詩論

藤田桜

第1話、詩とは


 ――詩とは、何でしょうか?

 アリストテレスの『詩学』に見えるように、かつて詩は「文学であること」と「韻律を持つこと」によって自らを詩だと証明していました。韻律を持たなければそれは散文であり、韻律を持っていても、それが論文など芸術作品ではない文章であるかぎりは、詩ではない(注1)。この定義は比較的単純で、分かりやすいように思えます。

 しかし、時代の変遷と共に現れたのは自由詩や散文詩など、非定型的な、または韻律を持たない詩でした。ボードレールは『巴里の憂鬱』において「音楽的であって拍節リズムも押韻もなく、しかも魂の抒情的抑揚のため、幻想の起伏のため、意識の飛躍のために、適用するに足るべく充分に柔軟にして且つはまた充分に錯雑せる、詩的散文」と語っています(注2)。

 ここで定義の何が変わったのかというと「韻律を持つこと」が絶対の条件ではなくなったんですよね。オクタヴィオ・パス(注3)や萩原朔太郎(注4)は「定型的な韻律以外の方法によって詩に音楽性をもたらすことは可能である」という類の主張をしているのですが、自由詩はともかく、こうなってしまうと「散文詩」と「文体が凝った詩」の区別が極めて困難になってきます。

 そこで「ポエジー」が詩を詩たらしめる、と言う考えが生まれました。前述したオクタヴィオ・パスもこの類の考えを持つ一人です(注5)。雑に言うならば、詩っぽいことを書けばそれは詩として分類される、ということですね。

 詩というジャンルがほぼ独占してきた修辞技法を使うことによって――例えば行分けや比喩による意味の飛躍など――自らを詩だと証立てようとしたわけです。さらには抒情のような、ほとんど詩という形式に固有であった題材もまた詩を詩たらしめる要素に組み込まれました。

 また、草野心平の『天気』(注6)や谷川俊太郎の『日本語のカタログ』(注7)のような「詩と言い張ることによって」自らの詩としての価値を証明する文学も現れました。このことから、詩には少なくとも三つの種類があることが分かります。


 1、文学作品のうち、韻律を持つもの

 2、かつて詩がほぼ独占的に扱ったものを扱った文学作品

 3,詩であると名付けられることによるもの


 まあ3はほとんど例外と言っていいでしょう。ですが2と3のどちらも、これまで詩が詩として築いてきたイメージを踏み台にして生まれた発展形であると言えます。何千年、何万年にもわたる詩人たちの努力はそれぞれの種類に名作を生み出してきましたが、これらを区別しないことによって我々は「どこまでが詩で、どこからが詩でないか」ということが判断できなくなっていました。とは言っても、この分類法によって完全に線引きができるというわけではないことには留意しておいてください。前より幾分かはマシというだけです。

 さて、この詩論においては主に1と2について扱っていきましょう。至らぬところも多いでしょうから、その都度ご指摘してくださると幸いです。あと、分からない用語があればコメントしてくださると助かります。


(注1)訳者 松本仁助 岡道男「アリストテレース 詩学・ホラーティウス 詩論」(岩波書店 1997年1月16日 第1刷発行)

(注2)三好達治訳 ボードレール「巴里の憂鬱」(新潮社 昭和二十六年三月十五日 発行)

(注3)訳者 牛島信明 オクタビオ・パス著「弓と竪琴」(岩波書店 2011年1月14日 第1刷発行)

(注4)編者 河上徹太郎「萩原朔太郎詩集」(新潮社 昭和二十五年十二月十日 発行)

(注5)注3に同じ

(注6)入沢康夫 編「草野心平詩集」(岩波書店 1991年11月18日 第1刷発行)

(注7)「自選 谷川俊太郎詩集」(岩波書店 2013年1月16日 第1刷発行)

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