第19話 めでたい誕生日に美味しいカツレツを・下

「ただいまー!」

 次の日。俺はしのの手を引っ張り、いつもより足早に帰って来た。おっかさんは起きたばかりのようで、眠そうな声で「おかえり」と言ってくれた。俺は昨日からウキウキとしていて、尋常小学校で授業を受けていても、料理の事で頭一杯だった。

「兄ちゃん、豚肉は逃げないよ」

 呆れた顔のしのにそう言われても、俺は嬉しくてたまらない。昨日、薬研家から届いたのは、豚肉の塊だった。しかも、ヒレ肉の部位。ロース肉の方が、脂が多くて美味しいかもしれない。だが、一緒に食事をするのが朝ごはんになる様なおっかさんや、肉を食べ慣れていないしのにはあまり脂っこくないこの部位が最適だ。

 何を作ろうかずっと考えていて夜寝るのが遅くなったが、俺は先生に借りた本に載っていた「豚のカツレツ」をその本の通りに作ってみようと思ったのだ。俺が知っている現代風ではなく、当時の味を知るのも必要だな、と思ったからだ。まあ、俺の性格上多少はアレンジするだろう。


 しかし。貰った豚肉の塊は、俺達の分にしては多すぎる様な気がする――もしかして、あの人も来るのかもしれない。俺は、そう予想して四人分作る事にした。

 早速、昨日おっかさんに買って貰った三徳包丁を取り出す。研がずにすぐ使えると聞いていたので、洗って寒い所に置いていた豚肉を取り出した。

「しの、買い物に行ってくれないか? それで、帰ってきたら豆腐の味噌汁作ってくれ」

「いいよ! 何買ってきたらいいの?」

 しのは、腰が軽く俺の頼みは嫌と言わず積極的に手伝ってくれる。本当に有り難い、賢い妹だ。今朝は昨日の残りの一番出汁で蕎麦を食べたので、味噌汁を作っていなかった。

「浜松商店で、ウスターソースと赤茄子とまとソース、牛乳とバタ。隣の豆腐屋で、木綿豆腐一丁を頼む」

「まつさんに言ったら出してくれるよね、行ってきます!」

 俺から代金を受け取ると、しのは元気よく豆腐を入れる小さい鍋を手に下駄を鳴らして表通りに走って行った。俺はかまどに火を点けて、井戸から水を汲んで来る。それからその水を鍋に入れて、馬鈴薯じゃがいもを三個ほど茹でた。

 下ごしらえを済ますと、早速大きな豚肉を切った。買って貰った包丁はすっと軽く切れて、ガタガタの切れ方をしない。うん、刃物の町である大阪のさかいのものらしく、良い包丁だ。そのまま塩コショウを振り、メリケン粉につける。本当ならチーズを挟みたかったが、あまり突拍子もない事はしないでおこう。紫蘇しそも季節外れで、手に入らない。ソースをアレンジして、カツ自体は普通にすることにした。


 卵液に付けてパン粉をまぶしていると、しのが荷物を抱えて帰って来た。

「じゃあ、味噌汁作るね。豆腐とわかめでいいかな?」

「ああ、有難う」

 俺としのは、俺の魂が違っても身体は双子だ。空気で、相手のリズムを感じれているみたいに思う。相手の言いたい事が、なんとなく分かるのだ。

茹で上がった馬鈴薯をザルに上げると、熱さに耐えながら皮を剥く。それをすり鉢に入れて、おっかさんとしのに任せてペーストになるまで擦って貰う。そう、マッシュポテトを作るのだ。牛乳とバタ、塩で味を調えてクリーム状にして貰った。

 そうしてる間に今度は鍋にラードを入れて、パン粉がカリッと撥ねるまで熱した。長屋なので、火の扱いにはちゃんと気を遣っている――十分に熱した油にパン粉姿の豚肉を入れると、ジュワ! と大きな音が上がり沢山の泡が鍋にあふれて、香ばしい香りが漂う。

