宇宙武装商船 明神丸

霊鷲山暁灰

序章 船出

世良田の御曹司

 波間に漂う椰子の実よ

 明日は我が身と煙草を一服

 海の男よ船乗りよ

 故郷のよすがは命一つ

 惜しんで何が悪いのか


 大昔のマドロス歌謡が携帯再生機から流れる。人工の光に輝く短い銀髪。袴姿の少年は、喉元のボタン一つで骨伝導スピーカーから再生される音楽を止めた。

 昨日、一つの時代が終わった。いくつかの小競り合いの末、帝亜共栄圏の盟主である惑星イズモが連盟の脱退を宣言。全盛期には二十の惑星国家から形成されていた大経済共同体は瓦解した。

 共同体と言いつつ、実体は軍事力に優越するイズモの植民地だ。危ういバランスを大財閥の経済力と各星が固有に保持する『魔法』の分業体制により保っていた相互依存主義グローバリズムの巨人は、民族自決主義ナショナリズムによって打ち倒された。

 イズモの走狗とも嘲される大財閥の一角、世良田家の嫡子、世良田元康は硬い床に寝転がる人物を睥睨する。

 白い樹脂フレームの眼鏡をかけた、長い髪の少年だった。古びて異臭を放つ宇宙ケルピー革のツナギは、およそ世良田の御召艦の乗員には相応しくない。例えその船旅が瓦解した帝亜共栄圏を捨てての亡命、逃避行だとしても。

「さて貴様」

 一言発したのは元康だった。十五の少年とも思えない、落ち着いた声。驕慢ではあるが決して卑賎ではない。若年にして貴人の風格を備えている。

「ここは救貧院でも職業安定所でもない。ハンガーノックで床に転がるような子供に粥やスープを与える用には適さない。食い詰めて他国に逃げ出そうとしていたのだか、星雲鴎の観察でもしようとしていたのだか知らんが、貴様の満足するようなものはここには無いだろう。つまるところ――ここがどこか、分かっているかね?」

 うつ伏せになった少年。

 より正確に言うなら、少年か少女かの判別は付かない。宇宙ケルピーの服は袖を端折る程度にサイズが合っていなく、脂ぎった長髪に半分隠れた顔は、意外にも男女どちらとも付かぬ秀麗さだった。

 世良田元康が何も入っていない筈の加圧倉庫に人気を感じ、この密航者を発見したのはつい先程。

 少年はびくりと痙攣一つ、淀んだ目で元康に答える。

「うぇ、へへへ……どこかなー?」

 卑屈――というよりは人前で笑うことそのものが苦手な雰囲気。不器用な笑みは、隠しようもなくあからさまにとぼけている。

「私は極めて親切で聡明なので答えて差し上げるが、宇宙船の中だ。我が父、世良田元清が所有する巨神ジャガンナート級宇宙船『明神丸』。――おや、信じ難いと言った表情だな。では隔壁を開いて絶対零度真空の宇宙に放擲してみようか」

「やめてやめて、そんな表情してないからさー」

 謎の少年は掠れて情けない声で懇願する。その背の、不釣り合いに長尺な散弾銃を揺らして。

「いい得物ではないか。今時木製の装薬銃とは随分な趣味をしている。犬小屋の釘打ちには良さそうだ」

 少年は旧時代的な手動装填式の散弾銃に手を伸ばし、黒々とした銃身をさする。

「うぇへへ、でしょー? ブッ放すと最高に気持ちいいんだよ」

「何に向かってブッ放すのかね?」

「世良田元清って人をね、ブッ殺せって言われてて。そんで宇宙船に忍び込んだんだけど行動食切らしちゃってさ。お兄さん持ってる食べ物分けてくれないかなー? オレ何でもするよ」

「よし、ではそのまま死ね」

 おそらくは父親の殺害を目的とした暗殺者を蹴飛ばし、銃を奪う。これまで宇宙選りすぐりの学者より学び、帝亜共栄圏はおろか、遠くハイリガー帝国の有力者とも面識を持ってきた元康にして、『足りない子』というものを始めて見た。

