第18話 めでたい誕生日に美味しいカツレツを・中

 俺は、買って貰った包丁が入ったおっかさんの風呂敷を抱き締めて、ニコニコと満面の笑みを浮かべて席に座っていた。刃物屋を出た後、お昼は遅くなったので外で食べて帰ろうと、近所の蕎麦屋に入ったのだ。

 俺とおっかさんは、カレー南蛮。辛いのが苦手なしのは、おかめ蕎麦を頼んだ。

「どれ位、辛いの? 兄ちゃん、少し頂戴」

 包丁の入った風呂敷をまだ抱き締めたままの俺の着物を、しのが引っ張る。そこで俺は、ようやく現実に戻った。

「あ、ああ。いいよ、好きなだけ食えよ」

「兄ちゃん、よっぽど嬉しいんだねぇ」

 おっかさんは、小さく微笑んだまま俺達のやり取りを眺めていた。カレーの香りを含んだ湯気越しに、おっかさんはどこか嬉しそうに見えた。

「でも恭介、その包丁でよかったのかい? 文化包丁? ってのは、あたしは初めて聞いたよ」

 俺が選んだのは、この頃には文化包丁と呼ばれていた、今で言う三徳さんとく包丁だ。野菜、肉、魚。どれでも不便なく切る事が出来る、便利な包丁だ。肉切りや野菜切り、魚切りなど包丁の種類は多い。だけど家庭で使うなら、これ一本で十分だ。それに、研ぎ石も買って貰ったので切れ味は何時も万全に整えられる。

「うん、一杯あっても邪魔になるからさ。これなら、何でも切れるから!」

 俺が遠慮しているのかもしれない、とおっかさんは思っていたのだろうか。おっかさんは、店に並んでいた包丁の種類の多さに、少し驚いていたような顔をしていた。本当に、家事は苦手なようだ。

「昔は、野菜切る包丁と魚をろす包丁だけだったけど……今は家庭でも、牛や豚も切る事が多くなったらしいね。本当に、どんどん便利な世の中になるねぇ」

 おっかさんの仕事で並ぶお座敷の料理も、洋風なものが増えているのだろう。そう、文明開化だ。これから日本は、急速に発展する――同時に、俺が恐れている軍事国家となっていく……。


「辛ぁい」


 俺の蕎麦をすすったしのが、小さく声を上げた。その声に、俺は不安になりそうな思いを断ち切って、隣で舌を出しているしのを見つめた。今は、まだ先の事を心配していても仕方ない。隣で泣いている妹の方を、優先しなくてはいけない。

「そんなに辛くないよ、ほらお茶飲みな」

 呆れたようなおっかさんが、しのにもう冷めたお茶の入った湯飲みを渡した。しのは涙目になりながら、その湯飲みを受け取った。

「多分辛さの先に美味しい所があるんだろうけど、辛くて我慢できないよ。おっかさんも兄ちゃんも、よく平気で食べれるね」

 お茶を飲んだしのは、頬が僅かに赤くなっている。俺は汁を吸ったが、普通のカレー南蛮蕎麦だ。考えてみれば、今まで確かに唐辛子的な辛いものは出した事が無かったなぁ。良かった、と思うのと同時に、これからは気を付けようと思い直した。

「でも、おっかさん。今日はこんなにお金使って……大丈夫だった?」

 俺は、そっちの方が心配だった。でも、そんな俺におっかさんはにっこりと笑った。

「あたしの人気を知らないのかい? 心配しなくても、仕事に行けば今日の分くらいちゃんと稼いでくるよ」

 確かに、今日はどこの店でも「よひら姐さん」と優しく声をかけて貰っていた。おっかさんは、俺が心配するより芸者の仕事を楽しんでしているのかもしれない。


 俺達は遅めの昼飯を食べると、仲良く並んで長屋へと帰って来た。と、その長屋の前で洋装の男とまつさんが話しているのが見えた。

「あ、そよさん!」

 俺達に気付いたまつさんが、大きく手を振ってくる――よく見れば、洋装の男には見覚えがあった。薬研やげん家の執事の門田だった。

「よかった、お宅にお客さんだよ」

「お出かけで忙しい時に、申し訳ございません」

 手に何かの包みを持った門田は、深々と頭を下げた。「すみませんでした」とまつさんに礼を言うと、彼女は「気にしないで」と笑って隣の家に入って行った。

「何か――先日、ご無礼を……?」

 おっかさんの後ろで、俺としのは並んで立っていた。おっかさんの不安そうな声音に、門田は慌てて首を横に振った。

「いえいえ、違います。実は、たける様から恭介様としの様への贈り物を預かって参りました」

 その言葉に、俺達はぽかんとした顔になる。

「明日は、お二人のお誕生日だそうで。おめでとうございます」

「はぁ、有難うございます」

 おっかさんも戸惑いながら、門田に礼を言った。すると門田は、手にしていた包みをおっかさんに差し出した。

「これで明日は楽しいお食事をして欲しい、と。尊様より、そう言付ことづかっております」


 もしかして、また食材!?


 俺は、おっかさんが受け取った包みの中が気になって、ドキドキした。

「それでは、私はこれで失礼いたします。どうぞ、明日はよい日でありますように」

 門田は丁寧に礼をすると、道の端に止まっていた馬車へと向かって去って行った。

「お金持ちは、本当に変わってるねぇ。わざわざ、誕生日を調べたのかい」

 おっかさんは、包みを手に首を傾げた。

「ま、とにかく一服しようじゃないか。あたしは仕事に行く用意もあるからね」

 おっかさんの言葉に、俺達も一先ず家の中に入った。

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