ゆっくりと歩こう
夢蜻蛉
プロローグ
それは夏休みが始まる少し前の出来事。
「事象の地平を見に行ってくる」
そう言い残してフラリと出かけた親父は、そのまま帰ってこなかった。
突然の失踪。それはまさに謎の失踪というやつだ。別に親父は多額の借金を抱えていたわけでもないし、何かの事件に巻き込まれた様子もなかった。なぜ突然失踪したのかは皆目見当も付かない。兄貴と一緒に親父の勤める大学や交友関係などを当たってみたが、すべて空振り。本当に誰も親父の行方を把握していなかった。
一体何が起こっているのかあたしにはサッパリだったが、とにかく困ったことになっているのは間違いないことだった。なにしろ我が家には母親が居ない。母親はあたしを生んですぐにこの世の住人ではなくなってしまっていたし、周りには力になってくれそうな親戚も居ない。
つまり残されたのは、社会人になったばかりの兄貴と、高校に入ったばかりのあたしだけということになる。
ただ、ひとつだけ朗報だったのは、親父が「何かあった時のため」と兄貴に預けていた通帳の金額が結構大きいらしく、少なくともあたしが高校を卒業するまでは、何とかなりそうだという話を兄貴から聞かされたことだった。
「心配するな。俺に任せとけ」
と強がっていた兄貴には悪いが、実のところ兄貴の安月給だけでこの先生活していくのは大変心もとないところだったから、これは有難いと言う他なかった。
しかし、親父は何処に行ってしまったのだろうか。普段からあまり心の内を明かすことのない親父だったが、流石に今回は極め付けだ。
ただ、何故だろう。あたしは自分でも驚くほど冷静に親父の失踪と言う事実を受け入れていた。別にそれは親父が嫌いだからとかそういうわけではなく、何となくだが、親父はずっとそうしたかったのかもしれない。そんなことを思ったわけだ。いや、我ながら薄情な子どもだとは思う。でもそう思ってしまったのだから仕方がない。
……と、ここで終わればそれはごくありふれてはいないものの、普通の話だったのだと思う。
実際、1週間もすると兄貴も普段の生活に戻っていき、あたしも普通に夏休みの宿題に追われるようになっていた。親父は普段から家を留守にすることが多かったこともあり、親父の居ない生活には慣れていたので、そこは普段とあまり変わりがない。薄情と言うなかれ、親父がどうあれ地球は回っていくものなのだ。
さて問題はここからだ。
ふと何かに呼ばれたような気がして親父の部屋の前で立ち止ったのは夏休みも終わりに近づいたある日のことだった。虫の知らせというやつだろうか、今から思えば悪魔の知らせだったのかもしれないが、とにかくあたしはその時立ち止まり、そして親父の部屋の扉が少しだけ開いているのに気が付いた。いや気が付いてしまった。
そっと扉を開けて中を覗き込んでみると、薄暗がりの中に親父が普段座っていた机がわずかに見えた。周りは本だらけでロクに片づけてもいない。
大学の教授である親父は、家にいるときは自分の部屋にこもっていることが多かったが、見ての通り整理整頓とは縁遠い人間であり、以前、あたしが綺麗に片づけたときなんか、憮然としてこう言ったものだった。
「整理と整頓は違う。分類は普遍化された記号に沿って為されるものだが、頭の構造はそうは出来ていない。むしろ分類により失われることの方が私には多いように見える」
難しいことを言っているようだが、要するに「あれはあれで何処に何があるのか把握しているのだから、勝手に片づけるな」と言っていたのだろう。
言葉より態度からそう読み取ったあたしは、親父の部屋を片付けることを放棄し、以来、親父の部屋は着実にエントロピーを増大し続けて今に至ったようだ。いやそれはもう、まさにカオス。凄い有様だった。きっと地震が起きたら真っ先に死亡記事に載るのが親父のような人間なのだと思う。