「これも良い経験だな」

 独り言。

 暗殺者は芋虫の様に床に転がり呻く。

「うぇええ……非道いなあ……」

「何処の差し金だ貴様。スワの革命防衛軍か、イズモの粛清隊の残党か」

 心当たりは両手両足の指を使っても足りないほどにある。イズモの力を背景に、世良田財閥は随分と好き勝手をやってきた。経済を独占し、格差を広げ、末端では表向きは禁止されている麻薬や奴隷の売買も行ってきた。

「え、差し金って……オレ言われたから……あの……言われたから来ただけで……」

 当人も良く分かってはいないらしい。

「少年兵の悲哀というわけか。何もわからず大人に命じられ、人殺ししか生きる術の無いままここまで来たのだね。同情するとも……船から出ていけ」

「お願いだよお兄さーん。食べ物だけでいいからさー」

 話が堂々巡りだ。無理矢理抱えて廃擲ハッチから宇宙空間に放り出すこともやぶさかではなかったが、どうにもこの少年は近寄りがたい臭いをしている。

「お兄さんではない。私は世良田元康だ。貴様の様に薄汚い弟を持った覚えはない」

 正妻愛人問わず、元清の子供は多くいるが、いずれも最上級の生活をしている筈だった。この先どうなるかは分からないが。

「弟でも妹でもないよ。オレ両性だからさ」

 両性、中性、単性――男女いずれでもない性別というものは、世の中に複数存在する。種族的な特性であったり、突然変異であったり。あるいは最初からそう設計された人造人間ということもあるが、純系ヒト族の世良田氏には一人たりともいない。

「オレはキサラギ。特技は銃を撃つこと。その銃以外だったら何でもあげるから、食べ物ちょーだい?」

「銃以外も何も、着の身着のままの貴様から受け取るものなどこの宇宙のどこにもないぞ」

「服……裸になるの恥ずかしいけど、服あげるよ」

 もじもじと、異臭を放つ革ツナギを脱ぎ始める。膨らんでいるのだか膨らんでいないのだかわからない胸と、浮いた肋骨が露になった。

「いらん」

 一言で切り捨てると、キサラギは魂が抜けたように五体を投げだした。

「だが、ただこちらの慈悲を乞うのではなく、同等の何かを差し出そうという姿勢は評価しよう。落ちぶれたりとはいえ世良田は商家だ。何かしら応じるものが無ければ名折れというものだろう」

 固形の棒状食を投げて渡した。人工的に作られた重力下、キサラギの眼前にチョコレート味の高カロリー食が転がる。

「うわ、マジでくれんの? ありがとう。こんなに親切にされたの初めてだよう」

 涙さえ流しながら食事を齧るキサラギ。哀れを誘う姿だが、世良田に徒成す暗殺者と言うことは忘れていない。

「満足したのなら――」

 営倉にでも入っていろと言いかけたところで、元康の動作が止まった。左腕に巻いた端末機が振動。何者かが通信の呼び出しを掛けているのだ。

「父上か。わざわざ管制室に呼びつけるとは、婉曲なことだ」

 キサラギを見た。相変わらず卑屈な目でこちらを見上げている。銃は奪った。危険度は少ないので放置することにする。



「来たか、元康。なんだその汚い子供は――まあいい」

 不必要な程の中綿が入った、光沢を放つ椅子に、世良田元清は座っている。一瞬、家禽の子供のように付いてきたキサラギに意識をやったが、取るに足らないものと判断し元康へ向き直す。軍人めいた髭に肥満体のこの男が、総資産数百兆両とも噂される世良田家の長だった。

