第十三話 便り
その便りは前触れもなくやって来た。
実際には
ただ、あの日からもうひと月もの時間が経つということをすっかり忘れていただけの話だ。
手紙は
芻は宛の双子の
容姿は宛とそっくりなのだが性格はそれ程似ておらず、身勝手な宛とは違い、周囲へ気配りが出来て正義感が強い。
手紙の内容も、宛の身勝手な振る舞いを今更ながら知ったこと、宛を止められなかったことに対する謝罪が丁寧に書き連ねられており、無理矢理連れてこられた客人にもよくよく謝っておいてほしい、と
そして追伸に「直接会って話がしたいので、宛と共に其方へ行く」という旨が記してあった。
(どう考えてもそちらが本題だろう)
手紙を読み終えた藍は
この少しばかり常識から考え方がずれているところは、やはり宛の片割と言うべきかもしれない。
窓の外では燃えるような夕日が今にも山の端に沈もうとしている。
藍は溜息を吐いて自室を出た。
藍を連れ出したあの日、里の診療所の前で宣言した通り、彼は相変わらず使用人の少女たちの手伝いをする傍らで、藍の仕事に首を突っ込み、流行病の研究に
何かに取り憑かれたように医学書を読み漁り、資料と睨み合い、薬草を集めては千切ってみたり、煮込んでみたり。
それで何か進展があるとは思えない、という藍の本音に変化はなかったが、皓皓が生き生きと宮の中を走り回る様子は、以前ほど気にはならなくなっていた。
「おい」
「藍?」
扉を開ける音にも耳に入らず本を読み耽っていた皓皓は、隣に立って声を掛けてようやく藍の存在に気が付いた。
薬草図鑑と共に並べていた擂り鉢を、急いで立ち上がった拍子にひっくり返してしまい、薬草の粉末を撒き散らす。
「わぁっ!」
「何をやっているんだ」
書庫で薬を調合するな。
注意しておく必要があるな、と思ってから、注意するまでもなく、もう今後はないことなのだと思い至る。
「僕に用だった?」
床に散らばってしまったあれこれを片付けながら、皓皓が屈託のない瞳で見上げてくる。
初めの数日間のしおらしさは何処へやら、言葉遣いも態度もすっかり気安くなった。
藍自身が許可した以上、咎めるつもりはないが。
「芻から知らせが届いた。明日、宛と一緒に此方に来るらしい。
まったく、明日の連絡を何故今日寄越すんだ」
皓皓は手を止め、まじまじと藍を見詰めた。
「なんだ? 変な顔をして」
「どうして宛皇子たちが此処へ?」
「どうしても何も、初めからそういう話だっただろう。ひと月後に様子を見に来る、と」
「ああ……そう、そうでしたね」
皓皓が呆けたように呟いた。
本当に、忘れていたのだろう。藍が忘れていたのと同じように。
ほとんど宛に騙されるような形で、皓皓が強引にここへ連れてこられたあの日が、ずっと昔のことのようだ。それでいて、もうひと月も経ったのかとも思う。
「荷物を纏めておけ」
「え?」
藍の言葉に皓皓が首を傾げる。
「え? じゃないだろう。迎えが来たらすぐに帰れるよう、準備をしておけと言っている」
何故、彼は不思議そうな顔をしているのだ? 当たり前のことを言っただけなのに。
「……僕が藍の
「元から俺は認めていない。お前もそんなつもりはなかっただろう?」
それに関しては、皓皓はすんなりと頷いた。
二人で普通に会話をするようになってからもそのことについて語り合わなかったのは、絶対にありえない話だとお互いに確信していたからだ。
「でも、宛様が許してくれるかな?」
「あいつは自分勝手な奴だが、本気で嫌がる相手に無理を強いる程の悪人ではない」
「此処へ来るのだって、僕は、少なくとも最初は本気で嫌がっていたつもりだけど」
それについては、皓皓の言い分がもっともだったので、反論のしようがない。
