想ひ出のアヂサヰ亭

七海美桜

食前

第1話 プロローグ

 雪が降ったのが、予想外だった。俺は大学やバイトに通うのに、結構使い古された自転車を使っている。講義中に雪が降り始めたのを教室の窓からぼんやり見ていたが、講義が終わりバイトに行こうとする頃には雪が積もり始めた。


 このままじゃヤバいな、と思ったのは雪がまだ降り続くどんよりとした鉛色の空を見上げたからだ。バイトが終わって帰る頃の夜になれば、道が凍るかもしれない。吐く息が白く、凍る空気のように漂う。一月が終わりここしばらくは暖かかったが、久しぶりに今日は特に寒くなったようだ。自転車に跨ってハンドルを握った時に、思わず一度それから手を離してしまうほど冷たかった。仕方なく自分のリュックを漁って、何とか入ったままの手袋を見つけると取り出してかじかむ手に被せて、暗くなり始めた道をバイト先に向かって自転車を走らせた。



 俺は、平塚ひらつか恭志ただし。二十歳で現在は都内に住み、同じエリアの大学に通っている。バイトは、叔父さんが経営する洋食屋『アジサイ亭』の厨房を手伝わせて貰っている。この店で俺は高校生の頃からバイトをしているので最近、ようやく叔父さんから料理を教えて貰い始めていた。

 バイトを始めた最初の頃は皿洗いや仕込みばかりだったが、教えて貰う料理を客の為に作るのが楽しくなってきていた。だから、最近はバイトに行くのが楽しい。テスト期間以外ほぼ毎日のように、シフトを入れて貰っていた。

 『アジサイ亭』は、母さんや叔父さん方家系の――大正時代から続く、古い洋食屋だ。曾祖父ひいそふは家族と共に、当時流行り出した『洋食屋』を開業した。曾祖父は父親が異国人だったので当時は苦労したらしいと、おばあちゃんからよく聞いた。戦時中は食糧難で食材が配給になり店に出せるほど用意できなかったのと、『敵国の料理』という事で、一度店を閉める様に軍に命令されて休業していた事もあったそうだ。


 そのおばあちゃんは、俺が産まれた時ひどく喜んだと母さんが言っていたそうだ。単に男だったからという理由ではなく、「母さんが喜んでくれるよ」と言っていたそうだ。父は仕事で母はパートに行っていたので、俺は子供の頃は毎日おばあちゃんに世話をして貰い、遊んで貰っていた。


「恭志ちゃん、秘密の財宝がある場所知りたい? おばあちゃんは知っているんだよ」

 よく、子供の頃に祖母ちゃんは俺にそう言った。子供の頃は、『財宝』って言葉の意味を理解していなかったけど、ひどく楽しそうなものに聞こえて俺は喜んでおばあちゃんに何度もねだっていた。

「このお守りを大切に持っているんだよ。この中に大事な財宝の場所が書いてあるからね。財宝が必要になった時にだけ開けるんだよ。おばあちゃんとひいおばあちゃん、三人の約束なんだよ」とおばあちゃんは言った。

 おばあちゃんはそう言って、少し離れた所の神社の赤い『商売繁盛』のお守りを渡してくれた。それはとても古そうなお守りだったが、大事にしまわれていたのか、それでも綺麗だった。受け取った俺は、何度も誘惑に負けて開けようとしたが、その度に優しいおばあちゃんとの約束を思い出して止めた。そのお守りは、今は俺の財布に入っている。しかも、その財布には昨日貰ったバイト代がそのまま入っている。先月は結構忙しく、そのお陰で叔父さんが「臨時ボーナスだ」と言って多めに入れてくれた。銀行に預けに行く時間の余裕がなく、俺はそれを入れたままにしていた。


 ――何か、おばあちゃんに買っていこうかな。


 おばあちゃんは、半年前から病院に入っている。散歩先で転んで足とあばらを折り、入院しているのだ。入院代を稼ぐためにも増やしたバイトと大学に通う毎日で、しばらくおばあちゃんの見舞いに行けてないしな――なんて考えて自転車を走らせていた時だ。


「!」

 

 自転車が、積もっていた雪に埋もれてバランスを崩した。そして、俺はそのまま車道に投げ出されてしまう。

 走ってくる車のライトが見える。クラクションの音、悲鳴や「危ない!」と叫ぶ声。


 ――今日、看板メニューの少佐の愛した……を、教えて貰うはずだったの、に……。


 そう考えていた俺は、鈍い色の雲から舞い落ちて来る雪が舞うのを見ながら、身体に強い衝撃を受けてそのまま気を失った。

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