第7話
結局谷口についての調査は何の進展もないまま、あたしたちは文化祭の準備に忙殺され、あの夜の出来事は何もなかったかのように忘れ去られていった。
有希子さんとの特訓も文化祭の準備のために中止されることも多くなっていき、ほとんど力の制御法を身につけることなく、忙しい日々が過ぎ去っていく。
しぃちゃんは元気を取り戻し、宏樹もあれからも全く変わる様子もなく美月に接している。ただ、あんなことを聞いたためか、あたしは以前のようにふたりを見ることができなくなってしまっていた。
優しくて美人の美月。そしてお似合いのふたり。当たり前のように感じていたものが、たったあれだけの言葉で随分色あせて見えようになってしまった。
笑う美月を見るとどうしても宏樹の言葉を思い出してしまう。そんなことはないとわかっていてもやはりその笑顔は以前とは違って見えた。
あたしはどうすればいいのだろう。
何も出来ないのだろうか。何かしてやれないのだろうか。あたしは……
それとも、これもまた、覚悟や思いだけではどうにもならないことなのだろうか。
ねぇ神無。
神無は何も答えずあたしの周りを漂っているだけだ。
TRRRRRRRRR……
内線電話の呼び出し音がする。これは兄――陽一郎が呼ぶ音だ。
明日は文化祭の初日。その為にもう少しやるべきことを整理したかったのだが仕方がない。
この兄には逆らえない。自分にとってそれは何よりも優先すべきものだ。
机の上に散乱したメモを綺麗に束ねると陽一郎の部屋に向かった。
ノックをして部屋に入ると、ハーブの匂いがした。今日のこれはラベンダーだろうか。この匂いはあまり好きになれない。
陽一郎は珍しく上機嫌だった。部屋に入るとすぐ、目で座るように促す。
テーブルを挟んで兄の対面に座り、その言葉を待った。
「プログラム……ですか?」
そうだ。と陽一郎は頷き、ドサリと、印刷した英語の文章の束をテーブルの上に置いた。表紙にはこう書かれている。
Electronic Human Being constructed with autopoietic architecture.
「あの後、Hiroという人物について調べてみたところ、海外の研究者のサイトに頻繁に書き込みを行なっていた人物にいきついた。その人物――Hiroの作ったプログラムがこれだ」
陽一郎は言う。このプログラムは、過去に自分が行なってきた発言の内容、発言パターンをデータベースに記憶していき、そのパターンと自分の持つ情報を元に他人との会話を自動的に作り出す。のみならず、他人の発言内容も収集し、その情報を取り込み、新たな発言に使用し、更にその発言を元に自己言及的に自分の発言パターンを生成する。
つまり、会話―収集―パターン生成―会話の循環を永久に繰り返す自律型のプログラムとのことだった。
「中には的外れな会話もあったようだが、それでもかなり精度の高いものだったらしい。ここには、約1年間もの間、そのプログラムと会話していることに気づかなかったという証言が書かれている」
そう言うと、陽一郎は下線を付与した部分を示して見せた。既にこの文章を読解してみせたのだろうか。
妹の目から見ても陽一郎はとても優秀な人間だった。3年生は受験で忙しい時期なのだが、兄にはその心配など何処にもない。それどころか、今も生徒会に強い影響力を持ち、文化祭にも顔を出している。その上で、短期間でこれだけのことを調べてみせる能力すら持っているのだ。
なるほど、谷口は本当に優秀なプログラマだったらしい。だが、それが本当ならば、兄の結論としては……
「Hiroという存在の背後には誰もいない……ということでしょうか?」
妹の回答に、陽一郎は満足げに頷いて見せた。
「恐らく、長谷川椎子にストーカー行為を働いている人間は存在しない。それは、電子ネットワーク上に存在する幽霊みたいなものだ。存在しない人間に対してはどうすることも出来ない。いやはや、厄介なストーカーに目を付けられたものだな」
人間の会話は複雑だ。言葉、表情、態度、それらの集合体として人間はコミュニケーションを行なう。だが、チャットのように文字を介したコミュニケーションはそれに比して単純だ。表情を表す顔文字すら文字に過ぎない。だからプログラム化も可能になる。
