27:その苦しみを
制服に着替えた沙良は秀司と外の屋台を回り、女子バレー部がテントの下で販売していたお好み焼きを買った。
正確には店頭に立っていた歩美と茉奈に見つかって買わされたのだが、元々買うつもりだったし、美味しいので問題はない。
沙良が左手で支えているプラスチックのフードパックにはお好み焼きと焼きそばが入っている。
これは箸をつける前に秀司が買った焼きそばと半分ずつ交換した結果だ。
(好きな人と食べ物のシェア。最高だな。幸せだなぁ)
晴れた青空の下、中庭のベンチに並んで腰掛け、よく冷えたペットボトルのお茶を飲みながらふふっと笑う。
花壇ではコスモスやガーベラが風に揺れていて、中庭の中央では噴水が噴き上がっている。
さきほど屋台を回っていたとき、眼鏡をかけた優しそうな男子と仲良く手を繋いで歩く小林を見かけた。
小林は沙良たちに気づいてぺこりと頭を下げ、幸せそうな顔で彼氏と歩いて行った。
屋台近くの広場、文化祭のためにいくつも並べられたベンチの一つでは制服姿に戻った瑠夏と大和が座っていた。
瑠夏は相変わらずクールで、笑顔の大和に話しかけられていても無表情でタコ焼きを食べていたが、彼女が本気でつまらないと思っているのかそうではないのかくらいわかる。
嫌いな相手に自分が食べているタコ焼きを差し出したりはしないだろう。
(いいなあ、こういうの。ずっとこのまま平和だったらいいのに……)
どんなに幸せであっても、西園寺という名前が頭にこびりついたまま消えてくれない。
ついため息をつきそうになり、隣に秀司がいることを意識して堪えた。
(いけない、笑顔、笑顔。秀司に勘づかれるわけにはいかないわ)
「ごちそうさま。お好み焼きも焼きそばも美味しかった。ねえ、私もポテトもらってもいい? 味見してみたい」
空になったフードパックを輪ゴムで閉じてビニール袋の中に入れ、笑顔で秀司に尋ねる。
「どうぞ」
秀司は左手に持っていたポテトを沙良に差し出した。
「ありがとう。……うん、美味しい。塩加減が絶妙だわ。これを作った女子バスケ部の子は料理人になれるんじゃないかしら」
食べ終えたタイミングを見計らって差し出された使い捨てのおしぼりを受け取り、手を拭く。
本当に彼は気が利く人間だ。
「かもな」
噴水のほうへ視線を投げている秀司は気のない返事を寄越した。
彼の視線を追ってみると、彼は噴水の向こうにいる仲睦まじいカップルを見ているようだ。
ふざけた調子で彼氏に抱き着かれた彼女は「ちょっともお、たーくんったらあ。止めてよお」とか言っているが、その表情は嬉しそうである。
「どうしたの? 気になることでもあるの?」
まさか自分たちもあのバカップルのようになろう、とか言い出すわけではあるまい。
「別に」
秀司はこちらを見ようとしない。
右手だけが動き、自動的にポテトを口に運んでいるような状態だ。
「嘘でしょう。何かあるんだったら言ってよ。私は秀司の力になりた――」
「その台詞、そっくりそのまま返したいんだけど」
空になったポテトの袋をゴミ用のビニール袋に入れて、ようやく彼がこちらを見た。
「さっきだって、誰を探してたんだよ。何か隠してることがあるだろ。俺に」
おしぼりで汚れた手を拭きながら秀司が言う。
『さっき』とは、秀司と屋台を回っていたときのことだ。
飲食物の購入を終えて座る場所を探していた沙良は、人ごみの中に長い髪をなびかせて歩く女性の背中を見つけた。
波打つ豊かな薄茶色の髪は陽光を浴びて金色に輝いていた。
まさか西園寺かと全身に鳥肌が立った沙良は思わず走って彼女の前に回り込み、その顔を確認した。
けれど、違った。
彼女は西園寺ではなく、大学生くらいの、全く知らない女性だった。
沙良は胸を撫で下ろして秀司の元へ戻り、どうしたのかと聞いてきた彼になんでもないと答えた。
秀司はそう、と答えて終わりにしてくれたが、思えばあれから口数が少なかった。
「……隠してることなんて……」
心の奥底まで見通そうとするかのような秀司の強い視線を受け止めきれず、俯く。
「あるだろ。言えよ。なんなんだよ。沙良は昨日からずっと様子が変だ。何か気になってることがあるんだろ?」
秀司は堰を切ったようにまくし立てた。
「昨日も、今日の午前中も、教室に客が来るたびにいちいちそれが誰かをチェックしてた。接客中もずっと気を張ってただろ。俺と一緒にいるときも、ふとした瞬間に暗い顔で考え込んでた」
語尾は強く、怒っているように聞こえる。
もちろんそれは心配の裏返しだ。わかっている。
(……私のことよく見てるなあ……)
嬉しくて、泣きそうだ。
「誰かに何か言われたのか? 脅されてる? なあ。正直に言えって」
焦れたように彼は右手で沙良の左手を掴んだ。
