ブギーマンに花束を

倉野 一

Jacta est alea.

 こわ・い【怖い・恐い】

〔形〕[文]こは・し(ク)

(「強い」と同源)

①おそろしい。悪い結果が予想され、近寄りたくない。狂言、花子「すれば山の神は―・し、身共は―・うないか」。「雷が―・い」「株は―・い」

②人知でははかりがたい、すぐれた力がある。驚くべきである。「追い詰められた者の力は―・い」

──広辞苑より



 人にはみな、帰る場所があるという。国語の教師が言っていた。普段の授業から人間の生きる道とか、あるべき世界の姿とかを語るから、あの教師は全く信用していない。あの、とは言いつつ教師は全員信用してないけど。

 帰る場所、というのはつまり端的に表すなら、家のことだろう。一軒家、アパート、団地、マンション、そこにある家庭。人間はみんな家に帰って楽しく団らん。反吐が出る。

 そうじゃなくても、例えば両親を亡くして誰かの家で暮らしてますという状況でも、拠り所というものはある。ネットの誰かでも独創の世界でも、それは希薄にしろ居所なのだ。

 そんなもの、私にはない。特化した趣味もなければ苦しさを吐き出す相手もいない。SNSの類いは最低限連絡手段に留めてあるので連絡は取れるものの、その連絡を取る友達はいない。一応、クラスのグループに属しているから、強いて言えば連絡相手はいることになる。言葉で表せばこうなるけれど、あんな教室が居所だとは、私はきっと死ぬまで認めない。ああでも一人・・・・・・いるのかな、私の居所。

 先の通りこれといった趣味もないので図書室にも居飽きて、屋上は占領するグループがいるので選択肢に入らず、居場所には裏庭のようなスペースのさらに横の、目立たない場所しか選べなかった。最近の昼休みは毎回ここにいる。着込んでも、まあまあ寒い。

「お前あいつと付き合ったんだろ? やったのかよ?」

「バカ、金出させるために付き合ってんだからそんなことするわけねぇだろ!」

 汚い笑い声が聞こえてくる。近くで男子たちが談笑してるのだろう。あの手のやつらに限って近くを探るので、私に気づかないことを祈るしかない。

 ああいう人間に、もう死んでしまえとも思わなくなった。一周回ったというのか、最近は「何故やつらは死なないのだろう」という疑問ばかりが頭をもたげる。いくら死んでくれ死んでくれと祈ってもピンピンして登校している。元気なものだ、一体周りの何人に終わりを願われてるかもわからないのに。

 何故? 私は何もしていないのに不幸だ。やつらは他人を、私を貶める。あの国語教師が言う「天の配剤」があるとしたら、こんなのはおかしい。バランスが取れていない。私の不幸を削るには、悪に走った方がいいとでも言うのだろうか? 馬鹿げたことを。それが肯定されるなら、私はクラスメイトを皆殺しにしてるところだ。

 何故。いくら考えても、この問いに答えは出ていない。

 さてと、あの男子たちに見つかっても厄介だ。授業の準備もあるし、地獄に戻るとするかな。


 机に置かれた花瓶。私の席。昼休みの間にまで仕込むとは恐れ入る。暇なのかな。

 花瓶を置かれるのは初めてではなく、何回か置かれるせいで私まで自分の生き死にがあやふやになってきている。もちろん、教師が来る前に教室後ろの棚の上に戻す。恐ろしいのは、あいつらは教師に怒られることまで想定していることだ。教師の介入があれば、嫌がらせをエスカレートさせる。だから私自ら、何もなかったかのように全て元に戻さなければならない。大の大人に怒声を浴びせられても平然としていられるのは普通じゃない。指示をするやつ、実行するやつ、見守るやつ、無視するやつ、被害を受けるやつ、みんな狂ってる。このクラスはみんな、おかしいんだ。

 ちら、と指示したやつ──紋城もんじょう狭衣さえを見る。やっぱり、素知らぬ顔をして誰かと話をしている。紋城のやり口として、嫌がらせをしてもその場では笑わない。何のつもりかは知らないけれど、取り巻きと一緒に後で笑うのだ。その場面を見たことはないが、でなければこんなことをする理由がない。知らんぷりしていても何度か私を見ているし。

 実行犯、見守り役──南戸みなと華枝はなし天辺あまのべのんを見てもそうだった。私たちは何もしていません、何ならこのクラスにいじめられている人間なんていませんというような顔をしている。有象無象のクラスメイトもいつもどおり黙殺。

