2 あなたはすべてを手にしている

 譜久村美羽音は目を覚ました。

 あたたかな雲の上で、ずいぶんと長い眠りに就いていたような気分だった。

 もう少し、布団の中でうずくまっていよう。そう思い寝返りをうったが、枕元のうさぎに小言を言われ、仕方なく、美羽音は起き上がることにした。

「ふわぁ……」

 小さな欠伸とともに、うんと伸びをして、ようやくベッドから下り立った。

 カーテンを引き、窓を開ける。心が洗われるような澄みきった青空と、胸を高鳴らせる愛らしい町並みが広がっている。

 ああ————。

 いつもと変わらない風景が、美羽音の瞳に、いつものように、新鮮に映った。

 今日もすてきなことが起こりそう!

 身支度をひと通り済ませると、美羽音はドレッサーの前に座り、長い髪を梳かした。

 頭の高い位置にツインテールを作ると、鏡の前に並んだ小物類の中から、髪飾りを選び始めた。美羽音の指が、五線譜や、音符の形をしたヘアピンの上を、行ったり来たりした。

「もう、そんなに急かさないでよう」

 後ろのスツールで待つ、まさゆきに向かって、美羽音は唇をとがらせながら言った。それからようやく、ヘアピンの一つを手に取った。

「決めた。今日はこれにする」

 美羽音は髪の結び目の近くに、『mf』の形をしたスモールピンをいくつか挿した。

「ね。今日もすてきでしょ?」

 美羽音はぱっと振り向いた。まさゆきはスツールの上に座っていた。

 美羽音は頰をふくらませた。

「もう、いじわるなんだから」

 美羽音は立ち上がると、まさゆきを肩に乗せ、羽の飾りがついたバックパックと、紐つきのポーチを身につけた。それから、もう一度鏡に向かい、お祈りをしてから部屋を出た。

 階段をかけ上がり、八階のサンルームへ向かった。

 丁度、階段を上り終えたところでエレベーターのドアが開き、一人の小柄な少女が降りてきた。

「四葉ちゃん!」

 飛びつくような勢いで、美羽音はエレベーターへかけ寄った。

「美羽音ちゃん」

 幸坂こうさか四葉よつばは事もなげな表情で美羽音の方を見た。

 黒髪を、美しく整ったお団子つきのツインテールにし、小さな薄型のランドセルを背負って、凛とした佇まいで立っている。

「帰ってたの?」

 興奮気味に、美羽音はたずねた。

「うん。昨日の夜に」

 静かに、四葉は答えた。

「声かけてくれればよかったのに」

「夜中だったし。美羽音ちゃん、いつも九時には寝ちゃうでしょ?」

「あ、そ、そうだった……」

 口をぽかんとさせながら、美羽音は昨晩の自身の行動を思い返しはじめた。

 それを置いて、四葉はサンルームに向かっていった。美羽音ははっとして、追いかけるようにそのあとに続いた。


「おはようございます」

 サンルームに入ると、キッチンの方から、成願寺星来が声をかけた。

「おはよう」

 テーブルを取り囲むソファの一角で、悠然と紅茶を飲みながら、工藤律子は言った。

「おはよ」

 ソファのもう一方で、ティースタンドにのったマフィンを選び取りながら、鈴掛萌榴は言った。

 四葉と美羽音は入り口のそばの棚に荷物を置き、ソファへ向かった。

 サンルームには心地よい朝陽が差し込むと同時に、ゆったりとした空気が流れていた。

「える君と矢弦ちゃんは、もう行っちゃったの?」

 ソファに座ると、美羽音は誰ともなくたずねた。

「とっく」

 大きなカフェオレボウルを持ち上げながら、萌榴が返した。

「お二人とも、昨晩は早くにおやすみになられて」

 美羽音の前に黒ごまラテを置きながら、星来が言った。「今朝の三時には、お出かけになられましたわ」

「え? 星来ちゃん、お見送りしたの?」驚いて、美羽音は言った。

「え、いえ……」

 困惑したようすで、星来は答えた。「わたくしは、たまたま早くに目が覚めてしまって……」

「うっそね」

