第21話 鰯のつみれ汁と大事件!・中

「大変だよ! 誰か! 誰か来ておくれ!」

 昼飯を食べ終わって洗い物や洗濯をしていると、急に大きな悲鳴に近い声が上がった。俺としのが慌ててその声の方に行くと、向かいの長屋の真ん中の玄関が開いてその前に女の人いた。慌てたように辺りを見渡して、助けを求める声を上げていた。

「どうしたの?」

 まつさん夫婦や源三さんは、昼休みが終わって自分の店に戻っている。おっかさんは、仕事の準備中だ。向かいのこの三軒長屋に居るのは――確か小説家の高藤たかとう虎二とらじさんと、活動弁士の間宮まみや勝吉かつきちさんと奥さんのりんさん。美人画絵師の宇崎うざき龍弦斎りゅうげんさいさんのはず。

 しのが声をかけたのは、二十代前半くらい――おっかさんより少し若い、まだあどけない顔の細めの女性だった。よく長屋の前で見る顔だが、ここの誰かの許に通って来てる人なんだろうか? その女性が、開いている真ん中の部屋の中を指差した。

「大きな音がして見に来たら、高藤さんが……」

 その言葉で部屋を覗いてみると、着物姿で四十代手前の細面の男性が玄関に凭れるように倒れていた。俺は慌てて駆け寄り、息があるか確認した。大丈夫だ、規則正しい息を繰り返している。しかし――ぐぅぐぅと何かの音が聞こえる――何の音だ?

「高藤さん、どうしたんですか?」

「――が、……」

 俺がそう声をかけると、力なく高藤さんが声を漏らした。

「え? もう一度言ってください」


「……腹、が……減って、目が回る……」



「いやぁ、本当にすまん!」

 高藤さんの家のちゃぶ台には、俺が慌てて作ったうどんと麦飯と糠漬けが並んでいる。高藤さんは、かきこむようにまだ熱いうどんをすすっていた。急いで作れるもの、と思いうどんを用意したのだ。しかしそれだけでは足りないと思って、麦飯も用意した。具なしでは申し訳なかったので、うどんには卵と葱と蒲鉾を入れてある。

「あの、これ……」

 女性が、戸惑ったように自分の前に置かれた温かなうどんが入った椀と俺を見比べた。高藤さんのうどんを作る時、一緒に作ったのだ。

「――失礼ですけど……あなたも、あまり十分に食事されていないような気がして……」

 細すぎる身体に、栄養不足気味の様な筋が入った爪。余計な事かもしれなかったが、俺はこの女性の事も心配していた。

「龍ちゃん、折角なんだから頂きなよ」

 高藤さんがそう声をかけると、龍ちゃんと呼ばれた女性はゴクリと喉を鳴らしてからぺこりと頭を下げて箸を手にした。そうして、ゆっくりだが噛み締めるようにうどんを食べ始めた。

「坊主たちは、向かいの――さよさんの子供だったな?」

 うどんを平らげて少し落ち着いたのか、麦飯をうどんの残りの汁に入れながら高藤さんがそう声をかけてきた。

「そうだよ。あたしがしので、うどんを作ったのがお兄ちゃんの恭介!」

 しのが元気よくそう声を上げると、高藤さんも龍さんも僅かに瞳を細めて温かな笑顔で頷いた。

「あまり顔を合わす事が無かったな。俺は、こっち側の長屋の真ん中の家に住んでいる、高藤虎二だ。小説を書いてるんだが、最近少し人気が出て忙しくなってな。それで夢中で書いてて、飯を食う暇がなかったんだ。ようやく限界だって気が付いて飯を食いに行こうとして、目が回って玄関で倒れちまったって訳だ」

 恥ずかしそうに笑いながら、高藤さんはそう言った。女性にモテそうな甘い顔立ちと、人の懐に入りやすい甘え上手な性格のようだ。

「あたしは、長屋の奥の家……高藤さんの隣の宇崎辰子たつこだよ。龍弦斎って名前で、絵を描いてるんだ――有難う、温かい食事は久しぶりに食べたよ。とても美味しかった」

「なあ、美味かった! 坊主はすごいな! 俺達みたいな生活をしていると、こんな料理上手な子供がいてくれると助かるのにな」

 うどんでここまで褒められるとは思わなかったが、それよりも俺としのが驚いた事がある。龍弦斎、といういかつい名前から気難しそうな男の年寄りを想像していた。

「え!? 龍弦斎先生は、女の人だったの?」

 しのがそう辰子さんに話しかけると、彼女は少し困った顔で笑い返した。

「長屋の皆は知ってるけど、他の人には内緒にしてておくれ。女が描いた絵だと分かると、安くなっちまうんだ」


 そうか、いくら西洋文化が入ってきて文明開化だと謳われていても、まだ男尊女卑が強く残っているのだろう。俺が「絶対に言わない」と言うと、辰子さんはほっとした顔になった。


「あたしも描きだすと食事は後回しになるんだよ。それに作る時間もないし、一人分を作るのはかえって高くなるだろう? 外で食べるのも面倒だし……生活する分には困らないくらいには稼いでいるけど、使用人を雇うほどはねぇ。お金は大事にしたい」

 辰子さんの言葉は、最もだ。冷蔵庫のないこの時代、一人分を作ると余る食材の保管に困るだろう。今は冬だからまだいいが、夏場は直ぐに腐る。それに、この長屋を出て行かなければいけないなら、新しい家の家賃は高くなるかもしれない。おっかさんもそうだが、絵師や小説家はみたいに決まった収入が約束されていないと、いつ稼げなくなるか分からない。そうなると、無駄遣いはしたくないのだろう。

「高藤さんと辰子さんの食事を一緒に作ったら、食費はきっと安くなるけど……どちらも作る時間がないんだよね」

 しのの言葉に、二人は顔を見合わせて困った顔で頷いた。

「大家も、自分で新しい家探せっていうけれど……難しいんだよねぇ」

「出来たら、この長屋の皆が一緒の所に引っ越しできたらいいのに。忙しい時は、あたし達が一緒に二人の分を、作ってあげられるのに」

 辰子さんとしのがそんな話をしていて、その隣で高藤さんはうどんの汁に漬けた麦飯を食べ終えていた。


 ダメ元で、やってみよう。

 俺は立ち退きの話を聞いてから、ある考えを思い付いていた。勝手な願いだし、向こうには得になるか分からない。


 でも。ダメでも、やってみないと結果は分からない。現代の祖母ちゃんの言葉を思い出していた。


 実行する前に、諦めるな。

 俺は、長屋の皆の為に頑張ってみようと腹を決めた。

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