 本当に何なのだろう、この教室は。

 間延びしたチャイムの、耳慣れたノイズが聞こえる。授業開始の合図だ。いつの間にか教科担任も教壇に立っていた。


 日々はこうやって辛辣に、何もなかったかのように過ぎ去っていく。放課まで、五限である地理の私の教科書が破られていたこと以外は差し当たって本当に何もなかった。今日は紋城たちに呼ばれなかったので、マシといえばマシだろうか。

 片道一時間の平坦な道を歩き、私も家に帰る。特別な趣味も慈愛に溢れた両親も持たない私でも、家には気を許す相手がいる。いなかったら、私はこの町から消えるだろうな。

「ただいま」

 返事はない。あったら驚く。

 両親がリビングにいるかもしれないが目もくれず、二階に上がる。見る価値もない。

雪絵ゆきえ、ただいま」

 部屋を開けて妹に呼びかける。可愛らしい女の子は、こちらに気づくと顔をほころばせ駆け寄ってくる。

「おかえり、お姉ちゃん」

 この世でただ一人、家族と言っていい人間。唯一気が許せる相手だった。

「今日は大丈夫だった?」

「うん、何もされてない」

 今年で十歳になる雪絵は、いつの間にか両親の暴力にさらされる私の身代わりになってしまっていた。気づくのが遅すぎて、もうあいつらの歯止めがきかない段階になっていた。愚かな私は罪滅ぼしに、投げつけられるご飯代から私の分を削り、わずかな貯金と妹の趣味に当てている。

 暴力だけじゃなくたまに妹の趣味である絵すら目の前で引き裂かれていたことがあるので、妹に何もないというのは平和な一日だった。

「よかった。今日ご飯どうする?」

「んー。何でも」

 雪絵の笑顔はますます眩しい。両親があの体たらくなので私が親代わりになっているが、もう自分が姉でも母親でも、どちらでもいい気がしてきた。お互いにとって唯一の家族であることに変わりはない。

「何でもは困るって言ったでしょー」

 言いつつも、私も自然と笑顔になる。

「じゃあね、おみそ汁」

「お、和風だね。じゃあ和食にする。一緒に作る?」

「今日はやめとく」

 残酷なものだ。私は、雪絵に生きていてほしい。

 夕飯の用意を整えようと一階に降り、冷蔵庫の中身を確かめる。横目に見れば、リビングに男がいた。クズ親だ。テレビでグラビアアイドルの映像を見ていた。本当に、娘を犯さないだけ救いがあるかもしれない。いやないか。

 幸い、和食を作れるだけの材料は残っていた。母はどこにいるか知らないが、勝手にどこかで食べてくるだろう。


 雪絵はその環境から、部屋に一人でいないと眠れない。防衛本能が過剰になっているのだろう。気持ちは痛いほど分かる。

 部屋を覗いて、一声だけかける。

「何か足りないものある?」

 首を振られる。

「ない。おやすみ」

「おやすみ」

 この会話は日課で、鉛筆などが足りないと素直に欲しいと言ってくれる。それを私が翌日の帰り道で買うことにしているのだ。今日は特に不足はないらしい。

 もっとも、概念的なことを言われ始めると困る。愛情が欲しいと言われても、私も両親から愛情を剥奪された身だ。私から絞り出せる慈愛は、現状で精一杯。

 そんなことを考えながら、私も自室で床に就く。昨日も、今日も、明日にも希望は見いだせない。雪絵だけが救いになっていたとしても、私は日常のドス黒さに押しつぶされそうだった。


 日々は辛辣にやって来る。

 登校して早々、机に鞄を置こうとして手に鋭い痛みが走った。見ると、画鋲が浅く刺さっている。

 タイミングを見計らったように、紋城が話しかけてきた。

「ああごめん、さっき掲示物を貼るときに置いたの忘れてたの」

 大嘘もいいところだ。掲示板は私の机から教室の反対側。わざと置かなければこうはならない。

「そう」

 気をつけて、なんて言葉すら口から出ない。出したところで、という思考が表情筋を重くさせる。

 ふと、いつかにテレビ番組で流れていた言葉を思い出す。

『いじめっていうのはね、立派な犯罪なんです。刑法に触れるんですよ』

 そのとおりだ。さっきのくだりも、れっきとした傷害だろう。紋城たちがこれまでやってきたことを挙げれば、彼女は間違いなく地位を落とす。

 しかし他はともかく、紋城は、あの女はそんなことを気にも止めていない。空恐ろしいことに己の、その場の快不快でしか物事を判断していないのだ。あんな破滅的な人間に取り巻きやってるやつらも大概だろう。後々のことを考えれば、真面目に応じる方が疲れてしまう。

