22:嵐の前兆

 十月上旬の土曜日、三駒高校の文化祭当日。


(今年も気合入ってるなあ)

 バルーンアートで飾り立てられた校門前で沙良は立ち止まり、極太の毛筆で書かれた『三駒祭』の看板を見上げた。


 通行の邪魔にならないよう、校門の端にいる沙良の横を生徒たちが通り過ぎていく。


 制服ではなくクラスTシャツを着ている生徒も複数見かけた。


 生徒たちの会話は熱がこもっていて、これから始まる祭りへの高揚感を肌で感じた。


「何してんの」

「わっ。お、おはよう」

 声をかけられた沙良は驚いて肩を跳ねさせ、振り返った。


「おはよう」

 そこには夏服姿の秀司がいた。

 十月に入り、いまは衣替えの移行期間だが、文化祭の始まりに当たって太陽もやる気を出しているのか、今日は冬服だと暑いくらいの気温なので沙良と同じく夏服を選択したのだろう。


「看板を見てただけよ。字が上手だなあって」

「褒めてくれてありがとう」

 晴れた秋空の下、秀司は自慢げに笑った。


「え? あの看板、秀司が書いたの?」

 美しい楷書体で書かれた『三駒祭』の文字をもう一度見上げる。


「生徒会長に頼まれてね。あの風船も一緒に膨らませたし、会場の設営も少しだけ手伝ったよ」

「いつそんな暇が……?」

 そういえば茶道部のクラスメイトも、バスケ部のクラスメイトも、他のクラスの人まで秀司に助けられたとか言っていたような気がする。


(多忙なのに、水面下で何人助けてるんだろ)


