エピローグ

エピローグ

 10月の終わりともなると、夜はさすがに肌寒くなってくる。昼間なら心地良く感じた風が今は冷たく身体を通り抜けていく。


 眠ってしまったひかりをベッドに運び、椎子と一緒に仲良く寝かしつけた後、霧崎有希子は外に出て、その男の帰りを待った。既に時間は深夜1時を回っている。帰宅時間が遅いのは確認済みだが、それは単に仕事が忙しいと言うだけではないだろう。


「やぁ、遅かったじゃないか」


 更に30分ほど待った後、その男――喜多沢孝之きたざわたかゆきは姿を現した。


「霧崎有希子か」

「ほう、やっぱり知っているか、私も有名になったものだな。だがそれはどっちの私だ?高校の物理の教師としての私か、それとも……」


 スゥと紫色に変色していく瞳の色。


「霧崎の鬼としてのあたしか?」


 ごくりと息を飲む声が聞こえてくる。少し脅しが効きすぎたようだ。再び瞳の色を元に戻すと有希子は顎で移動を促した。


「少し、話がしたい。付き合ってもらえるか?」


 夜の闇の中を歩く。年頃の男女が一緒に歩くにはややロマンに欠けた風情だが、今はそれ以上にふたりの距離は遠い。暗闇には鬼が潜むというが、このとき喜多沢孝之が共に歩いているモノは、望めばその暗闇の鬼すら霞むほどの禍々しい冷気をその身にまとうことができる。


 霧崎の神奈備――現代社会においてなおも残る神秘のひとつ。その存在を知る者ならば必ずこう言うだろう。


「あれは鬼そのものだ」と。


 大通りを外れ、小さな公園に足を踏み入れると、有希子は古びたブランコに腰を降ろし、孝之を見据えた。右腕をブランコに添え、挑発的な視線を閃かせる。


 その禍々しくも美しい姿に孝之は息をのんだ。その瞳に見つめられると全てを見透かされているような錯覚さえ覚えるほどだ。


「ようやく思い出したよ。全く我ながら抜けている。喜多沢という姓を聞いた時に、すぐ思い出すべきだった。喜多沢、いや鬼多沢彰きたざわあきらの子があの子か。霧崎から先代神奈備をさらって行ったあの男の子供が、まさか10年前に私が救ったあの子だとは思いもよらなかった。だが、少々出来すぎているな。一体どういうことなのか、少しだけ説明してもらいたいのだが?」


 凍てつくような酷薄な笑みがその口元から漏れる。一体誰がこの質問を拒むことができるだろうか。


「タバコ……いいか?」

「ああ待っていてやるから存分に吸うがいいさ。なに時間はたっぷりある」


 孝之はポケットから取り出したライターでタバコに火をつけ、静かにそれを燻らせた。


 無言の時が流れていく。ザワザワと風に揺れる木々の音だけが時折耳をくすぐった。


 やがて観念したように孝之は語り始めた。


「何から話したものか、そうだな。ここから始めよう。喜多沢彰が研究していたもの。それはあえていうなら、あんたのいう『鬼』の力だ」


 正確に言うと、それを研究するグループの一員となる。構成は、脳神経学や遺伝子工学、情報科学、数学、宇宙物理学、量子力学などの分野に始まり、果ては哲学、心理学、社会学、文化人類学、民俗学に至るまでの広範囲にわたっており、それらのトップクラスの頭脳を結集して現代社会に未だ存在する「奇跡」のようなものを研究する狂った連中の集まりと言える。


「喜多沢彰は、先代神奈備である自分の妻を亡くしてから、新たにグループに加わったようだな。俺は正確にはひかりの兄じゃない。喜多沢彰が研究に没頭するために雇った代理の兄のようなものだ。今の社会、金さえあれば何だって買える。そう、兄弟だって買えてしまうってわけだ。お陰で俺は楽をさせてもらっているがな」

 

 そう言って孝之は自嘲気味に肩をすくめてみせる。確かに先代神奈備がいなくなってから、今に至るまでの期間を考えるとひかりはともかく、孝之のような大きな息子が居るとは考え難い。これは本当のことだろう。


「そうそう、連中は、あんたの遺伝子を欲しがってるぜ。何たって、霧崎の神奈備は、現代社会における奇跡の中の奇跡の種だ。それだけの力を持つ異能力者はまず存在しないに等しい」