 とはいえ、その資産は体制崩壊のごたごたでほとんど失い、確実に所持していると言えるのはこの明神丸ただ一隻のみと成り果てたが。

「知っての通り、状況は最悪だ。各惑星国家に貯め込んだ世良田の資産は全て凍結、没収。俺も十一の国から指名手配を受けて、捕まれば戦犯扱いで銃殺。そしてお前の母親はスワの大統領の情婦になってしまった」

「四面楚歌だね。どう切り抜ける、父上」

 当主が相手だろうと、元康は傲岸な態度を崩さない。

「持ち切れるだけの資産はこの明神丸に積んだ。ハイリガー帝国領に一時亡命して復讐の時を伺うのだ」

 復讐、と元康は反唱する。

「残った財産で余生を慎ましやかに過ごすという発想は、父上には無いようだ」

「当然だろう。政府の小虫どもが、誰のおかげで旨い汁が吸えたと思っているのか。恩知らず共には報いを与えてくれる」

 肌が白むほどに強く椅子の肘置きを握る元清。怒り心頭といった顔で、眼前の大型ディスプレイを睨んだ。

 星空。

 一面の光が視界を埋める。視覚化された宇宙空間が、艦の状態を示す数字類に囲まれて泰然と存在していた。

「艦長、手形は生きておるのだろうな」

 元清が呼びかけたのは、コンソールに向かっていた白い詰襟の男。明神丸の現艦長、十束である。一応は世良田商船の社員という扱いではあったが、封建的風土の根強い旧帝亜共栄圏においては家臣と呼んだ方が実情に沿っている。

「無論です、お屋形様。一回限りの限定交付ですが、関所ゲートの通過に問題はありません」

「それも百年物。我が祖父が入手したものが残っていて助かったわ」

 関所とは船舶用の空間跳躍装置。つまるところのワープゲートである。事象崩壊級の災害や宇宙戦争の拡大を防ぐため、特殊な許可を持つもの以外通すことの無い仕組みになっている。

「父上、一回限りの希少品を惜しげも無く使用するのは結構だが、帝亜共栄圏に戻る算段はあるのかね?」

「無い。だが何十年かかろうが必ず戻る。今さら故郷が惜しくなったか? 万里小路の娘とお前の婚姻も決まっていたからな」

「ただの政略結婚に情など湧かない。そもそも十に満たない幼女に執着するような趣味は私にはない」

 元康の許嫁にして華族万里小路の令嬢、万里小路荊は、現在九歳になる。テラフォーミング時点から惑星センゲンの有力者として名を連ねる一族で、世良田との婚約も政治的に大きな意味を持っていた。全ては御破算だろうが、悠久の宇宙史において未だ成金扱いの世良田と異なり、万里小路は高等遊民に近い身分だ。危害が及ぶかどうかは運次第だろう。

 このような状況にあっては、全てが運だった。公平さや正義というものは極めて気まぐれで、罪や裁きの大部分は偶然決定されるものであることを元康は知っている。

「情の無い奴だ。誰に似たやら」

 元清が不機嫌なのは常の事だった。彼が笑みを見せるのは、政府高官に断りようもない頼みごとをするときか、情婦の艶声を引き出したいときだけだろう。

「関所まであと何時間だ」

「二十時間です。しかし――」

「しかし?」

「事によると永久にたどり着けないでしょう」

 布を裂く音。純戦闘用の士官用ジャケットが水風船のように膨らみ、弾けた。十束艦長が変化し、現れたのは烏賊とヒトが混ざり合ったかのような怪物。かつて、人々が一つの星に住まう時代より脈々とその血を繋いできた海魔種族。その末裔が十束だった。