「俺がどうにかしてやる。どんな問題だろうと解決してやるから。力になるよ」
握られた手から彼の温もりが伝わってくる。
彼が沙良に向ける眼差しはひたすら真摯で、誠実だ。
だからこそ、胸が痛い。
(違うのよ。問題を抱えているのは私じゃなくて秀司なの。私のことより自分のことを心配してよ――)
奥歯を強く噛む。
これまで必死で隠してきたが、もう観念して言うべきなのだろうか。
辛そうな顔が見たくないから黙っていたのに、秀司にこんな顔をさせてしまうなら意味がない。
「どうしても俺には言えないっていうなら、親友の長谷部さんに相談することはできない?」
自制を働かせたのか、秀司の声が優しいトーンに変わった。
「ご家族とか。梨沙ちゃんはどう? 趣味は少し変わってるけど、優しい子だから、姉が困ってると知ったらきっと助けてくれるはず――」
どうにか沙良を元気づけたくて必死なのがわかって、――もう限界だった。
「違う」
沙良は頭を振った。
赤いシュシュをつけたサイドテールがふらふら揺れる。
「違う?」
秀司が戸惑ったように聞き返してくる。
沙良は思い切って秀司と目を合わせ、ついに言った。
「……秀司が心配するべきなのは私じゃなくて秀司自身よ。遠坂さんが教えてくれたの。遠坂さんの友達に、西園寺さんが文化祭の日程を聞いてきたって。もしかしたら今日、秀司に会いに来るかもしれない」
果たして彼はどんな顔をするのだろう。
驚愕、戸惑い、怒り、絶望――
しかし、彼が次に浮かべた表情はそのどれとも違った。
「なんだ……そんなことか」
彼は心底安堵したように苦笑した。
わずかに下がった肩が、緊張に強張っていた筋肉から力を抜いたことを示している。
「……そんなこと?」
呆気に取られて彼を見る。
芸能人を招致したイベントが始まったらしく、校舎内の様々な音や声に交じって、グラウンドのほうから人々の歓声が聞こえてきた。
「俺はてっきり沙良がよからぬ
「いやいやいや!? もったいぶって当然でしょう!?」
彼の反応があまりにも予想外すぎて停止していた思考回路が動き始めると同時、沙良は早口でまくしたてた。
「自分の人生を無茶苦茶にした女が来襲するかもしれないのよ!? 大事件でしょう!? 私は秀司がショック受けるんじゃないかって、心配で心配で堪らなかったのよ!? もし秀司狙いで西園寺さんが来たらどうしよう、どうやってクラスの皆と撃退しようって頭の中で何度もシミュレーションしたんだからね!?」
「クラスの奴らにも協力を仰いでくれたんだ。ありがとう」
「いえ、クラスの皆も巻き込もうって言い出したのは私じゃなくて遠坂さんだから、お礼なら彼女に言ってちょうだい」
微笑む秀司に、沙良はきっぱりと言った。
「自分の手柄にしないあたり、沙良って真面目だよな。わかった。遠坂さんにもお礼を言っとく。でもやっぱり一番礼を言わなきゃいけないのは沙良だよ。これまでずっと俺のことを考えてくれてたんだからな」
「……大丈夫?」
空元気なのではないかと不安になって、沙良はじっと秀司の目を見つめた。
「んー。まあ、正直に言うとあいつが来るのは嫌だな。すごく嫌。死ぬほど嫌」
「でしょうね……」
沙良は目を伏せた。
吹きつけてきた風が前髪を揺らし、頬を撫でて通り過ぎていく。
「何のために来るのか知らないけど、目的が俺なら怒りを通り越して笑えるな。もしまた告白なんかされたら反射的に手が出るかも」
「そ、それはダメよ? 気持ちはわかるけど絶対ダメ。たとえどんな事情があろうと、手を出したら秀司が悪者になっちゃう」
慌てて言うと、秀司は笑った。
「そうだな。だから、俺が暴走しないように見張ってて」
落ち着いた声と共に、手を強く握られて、心臓が跳ねた。
「俺の傍にいて。俺のことを一番に考えてくれる沙良がいるなら大丈夫だから」
「あ、当たり前でしょう」
ドギマギしながら答える。
繋いだ手から感じる彼の体温が、皮膚の感触が、沙良の心拍数を増大させる。
鏡を見なくても、自分の顔が真っ赤であろうことは予想がついた。
「私は秀司の彼女なんだから。秀司が嫌だっていっても、噛みついたすっぽんみたいにくっついて離れないからね。もし西園寺さんが来ても、誰が彼女なのかわからせてやる。絶対に撃退してみせるんだから」
「頼もしいな」
秀司は笑って、それきり何も言わなかった。
その眼差しは遠く、ここではないどこかを見ているようだ。
秀司がいま何を考えているのか、沙良にはわからない。けれど。
(秀司の苦しみを、悲しみを、憤りを――私は少しでも担いたいわ)
彼の手を強く握り返す。
手を繋いだまま、しばらく沙良たちは黙って風に吹かれた。
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