをした覚えは無いし、襲われてもすぐに自室へ逃げ込める。

 最悪、取材の過程で習得した護身術を使うことになるだけだ。



 ゆっくりと部屋に近付く。

 部屋の前で座り込んでいる女性の視線は、部屋の玄関に向けられている。

 

 彼女は美形だった。一般男性ならこの横顔で簡単に一目惚れしてしまうだろう。

 適度に付いた筋肉と脂肪、スポーツジムのような機材が整った場所でトレーニングをしているが絞り込むようなストイックな生活をしていないように見える。20代の健康的な女性だ。


 安っぽいジャージ、厚手のパーカー、厚底のスニーカー……おそらく、スポーツジムからそのまま来たのだろう。


 そっと玄関のドアノブに鍵を差し込む。

 すると、ようやく女性が僕に気付いたらしい。



「――おっと、気が付かなかった!」


 口から白い吐息を吐き出しながら、女性が立ち上がる。

 やはり、見覚えは無い。

 このアパートの住人と交流は無いが、少なくとも若い女性は見たことが無かった。

 

「すんません、前失礼しま――」


「――ちょっと」

 唐突に腕を掴まれた。


 部屋の前で座り込んでいたのだから、僕に用があるのは当然だろう。

 しかし、だからといって応対する必要はない。



「警察、呼びますけど」


「あっ、アンタねぇッ!」

 女性は顔を真っ赤にして、憤った勢いで立ち上がる。

 ずっと気温の低いところにいたせいか、彼女の膝が震えていた。



「何か?」


 振り向きつつ、玄関の施錠を解除。

 ドアを僅かに開けて、爪先を入れておく。



「わたし、ずっと待ってたんだけど」


 彼女は掴んだ腕を引き寄せるように力を入れている。

 だが、その手を振り払うのは造作も無いことだった。



「……初対面の相手の腕を掴むのは良くないんじゃないかな?」


 僕の言葉に、彼女はハッとした表情をする。

 彼女の赤くなった顔が、より一層赤くなる。もしかしたら頭から蒸気が上がるかもしれない。

 


「――初対面、じゃないし……」

 零すように彼女が呟く。

 しかし、会ったことも見たことも無い。それなのに、彼女は面識があると主張する。


 ――ストーカー……か?

 尾行や監視を受けていたような兆候は無かったはずだ。



「申し訳ないけど、僕は初対面だよ」


 携帯端末を取り出し、カメラモードを起動。彼女の顔を画面内で捉える。

 即座に撮影、そのシャッターを切る効果音に彼女の表情が凍り付いたのがわかった。


 だが、それは僕にとって関係の無いことだ。



「――――違う、よ……」

 感情が昂ぶったのか、瞳に涙が溜まっている。

 どんな事情、どんな想いがあるかは知らないが、初対面であることは間違っていない――はず。



 ――しかし、それはそれだ。


 泣き出しそうな彼女を余所に、僕はそっと玄関のドアを開けた。

 すると、彼女に手を掴まれる。


 彼女の手がしっとりと汗ばんでいる。

 俯いたまま、何かぼそぼそと呟いた。


 しかし、それを聞き取ることはできない。

 だが、長い文章ではない。1フレーズくらいの内容だ。



「悪いけど、手を放してくれないか?」

「——だもん……」


 僕の手を握る力が強まる。

 そして、彼女の感情の昂ぶりが伝わってくるように感じた。

 




「わたし、カノジョだもん!」





 ―—何を言ってるんだ、この人……?


 僕に交際相手がいたこともないし、おそらく現れることもない。

 そんなラブコメチックなジョークを現実で聞かされるとは思わなかった。


 むしろ、そのようなプロットをいくつかこともあったが、現実にはありえないとばかりに思っていた。


 脚本的には、そのような台詞を受けた主人公はその女性キャラクターを意識して……という展開になるだろうが、僕はそんなにお人よしではない。

 

 だから、強引に彼女の手を振り払って部屋に逃げ込む。

 


 玄関のドアを締め、施錠。

 ドアスコープから外を見ると、まだ彼女はそこにいた。


 涙ぐんだ顔のまま、こちらを――玄関を見ている。

 向こうからは見えていないはずなのに目が合っているような気がして、思わずどきりとした。


 





「ぜったいに、まけない」

 ドア越しに彼女の声が聞こえた。

 その眼差し、表情には決意が感じられる。 


 ――本当に、会ったことがないのだろうか?


 自分が覚えていないだけで、何かの因縁があるとか……などと思いたくはないが、目の前にいる彼女の表情を見ているとそうした可能性があるような気がしてしまう。

 

 間もなくして、彼女はドアの前から立ち去った。

 階段を駆け下りる足音がしたから、アパートから出て行ったのは間違いない。



 

 はたして、「彼女」は一体何者なのか……


 会ったことも無いのに、自分と交際している相手――カノジョと名乗った。

 本来なら、ストーカーという犯罪の案件になるはずなのだが、尾行や監視を受けていたという感触は無い。

 それに、近所であの女性を見かけたこともない。


  



 だが、僕はこのことをあまり深く考えることはしなかった。

 どうせ、思い悩んでも時間の無駄。そんなことよりも新しい仕事に手を付けなければならない。



 ――あの人の勘違いかもしれないし……

 

 僕は普段、あまり楽観的に物事を考えたりしない。

 だが、アルコールを摂取しているせいか、深く考え込まなかった。


 そして、「カノジョ」との日々が始まるとは、微塵も想像していなかったのである。 

 

 

 



 

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