「変化魔法――! 十束、貴様俺を謀ったおったか!」

 元清が動いた。元清の左手に巻かれた端末は、元康らが持つ通常のそれより一回り大きい。

 詠符機カードリーダーの一体化したそれは、現代における魔法の杖である。

 だが、その機械は己の力を十全に発揮することなく停止した。持ち主の意識消失によって。

「ぐ!?」

 強化された槍の如き触腕が、世良田元清の腹部を深々と貫いていた。

「父上――!」

 元康の叫びより遅れて、管制室内に動揺が走る。

 謀叛か。

 当主様が殺された。

 管制室の人員に、武装は許されていない。ここは艦の中枢、攻め入られた時点で敵の勝ちになる。まして艦長自らが反乱の徒と化すなど、完全に想定外だった。

 管制官達は統率を失い我先にと逃げ出そうとする。しかし、その混乱は逃げ出す一人の叫び声により止まった。肉と革靴の焦げる悪臭が漂う。誰もがレーザー攻撃という解答に思い至り、動きを止めた。

 背部の自動扉よりぞろぞろと入室してきたのは、防弾、保温性に優れた宇宙ケルピー革の戦闘服を纏った、揃いの兵士ども。足を撃たれた同僚に血の気が失せ、数少ない世良田の臣たちは言われるままに床に這う。

 ただ一人だけ立ち、無表情で腕を組む元康が十束を詰めた。

「イズモの粛清隊か。解体されたと聞き及んでいたのだがな」

 それは帝亜共栄圏の盟主、イズモ帝国の暗部。諜報、破壊工作、暗殺を生業とする、統合軍直下の秘密部隊だった。

「良くお分かりに。父君よりよほど賢い。――ええ、解体されましたよ、若君。だからこそ、我々のような者共の居場所を作り直さねばならない」

「この明神丸を奪いゲリラ組織にでもなるつもりか」

「左様。お分かりかと存じますが、この明神丸には計り知れない価値がある。ハイリガーで腐るのは本領と言い難い。この船は、我々が頂戴する」

「させると、思うか」

「ふふ、ははは! ヒト族の小童一人に何が出来ますか。魔法一つ持たぬ分際で。身の程を知り、父君の後を追うがいいでしょう!」

 迫る触腕を、半身になって躱す。元康とて剣の心得は多少ある。格下と侮り、正中線を衒いもせずに狙う攻撃を、見切ることは可能だった。しかし、ヒトと魔という種族の優越。十四の少年と本職の戦闘者という格差はいかんともし難く、左腕に切り傷を受けた。

「訓練を受けた軍人でも、手傷を追えば息ぐらい飲むものを、毅然としておられる」

 元康の状態は十束の言う通り。ただで殺されるつもりはない。これが戦いならば、必ず皆殺しにしてやる。こちらに武器はある。先程キサラギから奪った散弾銃がそれだった。父の座っていた椅子を盾に取りつつ、次の手を瞬間的に考えていると、

「元康う、もう『それ』返してよう」

 耳に息がかかるような至近から声を掛けたものがいる。キサラギだった。ついこの管制室まで連れてきてしまったが、この両性の少年も粛清隊の仲間なのだろう。

 先程腹を減らして転がっていた者と同一とは思えぬ動作で、手傷を負った元康から銃をひったくる。否、ひったくるというよりは愛撫に近い。それだけ流麗な、殺気や拍子とは無縁の動きだった。

「キサラギ、貴様!」

 元康の叫びではない。十束艦長が、自らに銃口を向けるキサラギに対して発したものだった。

「もう元清って人は死んじゃったんでしょ? じゃ、オレが何撃ってもいいじゃん。一宿一飯の恩返させてよ、元康」

「裏切るのか! 打ち捨てられて資源的ドン詰りに陥った移民船より拾い上げてやった粛清隊を、裏切るのか!」

「うぇひひ、知らねえよ。この宇宙で生きられなかった負け犬どもが、ウジウジ喚くんじゃねえよ。分かんねえかな? あんたらもう終わってんだよ。クソみてえな組織の為に無駄な努力ご苦労さん。オレの的にでもなって死にな」

