放課後ジャック

土屋シン

放課後ジャック

 そこには、何もなかった。本当に何もなかった。


 高校も丸1年も通えば、足をすくませる恐怖も、憧れていた情熱も、心躍らせるスリルも、胸を焦がす薔薇色も、全て幻想だったと嫌でも思い知らされる。


 外は雨が降っていた。春雨だからといって、濡れていこうだなんて気取ったセリフが吐けない程度には強い雨だった。


 その日、僕は教室に他の生徒がいなくなるまで残っていた。別に宿題を忘れたため残されていたとか、誰かを待っていたとかではない。単純に傘を忘れて少しでも雨が弱くなることに賭けて粘っていただけであった。


 きっと、職員室にでも行けば貸出用の傘があるのだろうがなんとなく真っ直ぐにそれを借りにいくのは気が引けた。


 それが運命だったのか、その僅かな臆病のせいで僕の人生は少しだけ変わった。


 カラカラと軽い音がして教室の扉が空いた。音とともに入ってきたのは、須藤なにがしというクラスメイトだった。彼は僕のほうをチラリと見ると自分の座席まで歩いていって置いてあったシューズ入れを指で引っ掛けて、持ち上げると入ってきた時と同じように出て行った。


 僕は再び一人になった。机に突っ伏し、雨垂れの音が下手くそなエイトビートみたいになっているのをしばらく聞いていた。すると、


「大丈夫?」


 不意に声をかけてきたのは須藤だった。僕は驚いて跳ね起きたものだからその拍子に机を蹴り上げてしまい、ガタンと大きな音がした。


「ごめん。寝てるのかと思って静かに入ってきたけど、もし体調が悪かったらと思って」

「いや、ありがとう。大丈夫だよ。雨が止むの待ってただけ」

「そか。なら良かった。てか何気に、1ヶ月もクラスメイトやってんのに話すの初じゃね?。俺の名前とか分かる?」


 そう言うと須藤は僕と顔を合わせるように、前の席に座った。


「須藤だろ。流石にそれくらいは分かる」

「なら良かった……」


 須藤は雨を見ながらそう呟いた。曇天の明かりが須藤の横顔をぼんやりと照らす。束の間静寂、僕は睫毛が長いなと思った。


「ヤバいな。叫びたい」

「へ?」


 僕は心の底からこの言葉が出た。どれくらいかの底かと言うと、僕の人生、後にも先にもあんなに心のこもった「へ」の音を出すことはないだろうと宣誓できるくらい綺麗に出た。


「叫びたい」


 須藤が僕の方を見て再び言う。


「……なんて叫ぶの?」

「え? そっち⁉︎ 普通、理由の方聞かねぇ?」

「叫ぶのに理由はいるのか?」


 僕がそう答えると、須藤は腹を抱えて笑った。僕も笑った。


「いらねえなぁ。そうだよなぁ。俺たち高校生だもんなあ!」

「どうする? なんて叫ぶ?」

「どうしよう? 本日はお日柄も良く晴天に恵まれー」

「雨だっつーの。運動会での校長かよ」


 僕達はまた笑った。笑いすぎて肋骨の裏側まで痛くなるほど笑った。


 そうしていると、ジジジと小さな音が鳴り、下校を促す放送が流れはじめた。教室にも見回りの教師が入ってきて僕達は教室の前で分かれた。



 須藤彰と次に話したのは蝉の声が聞こえ始める頃だった。

 夕日ともいえない強い日差しが教室に差し込んでいて、じっとりとした風がカーテンを重く揺らしていた。教室には僕と同じように何をするでもない生徒が何人かいたが須藤はいきなりやってきた。


「俺さ、叫ぶんだったら。やっぱり全校生徒に聞こえるところがいいなって考えたんだ」


 唐突に随分と前の話をされたものだから僕は「はぁ」としか言えなかった。それでも須藤は僕に話し続けた。まるで、あの日から今日までの空白がなかったかのように当たり前に話し続けた。