「まるで、絶滅危惧種のような言われようだな」

「いや、その例えはマジで正しいぞ」


 実際に、研究によって生み出された「異能者」も存在する。その中でも単純に、それを「見る」ことができる能力者はかなりの数存在するが、「見る」ことはできてもそれをどうにかすることはまず出来ない。

 そして、大半の者は自分の「見ている」ものと現実とのギャップに耐えきれず精神的におかしくなっていく。

 力を「扱う」ことのみの出来る異能者はもっと悲惨だ。自分の能力を発現させることができるが、それが何であるかを理解することが出来ていないため、そのまま自滅していくことが殆どだ。

 例えばある異能者は、発火現象を起こすことができたのだが、自分の体を焼き尽くすまでその力を出し尽くし、自分が何をしているのかを理解しないまま黒コゲになって死んだ。

 更に、その両方が出来たとしてもうまくいくとは限らない。どういった理由からか、性格そのものが変わってしまう。ある異能者は普段はとても真面目な青年だったにもかかわらず、突然凶暴になり、周囲に力をまき散らして多くの人間を惨殺し、最終的には射殺された。

 これら全ての結果を考慮に入れると、霧崎の神奈備は、僅かに瞳の色を変色させるだけで他に何の変化もなくそれをやってのける。連中にとってはまさに垂涎の的。究極の芸術に等しい。


 正確には瞳の色が変わるだけでなく、僅かに気分が高揚し、やや凶暴な性格になるのだが、そんなことをわざわざ教えてやる必要はないだろう。


 それにしても、そういったおかしな研究の話を聞くと、心が躍るのは悪い癖だ。マッドサイエンティストの話は根源的に人の心を揺さぶるものがあるのかもしれない。


「ちなみに私が遺伝子を提供すると言い出したらどういった見返りが貰える?」

「そうだな。少なくとも、世界最高レベルの科学者と対等に対話する権利、そして世界最高レベルの贅沢な実験機材を扱うことができるだけの権利が得られるだろう」


 ぐは、それはとても魅力的すぎる。心がグラグラと動く。あの人類史上まれに見る巨大で馬鹿げた浪費を扱うことができるなら、そのくらいはやってもいいとさえ思えてしまう。いやしかし……


「有希子~」


 と、いかんいかん。妖精に諌められるようになったらオシマイだ。浮かんだ妄想を慌てて振り払うと、有希子は話を元に戻した。


「それで今回のHiroの騒ぎもその一環というわけか」

「そうだな。あれは、その余剰産物みたいなものだ。実験でわかったことだが、あんたら異能者は力を使うとき、どうも何かと対話しているようだ。それが何なのかはわからない。世界か、あるいはまた別のものか、その考えに触れた谷口比呂人が天才的なセンスで作りだしたプログラムがHiroだ。思った以上に面白いデータが取れたようだったが……」


 と、思い出したかのように孝之は、くつくつと笑った。


「それにしてもあんた、一体何をした?」

「……何とは?」

「とぼけるなよ。俺がこんなに遅くなったのはそのせいもあるんだぜ」


 Hiroのシステム自体は谷口比呂人によるものだが、そのリソースは全世界に分散し、絶えずバックアップを取得、安定稼動を続ける。


 単なる個人の道楽ではない。そうでなければこれほど大規模なシステムは成り立たない。だが、本日、突然負荷分散を行なっていた殆どのサーバーが一度にパンクするほどの大きな情報の流れが生じた後、今度はいきなり内部から自己崩壊を始めた。

 オートリカバリを諦め、マニュアルで復旧を試みたが、それすらも消去された。手がつけられなかった。それどころか、オフラインで保管していたバックアップも含め全てのデータが破損。完全に復旧は不可能になった。


 稼働率99.9999……%


 点の後にいくつ9が並ぶかわからない。シックスシグマどころの問題ではない。限りなく100%に近い稼働率を誇るシステムの完全停止……まさに神の所業だ。


「いい気味だぜ。全く……」


 乾いた笑いが口元から漏れる。


「お前……」


 そうか、そうだったな。こいつはそういう奴だった。


「まぁ、あんたが、たまたまあれの存在に気づいた時点で、こうなることは決まっていたのかも知れないな。運が悪かったと思って諦めるさ」

「たまたまじゃない。あの日、あの時間、私があの場所にいたのは何者かが私に電話をかけてきたからだ。あの場所に向かえと……あれはお前だな孝之?」


 送信者不明の電話。いつもなら無視していたものだが、もうひとつ。

 チラリと、惚けた顔で宙に浮かぶ小妖精を見る。行ったほうがいいと騒いだ奴。このふたつが有希子に気まぐれを起こさせ、そしてあの場面に遭遇した。偶然ではない。いくつもの必然が重なってのこと。