 ハーブティーを飲みながら、すばやく、四葉が言った。「朝食、渡したかったんでしょ?」

「そうなの? 星来ちゃん」

 美羽音が聞いた。星来は、気恥ずかしそうにトレイを抱いていた。

「星来ちゃん、ほんと世話焼きなんだから」

 四葉は言った。「矢弦なんて、ほっといたって食べ物奪って生き延びるでしょ」

「そんな……四葉さんったら……」

 星来は頰に手を添え、小さく目を見張った。

「萌苺は今日も遅いのね」

 腕時計をちらりと見て、ため息混じりに律子が言った。

「うん。爆睡してたから置いてきた」

 指先をぺろりと舐めとって、萌榴は言った。

「萌苺ちゃん最近、起きてくるの遅いよね」

 美羽音は言った。「前は萌榴ちゃんと一緒に、一番にサンルームに来てたのに」

「ゲームだよ、ゲーム」

 呆れたように、萌榴は言った。

「ゲーム?」

SIRエス・アイ・アールっていうオンラインの戦争ゲー。ロングスリーパーの癖に毎晩遅くまでやってんの」

 言いながら、萌榴はスマホを手に取った。「全然。返事もないし。まだ寝てる」

「おふとんさん、気持ちいいもんね」

 今朝のぬくもりを思い返しながら、美羽音は黒ごまラテを口にした。

「そういえば撮影はどうだったの、四葉」律子が聞いた。

「素敵なホテルだったわ」

 惚れ惚れとしたようすで、四葉は話した。「緑に囲まれて、空気は澄んでいて、夜は星が綺麗で。本当に、マカロニ・エンジェルのイメージにぴったりの場所だった。それにね」

 四葉は小さな口元をきゅっと結んで微笑んだ。「休憩中に、四葉のクローバーを見つけたの」

「まあ」星来は小さく感嘆した。

「あなた昔からほんとに四葉のクローバー見つけるの得意よね」律子は言った。

「それ、見つけたらどうするの?」

 不思議そうに、美羽音は聞いた。「お守りにするの? しおりにするの?」

「ううん。どうもしないけど」

 きょとんとなって、四葉は答えた。

「え?」

「四葉さん、クローバーは摘まない主義なんですよね?」星来が言った。

「え、なんで?」困惑しながら、美羽音は言った。

「他の誰かの幸せだから」

 凛とした佇まいでハーブティーを飲みながら、四葉は言った。「私はもう充分だから。他の誰かが見つけて、幸せになってくれる方がいい」

「ふわぁ……」

 美羽音は思わずもらしていた。

 律子と星来も、感心したようすで微笑んでいた。萌榴は四葉をじろりと見ながら、カフェオレを飲んでいた。

「あ、そうだ」

 急に思い出したようすで、四葉は言った。「お土産、部屋に忘れてきちゃった」

 四葉はカップを置いて立ち上がった。

「ちょっと取ってくるね」

 四葉は入り口の棚の方へ向かうと、バッグの中から鍵を取り出し、サンルームを出ていった。

 丁度同じとき、律子のスマホが鳴った。

「おはようございます、工藤です。はい、はい————」

 話しながら、律子も部屋を出ていった。

「あたしも」

 タイミングを見計らったようすで、萌榴はソファから飛び上がった。「いい加減起こしてくる」

 萌榴は棚に置いたサークル型のバックパックから鍵を探り出し、部屋を出ていった。

 いっそう静かになったサンルームで、美羽音はラテを飲みながら、ぼんやりとソファの端っこを見つめた。

「淋しいですわね」

 微笑みを向けながら、星来が言った。

 美羽音はどきりとして、星来の方を見た。美羽音の心の内を見透かすように、星来は続けた。「理比人さんが、いなくなられて……」

「うん……」

 カップを手にしたまま、不機嫌にも見える、曇った表情で、美羽音はうつむいた。

「理比人君、て————」

 ぽつりぽつりと、呟くように、美羽音は話した。

「あんまり、おしゃべりじゃなかったし、ここに集まっても、いつもソファの隅っこでにこにこしてるだけだったけど————でも————。同じ空間にいてくれると、すごくほっとした」