「それでさ、やっぱり叫ぶなら屋上だと思うんよ。屋上」


 僕にはもう須藤が何を言っているか意味がわからなかった。


「屋上に入るための扉って鍵がかかってるじゃん」

「そう。だから、俺ずっと考えてたんだ。屋上に入るための方法」

「馬鹿じゃないのか」

「馬鹿ってなんだよ。じゃあ教えてやんないぜ屋上に入る方法」


 須藤にそう言われて僕は胸の奥がチクリとした。それと同時にわずかな高揚感。あの日の残り火ともいえそうな小さな灯りが僕の胸を照らした。


「叫んでどうするんだよ」


 僕は口を尖らせて言う。


「叫べばわかるさ、そのためにやるんさ。まずやってから考える。そういうことも大切だぜ」

「自分を正当化するのが上手い奴だなぁ」

「とにかくやろうぜ。楽しいぞ、きっと。見たことがない景色がそこにはあるんだ。こんな馬鹿なことは学生の間しかできないぜ」


 須藤は観客席に向かうマジシャンのようにバッと両手を広げ言う。


「なぜなら、今ならバレても停学で済むからだ」

「停学覚悟でやるのかよ」

「ルールを破るんだ。罰ぐらいの受ける覚悟はしてるぜ」

「そういう常識は別のところで発揮してくれよ」


 僕がそう言うと須藤は笑った。僕もつられて大笑いした。


 翌日、須藤が僕に見せたのは「シリンダー

錠」の構造図だった。須藤が言うには学校の扉は全てそのシリンダー錠とやらで、その仕組み自体は意外と単純なもののようだ。


 錠前の中には数本のピンが入っており、適合する鍵を挿することで、ピンの境目が外筒と内筒の境界に一致するようになり、内筒を回転させて、錠前を開けると言う構造らしい。


 須藤曰く、「鍵のギザギザの部分と同じ形のものが作れれば錠前は開くんだ」そうである。


「それが簡単に作れないから鍵の存在意義があるんだぞ」

「簡単じゃあないが方法はある。まあ見てくれ」


 須藤はそう言うとポケットから何かを取り出した。


「なんだ? 紙粘土?」

「そう紙粘土。これで鍵の型を取るんだ。ラッキーなことに屋上の鍵って教室の鍵と同じあたりにかかってるからさ、例えば、居残りで勉強するとか言って俺たちが教室の鍵を職員室まで、戻しに行く口実さえ作れれば……」

「屋上の鍵の型も手に入れられる……と」

「そういうことよ」


 須藤は悪戯っぽくニッと笑う。須藤は自信満々といった感じだが僕はこの計画に不安しか感じなかった。


「型だけあってもどうやって鍵を作るんだよ」


 僕は当然の疑問を須藤にぶつけた。


「俺、手先は器用だから」

「器用だからって出来ることと出来ないことはあるだろう」

「大丈夫だって。俺は全日本手先器用グランプリがあったら関東大会ぐらいまでは行けるくらい器用だから」

「絶妙に心配な器用さだな」


 僕はそんな事を口で言いながらも、須藤ならなんとかしてしまうのではないかという不思議な頼もしさを感じていた。


「材料は、モルタルとか、石膏あたりかなぁ俺たちでも手に入りそうだし」

「いや、錫にしよう、モルタルとか硬いものでやって中で折れたら最悪だし」

「オーケー。それで行こう」


 須藤はまた悪戯っぽくニッと笑った。僕はそれをみて子どもっぽいなと感じた。


 都合123個。僕達が試作した鍵の個数だ。本当に馬鹿だったと思う。まわりは勉強だ。委員会だ。部活だ。友情だ。恋愛だ。充実した毎日を過ごす中で屋上の鍵を開けて思い切り叫びたい。全校生徒に声を響かせたい。そんな馬鹿なことのために時間を費やした。型取りのために何度も教室に残り、製作費のために少ない貯金も使い果たした。10人に聞いたら11人が馬鹿だと答えるだろう。狂気的と言われても間違いない。


 それでも、その時間が無駄だったとは僕は思わないし、誰にもそんなこと言わせない。言わせたくない。なんでこんなくだらないことに時間と労力を使えたのかは僕も不思議だ。


 僕にはもう一つわからないことがある須藤だ。なんでコイツはあの雨の日教室にきたのか。なんでコイツはあの蝉の鳴き始めた日に、もう一度話かけてくれたのだろう。須藤本人に聞こうなんて事はもう思わない。きっとコイツは何も覚えてないくせに「そういう運命だったんだよー」なんて茶化すに決まってる。そうに違いない。


 ガチャリと音がした。僕と須藤は見つめあった。ついに果てしない徒労に、青春の不経済に終止符が打たれようとしていた。


「なあ、屋上ってどうなってるって思う?」


 須藤は今更、僕に問いかける。


「ボロボロのコンクリート床で錆だらけで壊れそうな柵があるだけだろ」

「そうかな。そうかな。なんか特別な施設とか制御室とかありそうで、ワクワクしないか?」

「ワクワクはするけどよ……。不法侵入が本来の目的じゃないだろ」

「わかってるよ。俺はもう何を言うか決まってる。お前は決まってんのか……?」

「当たり前だ。どれだけ時間があったと思う」

「それもそうか……」


 須藤はそう言うと静かに頷いた。

 

 僕も同じように頷いて答えた。


 須藤がドアノブを回して体重をかけると軋む音とともに重い鉄扉が開け放たれた。


 晴れわたる日差しが暗い廊下に差し込み、木の葉が風とともに校舎に入り込んだ。


 そうして僕達はついに屋上にたどり着いた。


「ここが屋上かぁ」


 須藤は空を見上げる。


「やっちまったなぁ」


 僕は綺麗に防水塗装のされたコンクリートの足元を見つめる。


 長く、果てのない旅路の果て、そこには何もなかった。本当に何もなかった。僕が憧れてたスリルも、あいつが期待していた楽しさも、そこにはなかった。でも、それで良かった。


 それでも僕達は叫んだ。

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放課後ジャック 土屋シン @Kappa801

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