 孝之の瞳を直視する。


 敵わないなと、あきらめ気味にタバコを投げ捨てると、孝之は靴の裏でその火を踏み消した。


「俺はあいつ――ひかりを気に入っている。当たり前だ。あいつが物心付く前から兄貴を演じてきたんだぜ。顔も知らない連中なんかよりよっぽど大切な存在だ。だから正直、あいつからメールを受け取ったときは焦ったぜ。谷口比呂人の自殺と共にHiroが長谷川椎子に働きかけていることはわかっていた。いやな予感がしたので、俺は俺が知る限りの最善の手をうった。ただ、それだけだ」

「最善の手か……だが、私があの子を救うとは限らないぞ?あの場に居合わせたとしても、無視するかも知れない。それは考えなかったのか?」

「いや、考えなかった。その場所に居合わせさえすればもう100パーセントだ。あんたは絶対にあいつを救う。あんたはそう言う奴だ。10年前のあの日からそれはもう確信に近い。どんなものより信頼のおける最強のカードだ」


 真摯な瞳。その瞳に曇りはない。それは兄の目だ。妹のことを思う兄の目。それはあの時から変わらない。


「そうだな……」


 もう、この男からは何も聞くことはできないだろう。


「ありがとう。孝之」







「行かせてしまってよかったの。有希子?」


 去っていく孝之の後姿を見送った後、神無が有希子に問いかけてきた。


「ああいい。あいつからはもうこれ以上は聞き出せないよ」


 それは10年前、有希子が初めて鬼を狩った時のことだ。大怪我をしながらも妹を抱きかかえ、必死でその身を守っていた男が居た。その男があの時の曇りのない瞳のまま今も妹を守っている。もう、これ以上の詰問は不要だ。


「ひとつだけ聞かせてほしい神無」

「なに?」

「あの時、彼女が、私の言うとおり、長谷川椎子の中のひとつを選んでいたらどうなった?」


 あの屋上での出来事。ひかりが有希子の前でやってのけたことは、自分の力をもはるかに超えたものだった。

 

 そこで見たもの、それを未だに正確に理解できたわけではない。あえて言うなら、あの時、無数の選択肢の群れは選択されないままに急速に収束していった。

 

 つまりは「」ように見えた。

 

 全く不可解な現象だ。だが、それだけにその意味するところは大きい。


「さぁ、どうなってたんだろうね?でももう、有希子もわかってるんじゃない?」

「そうだな。そうかもな……」


 そうだ。それは恐らく、「禍々しいもの」になっていただろう。人間は無数の可能性の集まりだ。その内のひとつを選ぶことなどできはしない。

 

 全くこれだから人生は面白い。


 世界はいつだって驚きに満ちている。


 空を見上げる。無数の星が夜空を照らす。そのひとつひとつが様々な時を刻み、そして時を超えて様々な色の煌めきを投げかけてくる。無限に続く空の織物。それは儚い人の一生のようにも見える。

 

 有希子は過ぎ去った遠い過去の光景を思い出す。


 先代神奈備の残して行ったもの。あの強さ、あの輝き、そして子供心に抱いた大きな憧れ。その想いは今も有希子の中にある。時が流れ、時代は変わり、周りの光景が変化し、記憶もまた色あせていく中で強く輝く魂の痕跡。それはずっと変わらない夢のようなものだ。


 そう。


 我々は夢と同じもので出来ている。

 

 だが、その夢は短い一生とともには終わらない。

 

 それは親から子へ、子から孫へ、友から友へと、ゆっくりと時間をかけて受け継がれていくもの。その永遠の夢の連環の中に我々は浮かんでいる。


「先代神奈備よ。あなたの見た夢は今、確かに私の中にある。だが、私はあの子にそれを伝えることができただろうか?」

 

 星は何も語らず静かに瞬き、ゆるゆると時を刻むだけだ。ゆるゆる、ゆるゆると……




 

 あれから1週間ほど経った週末のこと。


 あたしたちはみんなで一緒に街に遊びに来ていた。今はもう、あの忌々しい事件の面影は何処にもなく、あたしたちの生活はいつもの平穏を取り戻している。

 事件直後、世界中で様々なシステムの障害が報告されて一時、パニックになっていたけど、今はそれも収まっている。それがあの事件と関係があったのかどうかはよくわからない。多分関係ないだろう。

 