あたしが部屋の中に入ると、埃っぽい空気の中に古びた匂いが広がった。古本の匂い。これがあたしの記憶の中にある親父の匂いだった。
電気をつけてみる。やはり誰も居なかった。当たり前だ。行方不明だと思っていた親父が実は自室に閉じ込もっていただけだったなんてのは作り話の中だけにしてもらいたい。
もしそうなら親父の体は今頃、色々な意味で、たいそう香ばしい匂いを発しているはずだったが、幸いそれはなさそうだった。
などと、このとき、想像力をたくましくしたのには実はわけがあり、部屋に入ってからというもの、あたしはずっと違和感のようなものを感じていたのだ。
何か居る。だが、それが何なのかはわからない。漠然とした違和感が体に広がり、気味が悪くなってきた。ホラ、暗がりの中に何かいるような気がすることがあるだろう。あんな感じ。そのまま立ち去ればよかったものを、そうしなかったのは殆ど怖いもの見たさに近い。違和感の正体を確かめてみたくなっていたからだ。
かすかに風を感じ、本の山から何かがヒラリと落ちるのを見た。小さな白い紙きれがあたしの足もとに舞い降り、あたしの視線を導く。拾い上げて見ると、そこには、
「ひかりへ」
と小さくあたしの名前が書かれていた。
綺麗な文字だ。親父の文字じゃない。誰が書いたのか……
文字の下には、ゆるやかな線で描かれた複雑な模様があった。複雑に絡み合った空間を描いた不思議な図形。とても文字とは言えない代物だったが、何故かあたしにはそれがこう読みとれた。
「目を開きなさい」と、
刹那――
強烈なめまいがあたしを襲った。足場が不安定になり、何処に居るのか、何を見ているのかわからなくなる。立っていられなくなったあたしはその場にしゃがみ込んだ……らしい。らしいというのは、しばらくして現実の光景が戻ってきたときに立っていなかったことから推測したに過ぎない。まわりに何もなく、体中の感覚器官が失われたようなひどく不安定な空間(?)であたしの存在はぼやけ、漂っていく。やがてそれは収束し、現実の光景が戻ってきた。
どのくらいの時間が経過したのか全くわからなかったが、どうやらそれはほんの数秒の出来事だったようだった。
さて、あたしが戻ってきた現実は本当に現実だったのだろうか?
「大丈夫かい?」
くらくらする頭を押さえて立ち上がったあたしの前を小さな影がよぎった。
大きな黒い瞳を輝かせ、小悪魔のような笑みを閃かせたそいつは、あたしの頭上30センチくらいの位置に文字通り浮かんでいた。
「あんただれ?」と、思わずあたし。
「さぁ誰だろうね?」とそいつ。そして悪戯っ子のようにクスクスと笑う。
いや、これマジ?
普通、身の丈30センチくらいの小人が空中に浮かんでいたら、もうちょっと驚くものだろうが、その時のあたしは感覚そのものが相当麻痺していたらしい。何より体が重く、疲れ切っていたため、そのままフラつく足取りで親父の部屋を出て自室に戻ると、すぐさまベッドに倒れこみ、そのまま眠りについた。
妙な夢を見たがまぁいいか。なんて考えながら……
まぁ、これは言うまでもないことだろうが、
次の朝、目が覚めてもそいつはあたしの目の前にいた。
これから話すのは高校一年生の秋にあたし――喜多沢ひかりが体験した出来事である。信じるかどうかはあなたの勝手。視覚野のどこかに損傷を受けた人間はありもしない幻覚を見ることもあるという話を――これはある人に教わったわけだが、あたしが見ている光景はそういった類の幻覚なのかも知れないし、そうでないかも知れない。
ただ言えていることはあたしにとってはそれは紛れもない現実であり、これから話す馬鹿げた話はあたしの体験を元に何人かの共著者と共に書き綴ったものだということを添えてプロローグとしておこうと思う。
では開幕。存分にお楽しみあれ。
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