 こんな黒い悪意から来る事件を全て挙げればきりがない。日々は辛辣に過ぎるのだから。

 窓の外には、しんしんと雪が舞い続けていた。


 何故だろう。

 何故、私は死んでいないのだろう。

 何故、私は生きているのだろう。

 何故、あいつらは先に死なないのだろう。

 何故、あいつらは生きているのだろう。

 何故だ。


 日々の変化は唐突に訪れた。

 翌日登校したそばから、南戸と天辺たちが騒いでるのが目に映った。本当に目立つやつらだ。

「え待って、ほんとに誰も既読ついてないの?」

「遊びすぎだよね、新しい投稿もないし浮上してなくない?」

「朝まで既読ついてたのに」

 ふと、紋城だけが登校していないことに気づいた。ああ、今日は平和だ。もうホームルームも始まるし、紋城は遅刻するか休むかするのだろう。どうせ仮病の類いだ。それにしては取り巻きたちの慌て具合が、やけに真剣ではあるけれど。


 昼休み、やけに冷えるので今日は図書室に行こうと教室を出ようとすると、声をかけられた。

「あんた、狭衣の場所知ってる?」

 南戸か。にしたって、どうして私が知ってるとでも?

「知らない」

「嘘つかないで。クラスのみんな知らないって言ってる、あんただけだよ残り」

 無茶苦茶な理屈だ。私だって本当に知らない。明日も休んでくれたらなあ、なんて賭けは心の内でしてたりするけど。

「本当に知らない。知りたくもない」

 私の強い拒絶に、天辺が先に諦めたようだった。

「もういいよなっしー、こいつ本当にわかんないんだ」

「うん。のん、帰り探そ。どうしちゃったんだろ狭衣」

 どうしちゃったんでしょうね。

 紋城はまだ登校していなかった。もう休みだろう。


 五限は英語だった。英語の担当、相楽さがらはそこそこ生徒人気のある方で、明け透けな言動が授業を盛り上げている。もっとも相楽のことも私は信じていない。

 内容は当然英語だが、英語で何を扱うかは毎回異なる。今日はやたらオカルトに寄った話だった。

「日本でもなかなか寝つかない子どもに、早く寝ないとおばけが来るよ〜とか言うでしょ? 外国でも似たような話はいろいろあるんです」

 へー、と間抜けた感嘆の声が聞こえる。安いSEのようだ。

「有名なのがブギーマン。悪い子を連れ去る形を持たない怪物と言われてますがもちろんサンタさんと信憑性は一緒」

 悪い子を連れ去る、と言った時点で、クラスにはわずかばかりの緊張が巡った。

 それでも相楽は察しが早く、シリアスにはしなかった。

「狭衣は連れ去られても戻ってくるでしょ、あいつはしぶといから」

 笑い声がクラスに響く。笑っていなかったのは南戸、天辺、そして私だけだっただろう。


 紋城が教室の中心というわけでもないだろうに、事態はますます真剣味を帯びてきた。

 帰りのホームルーム、担任が終了前、おもむろにクラス全体に訊ねた。

「誰か、紋城がどうしてるか知らないか、紋城狭衣」

 担任が知らないなら、親も聞いても知らなかったのだろう。そして彼女の居所は、取り巻きの南戸たちも知らない。当然私も。

 案の定、天辺が声を上げた。

「せんせー、狭衣風邪じゃないんですか」

「うーん、ご両親によるとちゃんと家は出たらしい。もし誰か知っていれば先生にいつでも言ってくれ。今日はお疲れ様。じゃあ、解散」

 私は楽観主義者じゃない。だから私の願うようにはならないと思う。あいつはきっと、男とでも遊んでいるに違いない。

 ・・・・・・休んだのは今日だけに限らない。担任は、どうして今日に限って所在を訊ねたのだろう?

 帰り際になって、急ぎ足で人々を追い越す集団がいた。紋城の取り巻きたちだ。紋城を探すのだろう。心当たりがあるのかないのか、いずれにしろああいう人間の行動範囲は無駄に広そうだ。ご苦労なことだと思う。労う気なんてしないけども。

 探す気はみじんもない。でも紋城の醜態を見れば、私も少しは心がスッとするかもしれない。

 などと帰り道の人通りが少ない土手で考えていた。少し歩調が早かったらしく、かなりの人数を追い越していた。ダメだ、今帰ったら両親に鉢合わせして苛立たせる。苛立たせた結果は、言うまでもない。

 川沿いで取り止めなく時間を潰そうと思い、盛りあがった地面を超えて川沿いに降りる。すると妙なものが小岩の陰にあった。

「花束・・・・・・?」

 何の花かは、知識がないのでわからない。紫色の花が、白い紙に包まれていた。誰かここで亡くなったんだろうか。川のそばということもあって、そんなことも考えられる。

 しかし気づいてしまった。花束の下に覗かせていたものに。


 ──肌色の、指のようなものが土から出ていた。


 瞬間、私は反射的にその場を急いで離れた。花束は土手から見づらい位置にある。わざわざ近寄らなければ花束とさえわからないだろう。土手に人通りは、まだない。帰るなら今だ。