 しぃちゃんは、あの後さすがに少し元気がなかったけど、すぐに元気を取り戻した。美月も事件直後は、身体の調子があまり良くなかったらしく、暫く学校を休んでいた。でももう大丈夫のようだ。今はあたしたちと一緒にしっかりとした足取りで歩いている。

 今日は美月の快気祝いも兼ねて再びみんなで長谷川家に集まって夕食パーティーを行うことになっている。おばさんも今日は早く帰ってこれるということだ。


「良かった。美月さん、ちゃんと良くなって……」


 美月が学校に登校できるようになって一番喜んだのはしぃちゃんだった。あたしは、しぃちゃんが美月を心配するのは、自分のせいで美月が体調を崩したと思っているからだと思っていたのだが……


「アラ、椎子。美月って呼んでくれないのね?わかりました。仕方ありません。私もこれから、あなたを椎子とお呼びします」

「あーん、うそうそ、拗ねないでよぉ、美月ぃ」

「拗ねてなんていません」


 プイとそっぽを向く美月。


 ……どうもそうではないらしい。一体、あたしのいない間に何が起こったのか、このふたりはとても仲良くなった。今まで何となく感じていた距離というものがあまり感じられない。


 だけど、うん、前よりずっといいと思う。


「それにしてもさぁ、うーん、なんでかなぁ?いけると思ったのに」

「文化祭のこと?」

「そう。おっかしいなぁ」


 審査により、我が1Aはクラスの出し物の中では栄えある3位の称号を得ることに成功したのだが、ちひろはそれでも不満らしい。

 ちなみに1位は、演劇部顔負けのハムレットを上演した2B、2位は「宇宙の歴史」と銘打って、歴史的な宇宙観を描いた2C。あれは確かにすごかった。有希子さんも感心しまくりで「発案者には花丸をあげよう」などと飛び上らんばかりに喜んでいた。

 全体では、やはり映像研究会がコンピューター研究会と組んで作成したCGバリバリのSF映画が最も評価が高く、うちのクラスはランク外。美月は見事「ミス天野坂」に選ばれたものの、そんなもんでしょ。喫茶店でここまで出来れば上出来だ。

 

 ちなみにあたしは「可愛いかったで賞」という特別賞を受賞し、再びネコミミメイド姿で表彰台に立つ羽目に……とほほ。もうお嫁にいけません。


「まぁ何はともあれだ。ちゃんと約束は守ってもらうぞちひろ。少なくとも1年の間は、制服以外を着てくることは禁止だ」

「う、そ、それは……美月姉さーん。何とか言ってやってくださいよ~」

「約束は約束ですから。それとちひろさん。その美月姉さんというのもやめてくれませんか?私はここにいらっしゃる皆さんの誰よりも年下なのですよ。少し気分を害します」


「……」

「……」


 ……え?


 固まる空気。今日一番の驚きだ。


「何だ、知らなかったのか?美月の誕生日は12月24日。つまりクリスマスイブだ。だからまだ俺たちよりも一つ年下ということになる」

「……と、言うわけです。よろしくお願いします。ちひろお姉様☆」

「ああ~、それもまた地獄ですぅ!でも結構カイカンかも」


 お前、ずっとそこで悶えてろ。あとで埋めてやるから。


「そう言えば、今年の誕生日にも何か必要だな。去年はちょっと、どういうものがいいのかわからなかったが、今年は少し奮発するか」

「ふふ、期待していますよ。去年のような安物では許しませんからね」

「う、それは、ちょっとしたプレッシャーだな。さてどうしたものか……」


 宏樹の腕にその腕をからませる美月。


 そして、あたしに振り返りながら満面の笑みでVサイン。


 私の勝利です!とその目は語っていた。


 ちょっとだけ胸がチクリと痛む。ああそうか、多分そうだ。

 あたしは少しだけ、本当に少しだけだけど……


 宏樹のことが好きになっていたんだなぁと


「ふふーん、何やらタダならぬ気配を感じますね~」


 そして、ピピピと逆立つロクデナシレーダー。やっぱりこいつ埋めときますか。


 穏やかな時が流れていく。それはとても温かくて心地よい大切な時間。

 みんなの明るい笑顔を見ながら、あたしは思う。

 

 色々なことがあった。これからも色々なことがあるだろうけど、あたしたちはきっと一緒に歩いて行けると思う。辛いこともあるだろう。苦しいこともあるだろう。


 だけど焦らずにじっくりと、ゆっくり歩いて行こうと思う。


 ゆっくり、ゆっくりと……

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