第40話 初めての客にはトマトぶっかけ素麵・下

 明治三十九年の盛り蕎麦の代金が、二銭五厘。駅弁の価格が十二銭から十五銭程度。素麺と小鉢の代金をどうしようかとりんさんに視線を向けると、彼女は理解したかのように俺の耳口元を寄せると囁いた。

「代金で迷っているのかい? なら、めん類の日は四銭前後でどうだい? 牛や豚なんかの日は、価格を変えればいいさ。後でゆっくり考えようよ」

 りんさんの言葉に、俺はとりあえず彼女に頷いた。そうして代金を払おうとした彼らに、俺は緊張しながら言葉をかけた。

「一人前は、四銭五厘です」

「そんなに安くていいのかい?」

 口髭の男の人は、心配そうに俺に尋ねた。茶色のスーツの男性も同様の表情を浮かべた。

「野菜のほとんどは、畑で育てています。今日の料理には、これで十分です」

 俺が慌ててそう返事をすると、二人は顔を見合わせた。

「では、二人で九銭だ――お釣りはいらないよ。そして、これは初めましての挨拶だ」

 口髭の男性は、財布から十銭硬貨を二枚取り出して、俺の手に握らせた。

「こんな! もらいすぎです!」

 俺は慌てた。野菜も素麺も、ほとんど材料費はかかっていないからだ。しかし客の男性二人は、優しく微笑んだままだ。

「薬研会長の言葉が、今、よくわかったよ。君は、料理の才能がある。いずれ店を出すときに役立つよう、貯めておくといいよ。応援している」

 二人が出ていくと、りんさんとしのが「ありがとうございました!」と、入り口で見送った。


 俺は長屋のみんなと話していて、初めての客の話をしていた。俺たちは少し興奮していて、源三さんはそんな俺たちを優しく眺めて話を聞いていた。松さん夫婦も、自分たちの事のように喜んでくれた。


「これから、お客が来たら材料費に合わせた会計をして、それを貯めておこう。勿論、三等分して、ひと月で材料費を抜いた分を俺たちの給金として分け合わないか?」

「あたしはいらないよ。恭ちゃんたちが将来開く店の資金にしな」

 りんさんは断ったが、俺としのは納得しなかった。みんなで協力しているわけだから、平等に分け合うのが筋だ。

「あんたたちは、本当にいい子だね。ありがとうよ、なら遠慮なくいただくね。これから客が来るように、宣伝もしなくちゃ」

 そう言って、りんさんは俺としのの頭を撫でて嬉しそうに笑顔を浮かべていた。


 俺たちは話し合い、麺類、肉料理定食、魚定食を定番定食にした。肉や魚は、その日によって内容が違う。その中から何をするかを決めてもらい、提供することになった。麺類はお稲荷さんと漬け物を付けて、五銭とすることにした。肉料理は牛や豚、鳥などで値段が変わるので八銭から十銭。魚料理も、その日の仕入れによって六銭から八銭にすることにした。季節に合わせて、献立を変更することにした。こちらで料理に使う素材は、薬研製薬を経由せずに仕入れることにした。

 俺が馬に蹴られた時に、薬研製薬の社長から貰った二十円のうち、おっかさんに一円を借りることにした。おっかさんは「あんたが体を張って稼いだ金だから、返さなくていいよ」と言ってくれたが、俺は必ず返すことにした。


 俺は昼には、最初のお客から貰ったお金で白い大きな木綿の布を買うと『めしや』を辰子先生に描いてもらった。それを、看板代わりにする。薬研製薬の人たちや来てくれた人たちが宣伝をしてくれて、初めての客から二か月ほどで一日十組くらいは店に来てくれるようになった。


 魚を売る店はもともと仲良かったが肉を売る店とも馴染みになって、急に買いに行っても快く分けてくれた。定食のメニューも俺が考えて、レシピは同じように壁に貼って誰もが作れるようにした。

 毎日三人で行動するから、俺たちは息が合う動きができた。しかしそれでも配膳が大変な時が出来てきた。そんな時は、おっかさんが薄化粧で店に現れて手伝ってくれた。おっかさんが店に出ると客が盛り上がり、それでまた客が増えるのだ。


「おいしいね、これ。これは、洋食風の和食なんだ。恭介もしのちゃんも、頑張ってるんだね」

 もう夏も終わりのころ。かよが店にやってきた。その日は初めての客と同じで、トマトのぶっかけ素麺を出した日だった。かよは少し痩せていた。勉強が大変らしい。この時代に女医になることは、本当に大変なことだろう。気の強いかよでも、少し落ち込んでいるように見えた。

「兄ちゃんが、頑張ってくれているからあたしも頑張ってるんだ。かよちゃんも、頑張って! きっと、ふみちゃんも頑張っているよ」

 しのの言葉に、かよはじっとしのの顔を見て、それから優しく微笑んだ。そうして、トマトぶっかけ素麺を平らげて、お稲荷さんと漬け物もしっかり食べた。

「また来るね。元気がなくなったときには、二人の顔を見に来るよ。私が女医になるのが早いか、二人がお店を出すのが早いか、競争だからね!」

 来た時と違い、かよは昔の懐かしい顔になって帰っていった。


「そろそろ、秋になるね。これも、もう来年までお預けかな」

 かよの食器を下げて、しのはしみじみと呟いた。もう夏野菜も終わりか。畑仕事も、秋から冬にかけてのものの手入れに入っていく時期だ。


 尊さんからもらった懐中時計を取り出し、昼の時間が終わるのを確認すると俺は昼の定食の張り紙を外し、『めしや』と書かれた幕も直した。これから、少し休んで夜の食事の料理の仕込みをする。


 俺は料理人――料理人兼店主として、少しずつ成長してきたかもしれない。

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