 私は、帰る時間の調整も忘れ、走って家路についた。何も考えられなかった。


 至って平静を装い、帰宅する。

「ただいま」

 返事はない。でも今はその方がありがたい、誰かと話すとボロが出そうだ。こんな状態でも一応、雪絵に声はかけなくては。

「ただいま雪絵」

 部屋を覗く私に気づき、雪絵はへらっとする。変わらない笑顔は、私に普段の平静さを少しばかり取り戻させる。

「おかえりお姉ちゃん」

「お腹減ってる?」

「そうでもないよ、まだ」

「じゃあ私自分の部屋いるから、お腹減ったら呼んでね」

 返事を背に自室に戻る。焦りが伝わってしまっただろうか。雪絵にはあまり事情を探られたくない。あんなショッキングなことは、とても。

 自室のベッドに座って、考える。

 あれは何だったのだろう? 急いで離れたのでよく確認はしなかったが、あれは一瞬では人の指にしか見えなかった。それ以外に何だったのかがわからない。例えば、フライドポテトが埋められていた・・・・・・とか。いや、そんな色でも太さでもなかったはずだ。

 どうも頭が混乱している。そうだ、あの花は何だったのだろう。デスクトップパソコンを立ち上げて、安直に「紫色の花」と画像を調べる。記憶と合致していたのは、アザミの花。花言葉は「報復」。ページには、怖い花言葉とある。

 悪寒がよぎる。あれは、やはり人だったのかもしれない。何かの報復で埋められたということだろうか? 埋められたということはつまり。

 あれは、死体だ。誰かが殺されて、目立たない川沿いに遺棄された。私はそれを見てしまった。恐怖が、背中を這った。

 そもそもあの死体は誰だったのだろう? 報復で殺されるほどのいさかいがこの町で起こった。何故、誰が。

 ふと、紋城が無断欠席したことを思い出す。そして次に、さっき見た花言葉を連想する。知らず、口角が上がっていた。

 そうか。紋城はやっぱり他の誰かにも恨まれてたんだ。それはそうだ、あんな破滅的で性格の悪い女、憎まれて当然の人間。でも一体誰が?

 探してもこれは無駄だろう。ああいうのは顔が広い。その分、恨みも買っていたと考えるべきだ。いずれにしろ紋城が消えたことを私がやたらに喜んでも、取り巻きたちから罵倒を受けることは想像に難くない。

 デスクトップをシャットダウンして、数学の課題に取り組むことにした。


 日常が変化したその翌日も、紋城は姿を見せなかった。南戸たちは一層落ち着きをなくしている。無様ったらない。

 ホームルーム中、担任も平静を装っているものの、焦りが透けて見えた。どうも、ただのサボりとは言えなくなってきているらしい。

 連想で、昨日のことを思い出した。わざわざ埋まったものを掘り返そうとは思わないが、あれが紋城だとすると、みんなが必死に探してるその当人は、文字通り死んでいることになる。箱が埋まってるならまだ息をしている可能性があるが、飛び出ていたのは箱ではなく指だ。確実に、死んでいる。

 花束を見てから定期的に訪れる疑問。一体、誰が紋城を殺したのか。もちろん私ではない。あらゆる方面から恨まれてもおかしくないやつだ、誰かではある。少しだけ、気になってはいた。

 だからといって証拠集めとばかりに現場をもう一度見る気はならない。いくら消えてほしいと願っていた相手でも死体は死体、また見ると吐き気がしそうだ。それに、そう・・・・・・。

 クラスメイトの周りに殺人者がいる。私が殺されないとは限らないのだ。下手に行動するべきじゃない。本能から来る警告だった。壊れた理性は、私が死のうと誰も困らないと言っている。困るのだ。私が死んだら、雪絵は誰が守るのか。

 妙に、騒ぐ声が少ないことに気づく。まさかと思い取り巻きたちを見ると、

 一人、減っていた。そうだ。天辺がいない。担任が焦って当然だ、おそらく無断欠席は一人増えた。天辺も続いて失踪した。もしかすると、あの現場に花束が増えているかもしれない。消えてくれという願いが叶って笑えばいいのか、私が狙われるかもしれない恐怖に慄けばいいのかわからなかった。