 鉄弦リュートのピッキングの様な素早さでトリガーを弾いた。撃針が雷管を叩き、古びた散弾銃から一発弾スラッグが射出される。

 だがそれは間一髪で阻まれた。世良田元清が使おうとして果たせなかった、魔法の力によって。

「キサラギ、父上は暗殺を警戒し、常に盾魔法を持ち歩いていた。その古めかしい銃では傷一つ付けられないぞ」

 十束が元清から奪った魔法。白い光の壁が、ひしゃげた鉛弾を固い床にかちりと落とす。

 魔法。

 かつては呪文を唱え、複雑な陣を描き行使していたと伝わる超常の術。今や、カードに封じられた術式に三重水素トリチウムでエネルギーを与えるだけで起動する、希少にして不可欠の技術である。

「若君のおっしゃる通り、魔法を軽々に個人所有できる程の財力が仇になったな。――おいキサラギ、さっきは随分と調子に乗ってくれたな。薄汚い裏切り者が」

「オレ汚くないよー。任務の前に身体だって拭いたもん。七日くらい前かな」

「貴様――!」

 キサラギの態度に激高した十束は、その触腕を光とともに射出する。盾魔法を全身に満たした攻防一体の一撃。通常兵器では太刀打ち不可能だ。

 それを――

 キサラギの銃弾が――

 貫いた――

 廃莢のコッキングが、甲高い音を響かせた。吐息とともにキサラギが呟く。

「“防御不能ふせぐことあたわず”」

 透ける烏賊肌により丸見えの脳を撃ち抜かれ、十束が後ろに倒れる。

「貫通魔法――! どこでそれを!」

 それが、父の仇、十束艦長の末期の言葉だった。銃床の下に突き刺さった黒いカードが、魔法の残滓である光の尾を引いてその暴力を主張する。

「ああ」

 キサラギの表情は最早一変している。頬を紅潮させ、粘つく唾液が犬歯から糸を垂らす。

「気持ちいい……!」

 両性の、当然の如く付いている男性の部分が、革ツナギをはち切れんばかりに押し上げていた。彼は、人を撃ち殺して欲情している。

「大尉がやられたぞ!」

「突入員五〇二二号が裏切った!」

「変態野郎が!」

 状況を受け止めた粛清隊の兵士が、銃口をキサラギに向けた。こちらは一般的なレーザー銃だ。ストッピングパワーには欠けるものの、光速無反動の攻撃はオーク族の分厚い肉体すら易々と貫通する。

 しかし、いかな光速とはいえ、狙いを定めてトリガーを引くまでにはコンマ数秒。キサラギは狼狽えて動けない管制官をするりと抜け、正面に突進。味方だった兵士の身を盾にした。躊躇う一瞬の間にも、キサラギの銃口は盾にした兵士の頭に向く。

 発砲。

 ホローポイントが頭蓋の内で潰れ、結果として兵士の後頭部から額に抜けた衝撃が赤いシャワーとなって正面に降り注ぐ。

「総員、物陰に伏せろ!」

 発砲音と合わせるように元康が叫んだ。明神丸の乗員は部下だ。無駄に命を失わせるわけにはいかない。発砲と同時という指示のタイミングが功を奏した。敵の注意が逸れた瞬間、全員無事にコンソールなどの影に入り込む。

 一方多勢に一騎駆けを挑んだキサラギは――虐殺の一言を実現した。



 魔法の様な手管で樹脂製実包を八発同時に装填。素早く全体を見渡すと、敵の全滅を確認し銃口を落とす。赤らんだ顔は恍惚を越え絶頂の域に達し、身からは垢とも違う異臭が漂っていた。

 部下に戦火が行かないよう注意を払い、加勢する暇も無かった元康が物陰から身を起こす。そちらに気づいたキサラギは荒い息で小さく手を振った。薄汚い密航者から一転、命の恩人となった両性に深々と頭を下げ、袴を叩いて向かうのは父の方だ。