「『何をするにも時間は見つからないだろう。時間が欲しければ自分で作ることだ』」


「チャールズ・バクストンね」

「さすが学年二位」

 秀司は笑って歩き出した。


「むう……中間テストでは一位の座をもぎ取ってやるから覚悟してよね」

 彼の背中を追いかけながら言う。


 文化祭が終わったらすぐに中間テストだ。

 この一週間、ダンスの練習に没頭する一方で、沙良はテストに向けての勉強もしてきた。


 昨日の夜は秀司と無料通話しながら学校の課題をこなした。


 もっとも、ヘッドフォン越しに聞く秀司の声と、パソコンに表示された風呂上がりの彼の姿にやたらドキドキしてしまって、あまり身は入らなかったのだが。


「うんうん、前にも聞いたよ、頑張ってー」

「だから棒読み! 今回こそは本気で――」

 じゃれ合うように秀司と談笑し、昇降口で靴を履き替えて教室へ向かう。


 昨日クラス全員で色んな装飾をした二年一組の教室は別世界のようになっていた。


 ホワイトボードにはカラフルなペンで『妖怪喫茶』と書かれており、折り紙の花と竹細工がつけられている。


 教室の各所でまとめた机には布を被せてテーブルにし、その上におはじきや和風の小物を並べた。


 壁には抹茶色の布を垂らし、棚の上にはクラスメイトが祖母の家から拝借した日本人形を飾り、徹底して和にこだわった。


「意外と本格的だよな、うちのクラス」

 教室の後方のロッカーを隠すために掛けられた布をめくりあげ、鞄をロッカーに押し込んで秀司が言う。


「文化祭実行委員や石田さんたちが頑張ってくれたからね」

 沙良も自分の鞄をロッカーに入れた。

 鞄は持ってきているが、中身はほとんど空だ。


 昼食も外の屋台で買って食べる気満々なため、本当に財布とスマホくらいしか入っていない。


「ええ、クラス委員長がいなくともクラスの皆で頑張りましたとも」

 噂をすれば影、というやつだろうか。

 教室の前方で雑談していた歩美と里帆が近づいてきた。


「石田さん。おはよう」

「おはよう、にいんちょ。いやあ、今日からいよいよ文化祭ですね。愛しのダーリンの超レアなコスプレ姿、楽しみ過ぎて眠れなかったんじゃありませんか?」

「ま、まさか、そんなことないわよ!」

 と言いつつ、実はめちゃくちゃ楽しみにしていた。


 何しろ、当日のお楽しみと服飾係にガードされて、沙良は秀司のコスプレ姿をこれまで一度も拝んだことがないのだ。


 超格好良い、着物姿ヤバい、とはしゃぐ女子たちの姿を見ていれば興味が湧くに決まっている。


「という割には目の下に隈があるような?」

「!?」

 沙良は慌てて目元を隠したが、今朝鏡でチェックしたときはなかったことを思い出してすぐに手を離した。


 しかし、沙良の行動で寝不足を見抜かれてしまったらしく、歩美と里帆はニヤニヤしている。


「にいんちょって本当にわかりやすいよねー」

「からかい甲斐があるわー。いやー、恋する乙女からでしか摂取できない栄養があるわー。今日は本当に頑張ろうね!」

 満面の笑顔で里帆に肩を叩かれた沙良は奥歯を軋らせた。


 どうも沙良は最近、歩美たちの玩具と化しているような気がするが、抗議しても彼女たちは聞く耳を持たないだろう。


「おはよう」

 雑談に興じていると、教室の後方の扉から茉奈が鞄片手に歩いてきた。


「茉奈。おはよ!」

「おはよう」

「遠坂さん、おはよう」

 秀司が挨拶すると、茉奈の表情は微妙に強張った。


「うん、おはよう」

 茉奈は取り繕うように笑い、ロッカーに鞄を入れてから沙良の右手首を掴んだ。


「ごめん、ちょっと彼女借りるねー。歩美たちも来て」

 茉奈は片手を上げて秀司に「ごめん」というポーズを取りつつ、沙良の手を引き、廊下の端へと連れて行った。


 廊下には沙良たちの他にも集まって談笑したり、階段から現れてそのまま自分の教室へ向かう生徒がいたが、声の届く距離には誰もいないことを目で確認して、茉奈が口を開く。


「もしかしたら。もしかしたら、なんだけど……やばいかもしれない」

 茉奈の表情は真剣だが、話が抽象的過ぎて理解不能だ。


「やばいって、具体的に何が?」

 里帆が眉根を寄せる。


「四組の井上ちゃんが教えてくれたの。西園寺さいおんじが文化祭の日程を聞いてきたって。うちの文化祭に来る気かも」

「え。まさか、あいつ、まだ不破くんのこと狙ってんじゃないでしょうね?」

「嘘でしょ? もし不破くん狙いで来たら、神経疑うわ。あれだけのことをしといてさあ。そもそも彼氏いたでしょ? 別れたの?」

「そこまではわかんないよ。私だって井上ちゃんから、久しぶりに西園寺からラインが来たって教えてもらっただけだし……」

 二人に問い詰められて、茉奈は困ったような顔をした。


「ねえ。西園寺って、誰?」

 秀司に関する話題となっては黙っていられず、沙良は口を挟んだ。


「あー……なんていうか、ヤバい女。物凄い美少女だけど、同性には蛇蝎の如く嫌われるタイプ」

 歩美は腕組みし、眉間に皺を作った。


「不破くんがアイドル辞めちゃって、女子に塩対応するようになったのもあいつのせいだよね……」

 床の一点を見つめた里帆が呻く。


「!!」

『西園寺』の正体に思い当たり、全身に鳥肌が立った。


 レンタルスタジオで過去のことを話したとき、秀司はその女の名前を最後まで言わなかった。

 きっと、口にするのも嫌だったからだ。


「……嘘……」

 文化祭に浮かれていた気持ちは吹き飛び、すうっと体温が下がった。

 そこかしこから聞こえてくる生徒たちの喧噪が、まるで遠い世界の出来事のようだ。


「不破くんに大体聞いてるんだね……」

 顔色を変えた沙良を見て、歩美は心配そうに眉をハの字にした。


「でもさ。一般公開されるのは日曜日だけだから、今日は絶対安全だよ。余計なことは考えずに楽しまなきゃ損だって」


「そうそう。西園寺はただ日程を聞いただけかもしれないし。仮にもし来たとしても不破くん狙いとは限らないよ? 純粋に、中学のときの友達に会いに来るのかもしれないじゃん!」

 歩美と里帆がそう言って、


「ほら、そんな顔しないでよ。気になる情報を入手したから、念のため注意喚起しただけだって。深刻になる必要ないない!」

 茉奈が沙良の頭を撫でてきた。


(その言葉は嘘でしょう、遠坂さん……)

 本当にそう思っているのなら、茉奈だって秀司を見て顔を強張らせる必要はなかったはずだ。


 沙良の胸中には不安の嵐が吹き荒れている。


 もしも西園寺という女が現れたら、秀司がどんな反応をするのか――怖くて怖くて堪らない。


 ――でも。


「……そうね。みんな、励ましてくれてありがとう」

 心優しい彼女たちにこれ以上心配をかけるのが心苦しくて、沙良は無理やり笑顔を作った。


「大丈夫よね」

 自分に言い聞かせるように唱えて右手を握る。


「当たり前じゃん! にいんちょと不破くんの間にはあいつも入り込めないって!」

「一応他のクラスの友達にも、クラスの皆にも言っとくからさ! もし来たら皆で撃退しよう!」

「よし、『西園寺を撃退し隊』結成をここに誓おう!」

 歩美は沙良を含めて円陣を組んだ。


 三人が右手を重ね、歩美が沙良の右手を掴んで一番上に重ねさせる。


 もしかしたら歩美は沙良が必要以上に強く右手を握っていることに気づいていたのかもしれない。


「ファイト、おー!」

「おー! って、これ何?」

「女バレ恒例の、試合前に気合を入れる儀式だよ儀式」

 女子バレー部所属の歩美が里帆の問いに答え、短いスカートの裾を翻す。


「さ、戻ろう。あんまり遅いと不破くんも変に思っちゃうよ」

 ニコッと笑い、歩美は沙良の肩を叩いて歩き始めた。


「お楽しみのコスプレ姿も待ってるしね!」

 里帆も茉奈も沙良に気を遣い、ことさら明るく振る舞ってくれている。


「もう。からかわないでってば」

 それがわかるから、沙良も努めて気にしていないフリを装った。


(どうか何事もありませんように……)

 教室に戻るまでの間、沙良はそればかりを祈っていた。

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