 ふと、教室に緊張感が張りつめていることに気づいた。昨日の英語と同じものだ。なら、あの言葉が出てくるのは時間の問題だろう。

「・・・・・・あいつら、ブギーマンに殺されたんじゃね」

 どこからか漏れた男子の声。もちろんそれに天辺が反応した。

「今の誰?」

 答えはない。触らぬ神に、だ。

 でも南戸は声を発しただろう男子に近づいて、はっきりと、こう言った。

「バカじゃないの?」

 男子の方は、その声に取り合わなかった。クラスで余り物になるような地位じゃなくても、わざわざトゲに刺さりにいく人間はいない。

 南戸はなおも責め立てた。

「あんたらの勝手な妄想で殺されちゃ狭衣ものんもたまったもんじゃないのよね。単に仮病使ってるだけなんだから」

 いいや。天辺はともかく、紋城は土の下だ。お生憎様。それに南戸も自分で言いつつ、震えが隠しきれてない。紋城たちの安全を信じ切れていないはずだ。

「・・・・・・隣行こうぜ」

 男子は舌打ちをすると、一緒に話していたと思しき男子と教室を出ていってしまった。

 果たして、内心ほくそ笑んでいたのは私だけだろうか。そしてそれが表情に出ていないといいのだけれど。


 紋城が消息を絶ってから、私は嫌がらせを受けなくなった。向こうはそれどころではないということだ。残ったやつらに恨みを晴らしてもいいが、できれば天誅の類いで死んでほしいのが本心だ。

 だからこそ、紋城が埋まっているかもしれないと知ったときは、それはそれは喜んだ。私が手を下すまでもなく、勝手に殺されてくれたのだから。続いて天辺までもが行方知れずになった。川沿いに死体があると知っているのは私だけ。あの死体が本当に紋城だと仮定するなら、天辺はもう死んでいると考えるのが妥当だ。喜ばしい展開で次は南戸だといいなと思うとともに、次は私である可能性はゼロではない。これだけが懸念点だった。

 だが死んだのは紋城、続いて天辺だ。これで私が殺されたのでは、意味がわからない。もっとも無差別に二年C組を殺していくのだとすれば、お手上げというしか。

 フラフラと考え事をしながらまた図書室で昼休みを潰そうと教室を出ようとすると、声をかけられた。南戸だ。こいつらは昼休み、私に尋問しないと気がすまないのだろうか?

 と思ったら、そうではなかった。

「・・・・・・今日の授業終わったら屋上来て」

 それだけ言うと、南戸、続いて取り巻きの坂中さかなか由理ゆりさがり七桜なおも教室を出ていった。おそらく、屋上に行ったのだろう。やつらはいつも屋上を昼休みに使っている。本来は使用禁止のはずだが、誰しもが見て見ぬふりだ。本当にこの学校の人間は見なかったことにするのが上手い。

 面倒だ。今度は何をされるんだろうか。いよいよ私すら紋城たちの捜索に駆り出されるのか。はは、まだ生きてたら死んでいたことにしよう。


 屋上では、囲まれてリンチに遭うことはなかった。私はというと、昼休みの南戸の様子が引っかかっていた。この呼び出しの目的もわからなければ、面白がって呼び出すわけでもなかった。あの時の何とも言い難い表情は、どこから来るのか。

 南戸は私を見ると、開口一番言い放った。

「あんた、何か知ってるでしょ」

 結局尋問なのか。どんな慌てっぷりを見せてくれるかと期待した私が愚かだった。

 返答も自然、投げやりになる。

「知らない」

「とぼけないで」

 何故、私に固執するのか。これも解決し難い疑問だ。

「どうして私が知ってるなんて思うの?」

 訊くと、南戸はさも当然と言うように胸を張って返した。

「狭衣とのん恨んでそうなの、あんたくらいだもん」

「他にもいるよ、たぶん」

「はっ、なんでそんなこと言えるの?」

 しまった、うかつだった。私が殺したのでないなら誰かに殺された、それは私じゃない誰かに紋城たちが強く恨まれている証拠だ・・・・・・とは、他人に言えない。私が死体を見たことは、誰にも知られたくない。その事実は巡り巡って、犯人に知られることになる。そうなったら、私が狙われる危険が高まってしまう。どうしても言いたくない。

 幸い、南戸の興味はそれた。

「まあいいや」

 差し出された手。

「・・・・・・何?」

「狭衣たち探すのに毎日お金かかるの。分かるでしょ?」

 分からない。そんなもの分かりたくもない。

 どうして? どうして私が嫌いなやつの捜索を援助しなきゃいけない? こいつらが探さなければ、あの二人はもう少し長く地面に埋まってる。それがどれだけ滑稽で、恐ろしいか。

 お前らには分からない。

 お前らには従いたくない。

 トラブルは既に起こっている。面倒事は避けられない。

「分からない」

「・・・・・・は? だから、金出せって言ってんの!」

 こういう人間は簡単に感情が高ぶって、すぐに手が出る。南戸は、私の鞄を掴んで財布を出そうとしてきた。

「離して」

「お前は大人しく言うこと聞いてりゃいいんだよ!」

 その言葉に覚えがあった。父親が私の疑問をはねのけるときの、常套句。いつもそうだった。次に飛んできたのは言葉ではなく拳だった。

 いつもそうだ。いつもいつもいつもいつもいつも! どうして! 私は悪いことなんて一つも言ってない!