陽一郎は言う。今も空気中を電子となって幽霊達が彷徨っている。恐ろしいことだと……
確かに陽一郎の意見は筋が通っている。だが、それはあくまでネットストーカーとして捉えた場合だ。あの時に体験した不思議な現象はその理屈で説明できる類のものではない。
とは言え、何らかの関連があるようには思える。不確定要素は少ないに越したことはないだろう。
「お兄様、コンピューター研究会のサーバーですが、生徒会の権限で押収するわけにはいかないのでしょうか?」
兄は笑う。正解だったらしい。陽一郎はいつも妹を試す。だから妹はそれに応えなければならない。
「いいだろう。美月の頼みとあらばそうしよう。こちらとしても、厄介なウイルスに学校中のコンピューターが汚染されたとあってはたまらない」
「有難うございます」
軽く一礼すると、席を立った。もう少しゆっくりしていけばいいという兄の誘いだったが、まだやることがありますからと断った。
退出する時に背後から声が掛かる。
「あの連中と居るのは楽しいかい?美月」
これに対して倉橋美月は何と答えるべきなのだろうか……
「ご冗談を……」
「そうか、呼び止めて悪かったね」
「いえ……」
「おやすみ。美月……」
「おやすみなさいませ。お兄様」
軽く微笑んで一礼すると、今度こそ本当に兄の部屋を退出した。
部屋に戻る。そのままパタンとベッドの上に倒れこんだ。とても疲れた。今日はこのまま眠ってしまいたい。
ベッドの脇では安物の兎のぬいぐるみがずっとこちらを見ている。
本当に安物。価値にすればこれの数十倍のものだっていくらでも持っている。
だけどずっとそれはそこにある。
そっと抱き上げる。
どうしたらいいのだろう。
ひょっとしたら、あの時の彼女ように泣き叫んでみればうまくいくのだろうか。
そうすれば、その後……
――なんて少女趣味。そんなの絶対無理。倉橋美月には絶対できない。
抱えた兎を投げ捨て……ようとしたけれど、どうしてもできなかった。
情けない。本当に……とても惨めだ。
兎をギュッと抱きしめる。
わかっている。そんなことはあり得ない。倉橋美月はそんなことは決してしない。
そう。兄の言葉には逆らえない。逆らうつもりもない。それは今も昔も同じ……
ただ唯一、兄の言葉に逆らうものがあるとすれば、それはやはり……
窓の外には綺麗な月が出ている。今日の月は満月に近い。
月もまた、輝きたいものなのだ……
――椎子ちゃんへ、ゴメンなさい。今日も遅くなります。夕食代はいつものところに置いてありますから何処かで食べてください――
食卓の上に置かれた手紙を読み上げる。
まただ。またこんな紙切れ一枚で、全部済まそうとする。「ゴメンなさい」なんて言葉になんの意味もない。いやな文字。こんなの単なる社交辞令みたいなものだ。お父さんが居なくなってからいっつもそう。すぐに忙しいからって言い訳して!
――P.S.今度またひかりちゃんたちが来ることがありましたら是非言ってください。機会があったらまた昔のように、一緒に御飯を食べましょう――
クシャリ。丸めた紙を思いっきり投げ飛ばす。
どうしていつもひかりちゃん?そんなのどうでもいいじゃない。そんな理由がなくったって、一緒に御飯を食べることは出来るでしょ?何でそんなの必要なの?
――ひかりちゃんはいい子ね。
――椎子、ひかりちゃんを見習いなさい。
――ひかりちゃんは本当に強い子ね。
――ひかりちゃんは、ひかりちゃんは、ひかりちゃんは……
もういい。もう沢山。そんなのわかってるよ。ひかりちゃんは強い。いつも守ってくれる。本当に優しい。だけどね……わたしはひかりちゃんじゃないんだよ。お母さん。
あんな風には絶対になれないの!
だからわたしは……
携帯電話の音がする。そこはもう夢の世界。
そう。わたしだけの世界。
そこにはわたしを認めてくれる人がいる。
だから――
わたしは携帯電話を手に取った。
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