「いい匂い!」

 しのが、うっとりとした声を上げた。確かに、この香ばしい匂いには俺の腹も小さく鳴った。そうして大体火が通ったら、綺麗な上げ色のカツを油から早めに取り出す。余熱の事も考えたからだ。その間に、キャベツを千切りにする。

 皿に、キャベツの千切り、マッシュポテト、食べやすいように切ったカツを乗せる。「あれ? 兄ちゃん皿が多いよ」としのは首を傾げたが、俺はにっこりと笑った。


 急いで、ソース作りだ。ウスターソースにトマトソース――この時代、まだケチャップは販売されてなかった――を入れて、少しの砂糖と醤油で味を調える。それと、あっさり食べて欲しいおっかさん用の梅ソース。水で洗った梅干しを刻んで、酒とみりんと醤油を入れて混ぜる。この時代の梅干しは本当に塩味が強く酸っぱいので、砂糖も少し加えた。


 よし、出来た!


「こんにちは」

 丁度、そこで声が聞こえた。本当に、ベストタイミングだ。

「尊さん、開いてますよ。どうぞ入ってください」

 俺がそう声を返したのに、おっかさんもしのも驚いたようだ。「ああ、それで多いんだ」と、しのは納得している。

「よく俺が来ると分かったな」

 建付けが悪い玄関の戸を開けたのは、やはり薬研尊さんだ。先日のとは違う洋装を着ていた。入って初めにそう言ったが、家の中に漂う香りにくん、と鼻を鳴らした。

「美味そうな匂いだ。何を作ったんだ?」

「カツレツです! さ、尊さんどうぞ座ってください。お肉有難うございました」

 俺がそう勧めると、おっかさんに招かれて尊さんは美味しそうなもので溢れているちゃぶ台のある、長火鉢の部屋に上がった。

「じゃあ、頂こうかねぇ」

 おっかさんのその言葉に、尊さんは綺麗に座ったまま両手を合わせた。俺としのも、慌てて手を合わせた。

「いただきます」

 椀に盛られた二種類のソースを見た尊さんは、先ずはウスターソースの方を匙ですくってカツにかけた。そして、熱々をすぐに口に入れる。サク、といい音が聞こえた。

「うん、このソースは美味いな! ウスターソースは食べた事があるが、これには他にも入ってるな? カツもサクッとしていて、美味い」

 尊さんは、忖度そんたくをしない性格のはずだ。素直に、本当にそう思って味を褒めてくれた。俺も、同じように口に放り込む。サクッとした衣の中から、ジュワっと油が丁度いい具合にあふれて来る。ソースも、トマトのお陰でマイルドだ。

「この馬鈴薯、美味しい! 今まで食べたことない、あたしこれ好き!」

 しのは、マッシュポテトが気に入った様だ。口の端につけても気にせず、パクパクと食べている。

「うん、梅がいいタレになってるね。酸っぱい梅が甘酸っぱくなって、揚げ物を爽やかにしてくれる。これなら、胃が脂っこくなくならずに食べられそうだ。キャベツがあるのも嬉しいねぇ」

 やっぱり、おっかさんは梅ソースを気に入ってくれたみたいだ。


「いい食卓だな。誕生日おめでとう、恭介にしの」

 俺達の和やかな食卓に、尊さんは目を細めた。俺は、こんなに小さくて貧しい方かもしれないが、幸せな家族を褒められた気がして「はい!」と、元気に返事をした。



 俺達は腹いっぱいに食べて、にこにこ笑っていた。それから丁寧に礼を言って帰っていく尊さんが乗った馬車を見送り、おっかさんが仕事に行くまで俺は初めての三人での昼寝をした。


 それは、本当に幸せな時間だった。十歳という、俺の実年齢の半分の誕生日。ずっと心に残りそうな、幸せな日だった。

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