「離せよ!」

 感情のままに、思いっきり鞄を振る。つられて南戸も勢いよく後ろに吹っ飛んだ。

 吹っ飛んだ先は屋上の縁ぎりぎりで、あとちょっとで転落していた。南戸の顔がみるみる青白くなる。口は恐怖で引きつって、落下に怯えている。坂中と下も思わぬ出来事に呆然としていた。

 こんな顔、見たことないな。人が死にそうになってる様を見て真っ先に抱いた感想は、そんなものだった。

 南戸は呼吸を荒くしたまま動かず、坂中と下は立ち尽くしている。私は、南戸の恐怖に引きつった顔が頭から離れないまま、その場を去った。


 帰り道でも、南戸の顔──というより表情を、ずっと考えていた。考えるというより、何を思うこともなく、ずっとそのイメージを眺めているような。とにかく、焼きついて離れなかった。

 ぼーっとしながら帰宅すると、どこか異様な気配を感じた。玄関から見える景色は、何一つ変わりがない。ドアの向こうのリビングから、何かが漂っている。

 嫌な予感を抱きつつ、ドアを開ける。

「ただいま──」

 目に飛び込んできたのは、いつもにも増して荒れきったリビングだった。

 脚の折れたテーブル、穴の開いた壁、ひびの入った窓ガラス。棚の本や観葉植物はぐちゃぐちゃで、まるで強盗が押し入ったようだった。あらぬ方向を向いたソファーには、男が座っていた。父だ。疲れをにじませて、こちらに背を向けて座っている。

 嫌な予感は当たっていた。一人で当たり散らすこともあるが大概は雪絵が標的だ。でも、ここまでひどかったことはない。こんな男だったんだ、私の父親は。

 急いで階段を駆け上がる。雪絵、可能性は少ないが無事であってほしい、お願いだから。

「雪絵!」

 部屋のドアを開ける。雪絵は、虚ろな目で床を見続けていた。痛々しい傷だらけの体。破れた服。生きていただけでも幸運というべきかもしれないが、こんな。

「ああ・・・・・・」

 雪絵を抱きしめる。血が自分の服につくのも気にせず、背中を優しく撫でる。

「痛かったね。ごめんね、何もできないお姉ちゃんで」

 叫んで、わんわん泣きたかった。無力でどうしようもなくみじめな自分が腹立たしかった。でも一番泣きたいのは雪絵だ。もうその涙も枯れてしまったのかもしれない。

「おねえ、ちゃん」

 雪絵が声を発した時、かすかに異臭が漂った。頭を巡らせて、一つの可能性に気づいてしまった。それこそ、嘘であってほしい。私の過剰な妄想であればそれで構わない。辛いけれど、確かめる。

「雪絵、お股も痛い?」

「・・・・・・うん」

 あいつが、あの男がこれほど狂った獣だなんて。そんなやつが、私たちの父親だなんて。あり得ない。許せない。

 ああ。血を流すのが私であれば。立ち向かう勇気もない、甲斐性もない姉。こんな日常なんて、認めたくない。雪絵のために、何か、何か。

 ちろり、と殺意の火種が心に生まれる。誰かが死ねば、雪絵は助かるのか。私? 雪絵? いや──あの男だ。

「ねえ、雪絵」

 思いつくままに、口にする。

「もう、痛い思いしたくないよね」

「え・・・・・・?」

「もうこんなのたくさんだよね」

 殺意が心を支配し始めるなかで、対岸の私は思う。この生活に耐えられずに父を殺すなんて手段を取るのは、痛々しい雪絵を見たくないだけだ。そんな妹を救えない自分に耐えられないだけだ。

 それでも私は、雪絵に、健康で幸せに生きていてほしい。

「痛いのはイヤだよ」

 自分の殺意を肯定されたとき、人間として正しい反応はなんだろう。分かるわけがなかった。

「でも」

「でも?」

「お母さんにもお父さんにも、いなくなってほしくはないの」

 そんな、ここまでされて。脳裏にストックホルム症候群の言葉が浮かぶが、それよりこんなことまで言わせながら暴力を振るい続けるあの男が、ますます許せなくなった。

 雪絵の願いは叶えたい。けれどこのままでは雪絵が殺されてしまう。父だけは、息の根を止めなければならない。妹の願いだ、母の方は生かす。でもただでは済まさない。母だって今でこそネグレクトだけでも、暴力を振るわないとは限らない。私は手を出されたことがある。