「明日は芻が一緒だ。芻なら宛にも理不尽なことはさせないさ」
今回の宛の身勝手について、芻が相当怒っているらしいことは、手紙の文面からも伝わってきた。
これ以上の理不尽は彼女が許さないだろう。
「おまえにも、くれぐれもよろしく、と。謝っておいてほしいと手紙にあった」
「そんな。なんだか申し訳ないな」
片付け終えた道具を机の上に戻して、
「明日、かぁ……」
と、皓皓が煮え切らない様子で零した。
それは、まるで。
「……帰りたくないのか?」
そう見えてしまうような態度だった。
「だって、僕が帰ったら、藍はまた一人になってしまうじゃないか」
思い掛けない言葉に、一瞬、息が止まる。
「言っただろう。僕は君の力になると」
「……本気か?」
確かに皓皓はそう言った。
今も熱心に藍の仕事を手伝っている。
しかし、あれは勢いのまま口から出ただけの、あの場限りの言葉だと、そう思っていた。
「おまえが帰らないと困る相手がいるだろう」
例えばあの診療所の青年。
例えば、彼が家に残してきたものたち。
それをどうするつもりなのか。
宮に戻る前、皓皓は「もう一度だけ」と言って、山奥の彼の小屋に立ち寄った。
何事かと見ていると、隣の
「ごめんね、ハシバミ。僕はまたしばらくここへ戻れそうにないんだ。だから、待っていなくていいんだよ」
皓皓が首を撫でてやると、栗毛の馬は「心外だ」とでも言いたげに、鼻面で皓皓の胸を押す。
聞けば、元々は彼の養父の馬だったらしい。
厩には鍵を掛けておらず、扉はその
半分放し飼い状態の彼だか彼女だかは、それでも毎晩必ず、その厩に戻って来ると言う。
だから皓皓がこれだけ長い期間留守にしても生きていられたわけだ。
しかし、裏を返せばそれだけの間何処にも行かず、主人の帰りを待ち続けていたのだとも言える。
養父母を亡くして以来、皓皓の唯一の家族だったのだろう。
そして、それはきっと相手にとっても同じこと。
皓皓の言葉はともすれば今生の別れを告げるものに聞こえたが、ハシバミはこれからもきっと、此処で皓皓の帰りを待ち続けるのだろう。
それから、皓皓は小屋の裏手に回った。
其処にはなんとか一人で耕せるだろう、という程度の畑が広がっており、伸びき切った雑草が野菜や薬草の居場所まで侵食していた。
折角育てたそれらがすっかり駄目になってしまった様を、わずかばかり残念な様子で眺めた後、皓皓は畑を迂回して進んで行く。藍は何気なくその後に続いた。
整地された土地と手付かずの山林、その境目に、それはあった。
三つ並んだ墓標。
「養父と、養母と……僕の、片割のお墓です」
「……ああ」
生まれる前に母の
皓皓が
皓皓は沈黙したまま「三人」の前に跪き、そっと両手を合わせた。
それに
見ず知らずの自分に手を合わせたとて、果たして彼らは受け入れてくれるだろうか?
皓皓の
あんな姿を目にしたら、皓皓のこれまでとこれからの生活を思わずにはいられない。
皓皓はそんなことはないと言ったが、藍自身はまだそれを信じきれていないのだ。
「……帰れ」
「藍」
「おまえにいられると迷惑だ」
口を開いて立ち上がった皓皓に背を向け、足早に書庫を出た。
廊下を早足で歩きながら、思う。
(これでいい)
ほんの束の間立ち寄った渡り鳥が、また去って行く。それだけだ。
今までの十年と同じ。何不自由ない静かな日々が戻ってくるだけのこと。
皓皓も日常に戻れば此処での出来事など、夢のように忘れてしまうだろう。
あの日、夜空を飛べた。
鳥籠の目から仰ぎ見た雲に一度でも触れることが出来た。
囚われの忌子とっては、それだけで十分過ぎる程の思い出だった。
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