 星来は、穏やかな笑みを浮かべながら耳を傾けていた。

「前に、理比人君と二人で撮影をしたことがあったでしょ? 私、あの時すごく緊張してて————。理比人君もマカロニエンジェルに入ったばっかりで、どうしていいか分からないことだらけだったみたいで。待ち時間も、全然会話が弾まなかった。けど、理比人君、私のこと見て、照れくさそうに笑ったの。私、それだけで、すごくほっとした。『緊張するね』『分からないね』『どうしようか』って————。言葉はないけど、そんな張りつめた状況を、『楽しめたらいいよね』って、言ってくれてるみたいだったの。そのあとの撮影は気持ちも吹っ切れて、本当に、すごく楽しめた。矢弦ちゃんとふざけてるときの〝楽しさ〟とはちがう、もっと、穏やかな〝楽しさ〟で————」

 星来は優しく頷いていた。

「よく分かりますわ。わたくしも、理比人さんが初めてここへいらっしゃったとき、わたくしたちの中に、ある種の、大事な要素が加わったように感じられました。ここにいる方々は、みなさん、心優しく、気持ちの穏やかな方ばかりでしょう? 特にえるさんの持つ思い遣りや、包容力は、みなさんにとても大きな安心感を与えてくれていると思います。一方で、理比人さんが周囲に与える安心感というのは、もっと堅固で、地上から、わたくしたちを支えてくれているような————。えるさんが持つものとは正反対の、力強いもののように感じましたわ。ですから————」

 星来は少し、寂しげな表情を浮かべた。

「そういった大きな存在を失ってしまうというのは、心を大きく欠かれたようで、受け入れるまでに、とても時間がかかりますわね」

「また、会いにきてくれるよね?」

 涙目なった顔を上げ、美羽音は言った。

「ええ、きっと」

 星来は微笑んだ。

 どんなときも変わらない、その、穏やかな微笑みに、美羽音はほっと、心が安らいだ。


 しばらくして、小さな緑色の紙袋をいくつも手にした四葉が戻ってきた。

 少しして、電話を終えた律子が、続いて萌榴が、まだ眠たげな萌苺を背中にもたれさせながらやって来た。

 萌苺はバックパックを棚に突っ込むと、ソファにうずくまるようにして座った。

 四葉は紙袋をそれぞれに配った。撮影場所の近くのコスメショップで購入したという、入浴剤やボディクリーム、ヘアオイルなどが入っていた。

「そういえばあなたたち」

 紙袋の口をつまみながら、律子は萌榴と萌苺の方を見た。「『おはなし会』で渡すプレゼントのこと、ちゃんと考えてるの?」

「あー。あれねー」

 萌苺は寝ぼけ眼でイチゴオレを飲んでいた。

「あたしたち、プレゼントの抽選、やめることにしたの」

 ソファにだらりと座りながら、萌榴が言った。

「なんで?」美羽音は聞いた。

「ファンの子たち、喜んでくれるよ?」四葉も言った。「私物とか、サイン入りのグッズとか」

「うん。プレゼントは、ちゃんと渡すよ」

 萌苺はティースタンドのビスコッティを選んでいた。

「でも、抽選で何名様限定————みたいなのは、やめることにしたの」萌榴が言った。「どうせ渡すなら、来てくれたみんなに、同じ物、平等にプレゼントしたい。抽選に落ちちゃった子が、可哀想だから」

 その場が、しんと静まった。

「いーよね?」

 あどけない表情で、萌苺は律子の顔を見た。

「ええ」

 律子は優しいまなざしを向けた。「あなたたちが、そう思うなら」

 ボウルを空にすると、萌榴と萌苺は同時にソファから飛び上がった。

「じゃね」

「さらば」

 二人は、赤い果実が二粒並んだようなデザインのキーホルダーがついた揃いのバックパックを背に、サンルームを出ていった。

「わ、私も」

 美羽音は勢いよく立ち上がった。「おさんぽ行ってくるね」

 美羽音は扉の方へ向かうと、棚から羽つきのバックパックを手に取った。

「いってらっしゃい」律子は言った。

「お気をつけて」星来は言った。

 ティーカップをひざに置いた四葉は、力強いまなざしで、サンルームを出てゆく美羽音の背中を見つめていた。

 雛町の住宅街の、人けのない道路で、白い羽を手にした市井いちい明日見あすみの死体が発見されたのは、それから数時間後のことだった。

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