 激情が落ち着くと同時に、冷静さを取り戻す。それでも考えるのは、どうやって父を殺すか。母をどうするか。頭の中で計画を練り始める。その後のことも、雪絵のことも。私のことはどうでもいい。雪絵が無事であれば構わない。

 うん。この計画にはやっぱり道具がいる。それもいくつか。資金はある。私には貯金だけはある。時間が惜しい、買い出しに出よう。

「雪絵、すぐ帰ってくるから、大人しく待っててね。大丈夫。私が雪絵を守るから」

「お姉ちゃん・・・・・・?」

 不安がる雪絵の声を背に、財布を手にして家を出た。


 近所、ではなく二駅離れたところのホームセンターで必要な道具を揃え、家に戻った。幸いあれから事態の変化はない。しかし計画は練ったものの、これでいいんだろうかという疑念がずっと私を苛んでいた。これで雪絵が本当に幸せになるんだろうか。私が思いつく程度のことで。

 いや。今の雪絵を考えろ。私が行動を起こせば、今よりはましになるはずだ。現状が底辺だ。ここから落ちることはない。日常を変えるんだ、私の手で。

 そのためにまず、雪絵を拘束しなければならない。苦しい判断だった。でも考えうる限り最大限雪絵が幸せになるには、そうするしかない。やると決めても、疑念と謝罪は尽きなかった。

 拘束のための縄は後ろ手に隠したまま、雪絵に近づく。

「お姉ちゃん・・・・・・?」

「ごめんね、ちょっと後ろ向いて。お守りのネックレスつけてあげるから」

 本当のことだ。本当のことだ。

「ホント? じゃあつけて」

 縄で雪絵の両手首を縛りはじめる。辛いと分かっていても、どうしても涙がこぼれてしまう。

「お姉ちゃん?」

 いきなり縛られて後ろを向こうとするが、私のただならぬ様子を感じて雪絵は動きを止めてくれた。

「ごめんね。ごめんね。ごめんね」

 手首を縛ったら、次は足首だ。これは後々の状況を良くするとともに、雪絵が私を追わないようにするためでもある。ああ、どうかな。その時には私は血まみれだ。そんなお姉ちゃん、まだ好きでいてくれるかな。

 再び雪絵の後ろにまわって、帰りがけに買ったネックレスをつけてあげる。雪絵にとって縋るものが、少しでもあるように。

「お姉ちゃん、どうして?」

 痛々しい姿にところどころ破れた服、縛られた両手首と両足首。誰がどう見ても被害者だ。こうせざるを得なかった。これが正しいんだ。

「私のお願い、聞いてくれる?」

「うん」

「これから大人の人が来るかもしれない。その時に、怖いおじさんが来たってことにしてほしいの」

 首を傾げる雪絵。今から私のやろうとしていることの全容が見えないのだろう。

「大丈夫。そう言えばいいから。『怖いおじさんが来た。逃げたけど縛られた』。この二つでいいの。言えそう?」

「・・・・・・うん、言える」

 これで警察は存在もしない強盗を追いかけることになる。冤罪で誰かが捕まってしまうかもしれないが、申し訳ないとしか。私だって人質か重要参考人だろうが、捜索対象になる。全力で逃げなければ。

 雪絵には告げないが、私が父を殺せば捕まろうと逃げようと雪絵に二度と会えなくなる。できる範囲で悔いを残さないようにしよう。

 一緒に旅行に行きたかった。一緒に買い物したかった。一緒に映画を見たかった。一緒に出かけたかった。一緒に散歩したかった。何もできない。今私にできるのは、妹の弱々しい小さな体を抱きしめることだけだ。

「雪絵、大丈夫。大丈夫だからね」

「お姉ちゃん、何するの?」

 怖くて訊けないような質問でも、純粋な子どもは真っ直ぐに問う。むしろ、私が返答することを恐れてしまった。正直に答えて雪絵の心を傷つけるだろうか。迷っても答えは出ず、ただ私は黙って唇を噛むしかなかった。

 疑問には答えず、抱きしめたまま。

「雪絵、今までありがとうね。あなたの笑顔に救われてきた。今度は私が、あなたを不幸から救い出す」

「お姉ちゃん」

 肩のあたりが湿る。

「元気でね。幸せにね」

「お姉ちゃん・・・・・・!」

 顔は見ない。離れがたいから。

 すぐに振り返って部屋を出る。必要な道具は、鞄にまとめてある。

 手が震えていた。雪絵と別れた直後なのもあるけれど、これは恐れだ。私はこれから人を殺す。実の親の命を奪う。逃げるな、雪絵の姿を思い出せ。あの男は、奴は死に値することをした。許さない。