 まだ息がある。

「……元康」

「気を確かに、父上。船医は既に呼んである」

「……ふ、間に合わんだろうな。俺はもう死ぬ。死なずとも、草木の如く命を繋ぐのは御免被る」

 現代の医術ならば、脳が活動を停止しようとも細胞を生かし続け、その身を半永久的に繋ぐことが可能だ。

 だが、元康にしてみても、そのような無粋極まる延命は断じて受け入れられるものではない。

「ではせめて、こちらの同意書に判を押して、私に家督を譲り渡してから身罷って欲しい」

「親の今際の際に同情するそぶりも見せんとそれか……。まあいい、俺がお前の立場でも同じことをしているだろうからな。世良田に残った全て、お前が持っていけ……!」

 世継ぎの備えとして携帯していた紙の同意書に、血まみれの掌で判を押す。これで帝亜共栄圏にその名を知られた大財閥、世良田の全ては元康のものとなった。

 とはいえ、今持っているものといえばこの明神丸とその積み荷が全てだったが。

「感謝する」

 元康は同意書を握りしめ、着物の胸元に血ごと塗りたくるようしまい込んだ。

「いいか元康、お前に継がせるものなど何一つないぞ」

「継がせるのではなく、くれてやるだけ。意思は誰にも預けられない。継がせられない。己の商いは――」

「己だけのもの。そういうことだ」

「世良田の家訓だな」

「知ってるではないか。末期の一息、無駄に使った。……ではこれで本当にお別れだ。小生意気な餓鬼が口程のものかどうか、草葉の陰から見とるぞ……。ああ、それにしても」

 血反吐と共に嘆息。それはおそらく、彼にして生涯初めての弱音。

「もう少しばかし生きたかったものだ……」

 世良田元清は息を引き取った。享年五十。世俗に塗れ、多くの恨みを買い、最期は部下と信じた男の手に掛ったが――元康はその人生に対し膝を付き頭を下げた。



「さて」

 元康が、前当主の眠る椅子から視線を動かし、管制室の一同を見渡す。その動作一つで、緊張が場を支配した。

「世良田家当主兼、明神丸船長の世良田元康だ」

 名乗る。己の、最新の肩書を。

「最初の命令を言い渡す。進路を変更し、惑星イツクシマへ向かえ」

 その言葉に、密航者であるキサラギを除いた全ての乗組員が狼狽えた。

「若――お屋形様、お言葉ですが、帝亜共栄圏内は既に我らにとって危険地帯。世良田の財産を没収せんと政府の手先どもが待ち構えております」

 白い制服、管制官の一人が遠慮がちに物申した。元康は部下の目を真っ直ぐ見つめ、朗々と返す。

「基本的な確認をする。我々は商人で、明神丸は宇宙船だ。移動し続け、商いをせねば存在意義が無い。そしてこの船は帝亜共栄圏の加盟星系以外は自由に航行できない。これ以上の説明が必要か?」

「……」

「異議は無いと見做す。――我ら尻の毛までも焼け落ちた素寒貧。裸一貫の油売り。ならば方針は一つ、一旗揚げるぞ……!」

 その宣言は、形容しがたい説得力となって総員を刮目させた。

 状況は船内全域に映像付きで知らせるようにしてある。世良田に付き従う数少ない社員一同、全盛期に比すれば百万分の一にまで減った彼らの人心を、この一時のみで掌握した。

 ただ一人の部外者、両性の少年は所在なさげに元康と社員を見比べている。

「キサラギ」

 元康が呼びかけた。

「うぇ!?」

 裏返った声でびくりと跳ねる。

「貴様にも世良田商会の一員になって欲しい。福利厚生は充実、安定の終身雇用を保証しよう。無理にとは言うが」

「無理にとは言うんだ……」

「行く当てでもあるのか、貴様」

「ありませえん! 雇って下さあい!」

 物騒な銃器をかき抱いて涙目になる。さっきまでの冷酷な兵士の姿は幻のようだった。

 元康が歩み寄り、キサラギに手を伸ばす。指先で遠慮がちに触れてきた掌を、躊躇わずに取った。絹のように白いが、固く、柳のように細いが、力強い――両性の矛盾を体現するような手を握り、契約は成立した。

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