 震えは、止まった。バットと包丁を手に持って、ゆっくりと階段を降りる。


 視界がコマ切れのようになった。

 降りる。

 父をこの目に捉える。

 距離を開けて、後ろに立つ。

 バットを振りかぶる。

 投げる。

 頭に当たる。

 怖い。

 父が怒ってしまう。

 その前に。


 我に返ると、絶叫していたのは私だった。自分の下には、滅多刺しにされた人。父だろう。顔は憔悴と恐怖と血で埋め尽くされている。反撃を許せば殺されるのは私だ。仕方がないにしてもあまりにひどい光景に、吐き気を催した。

 トイレで吐きまくると不思議と理性が働いて、自分の有様が想像できた。手洗いとうがいだけでは足りない。母が帰るまでには時間がある。シャワーも浴びよう。

 そして気づいた。シャワーを浴びていた私の顔に。鏡で見ると私の口元はすっかり歪みきって、とても人のそれではなかった。

「ああ・・・・・・ああ・・・・・・」

 声にならない嗚咽ばかり出る。口角が裂けたわけでもないのに、まるで口裂け女のようにずっと醜く上がっている。どんなに強く閉じても、悲しい顔をしてみても、戻らない。私、もう壊れたんだ。

 脳裏に浮かぶ、歪んだ顔。自分が優位に立っていた直後に転落しそうになって恐れた南戸。飼い犬に手を噛まれて躾けようとするも噛み殺されそうになって助けを求めた父。

 私はいっぺん死んだようなものだ。紋城も死んだ。天辺も死んだ。父も死んだ。みんな死んだ。おかしい。だってまだ、南戸や坂中、下がまだ生きてる。みんな怖かった。私だって怖かった。どうしてあいつらはまだのうのうと生きてる?


 私が、恐怖ブギーマンになればいい。


 母をなんとかしたら、遠くへ行く前にあいつらのところへ行こう。彼女たちに恐怖を与えよう。私がどれだけ怖かったか。雪絵がどれだけ怖かったか。弱い者が、どれほど恐れたか。思い知らせてやる。

 着替え終わったがまだ母は帰らない。リビングの父を見ても、もう何も感じなくなってしまった。ソファーに座って体を落ち着かせる。いろいろありすぎた。このまま夢に落ちそうになるが、必死に気を保つ。遠くに行くまでは、寝れない。どこかでエナジードリンクかコーヒーでも買おうかな。

 がちゃ、と解錠の音がした。母だろう。どうするかは決めている。

 ただいまも無く、リビングのドアが開かれる。

「──きゃあぁ!」

 ドラマで聞くような典型的な悲鳴を上げて、ふらりと尻餅をつく母。何も思うことはない。せいぜい手間が省けたな、くらいだ。

「お母さんは生かしてあげる。でもこのまま放っておくわけにもいかないから、ひとまず寝ててよ」

「あんた、何言ってんの」

 加減せず、母の腹にバットを振り下ろす。ぐぇ、と間抜けな声を上げて、母は気を失ったようだった。その瞬間の顔は、やはり恐怖に歪んでいた。

 これでこの家とはお別れだ。父だったものとも、母とも、愛する雪絵とも。変装は完璧だ、と思う。荷物をまとめて、家を出る。さよなら、愛しくて汚い我が家。

 振り向くと、雪絵の部屋の窓が見える。月光が反射して様子は窺えないけれども、さっきの騒ぎで震えているかもしれない。

 私はもう妹を抱きしめる資格がない。この手はもう汚れてしまった。純白のその身を穢すわけにはいかない。今、できるのは。

「雪絵! 愛してるよ!」

 懺悔を込めて思いを伝えることだけだ。

 ああいけない、通報をしないと。警察よりかは、児相かな。虐待の事実が近所に知られていないかもしれない以上、児相に直接伝えたほうがいい。強盗が押し入って殺されたと思ってほしいが、母と雪絵を引き離すためには虐待があったことも発覚させなければいけない。とはいえ人を殺しておいて自分から通報するのだから、急いでこの場を離れないと。終わったらスマホなんかも捨てないとな。

 もう振り向かない。オトギリソウの花束は置いてきた。私はブギーマンだ。恐怖を与える者だ。手始めに、坂中由理、下七桜、天辺暢を消す。


 雪が降り始めたとき。私は恐怖になった。

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ブギーマンに花束を 倉野 一 @tankgorilla

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