第11話 思いがけない出会い 2-2
桧山からは次の日に電話があり、その三日後の日曜日に迎えに来たハイヤーに乗って、美来たちはテレビ局の見学へと向かった。仕事の入った桧山の代わりに、テレビ局内を案内してくれることになったのは、上野という女性のディレクターで、はきはきしたいかにも仕事ができそうな女性だった。
テレビ局は日曜日でも、世に映像を送りだすために稼働していて、事務関係や番組を持っていない人以外は出勤して放送の仕事に従事していることを、美来たちは上野の説明で知った。
外から見えるガラス張りのスタジオでは、生放送を見学するために一般人の人だかりができている。
屋内の声優体験ができるコーナーでは、子供番組の映像を見ながら親子でアフレコを行ったり、自分の映像と背景を合成させて、ニュースキャスターになりきってニュース報道をしたり、天気予報士になって天気を予報するなど、本番のセットを疑似体験して楽しむ人々で溢れていた。
上野が次に案内したのは、料理番組を撮影するためのスタジオだった。
足を踏み入れた途端に視界に入ったのは、高い天井を覆うように組まれた鉄パイプと、吊り下げられたモニターやライトだ。
建物と建築資材や機械に興味のある幸樹が、すごいと声をあげ、あちこち夢中になって見るうちに、カメラにぶつかりそうになって、カメラマンに止められた。
いつも落ち着いている幸樹にしてはめずらしいハプニングに、みんなが笑った。
スタジオ内中央には、前方に突き出した頭を支えるために、がっしりとした脚でたつ四台のカメラが見え、その横には、何に使うのか用途不明の稼働式の背の高い立脚が置かれている。壁際には段違いの飾り棚が設けられていて、中に収められたグラスやかわいい小物が、雰囲気の良いキッチンを演出していた。
理久が吸い寄せられるように、飾り棚の向いに置かれたキッチンカウンターに近寄っていき、台の高さやシンクの広さ、その横の調理台の面積をチェックする。コンロまでの動線の良し悪しを、実際に調理の動きを真似て試し始めた。
高い天井から吊り下げられたライトの下で、クッキングのアドリブをする理久は、まだ少年のあどけなさが残っているのに、動きはまさにプロのようで、ないはずの調理器具が、そこにいる者たちの目には見えるように感じた。
生き生きしている姿に、今更ながら理久がどれだけ料理を好きなのかを感じとることができる。ライトに照らされながら楽しそうに動く理久の姿が、美来の目にはいつも以上にまぶしく映った。
理久の父親に見てもらおうと思い、美来がスマホを取り出して動画を撮り始めた時、上野が声をかけてきた。
「ねぇ、みんなカメラに映ってみない? あとでどんな風に撮れているか見せてあげるから、一人ずつカウンターの前に立ってくれないかな? まずはそこにいる理久君いってみようか?」
「オッケー。上野さん、カウンターの下に入っているフライパン使っていい?」
「いいわよ。シェフのポージングしてくれるの?」
理久は違うよと答えながら、調理台の下にあったフライパンを取り出すと、キッチンカウンターの前にやってきて、いきなりフライパンをテニスラケット替わりにして構えた。
ええーっ⁉ と驚く美来と渚紗に、やってくれるよと苦笑する幸樹。上野もカメラマンも、それでいいから、そのまま動いてと笑いながら指示を出す。
どうやら理久の打ったエアーボールは、すぐに跳ね返ったようだ。理久がうわっと驚く顔をして、ボールに当たるのを防ぐように顔の前面にラケット代わりのフライパンを立てて、ポーチボレーのように突き出す。それと同時に、理久がフライパンの内側を叩いたので、本当にボールが当たったように感じて、幸樹と渚紗が上手い! と拍手を送った。
「ねぇ、理久。シェフからコメディアンに進路変更したら? そっちの方が似合ってるかも」
「そんな~。美来は相変わらず俺に冷たいんだから」
理久がフライパンの陰からアヒルのように口を尖らせた顔を出すと、上野がはい、オッケーと声をかけた。
「今の顔まで撮ったけれど、良かったわよ。次は幸樹君いってみる?」
「ええっと、僕はポージングは苦手なんで、立っているだけでもいいですか?」
すると、フライパンを片付けていた理久が、複数の棚をガサゴソ漁って麵棒を探し出し、幸樹に手渡した。美来たちの元に戻る理久の背中に、幸樹が声を張り上げる。
「おい、これ何するんだ?」
幸樹が麵棒を振りながら理久に話しかける姿を、カメラが追っている。幸樹が仕方ないなと腹をくくって、麵棒を両手で頭の上に持ち上げ、面と言いながら振り下ろした。
「麵棒で面って、親父ギャグかよ」
理久の言葉で美来と渚紗も大笑いをして、緊張が解けていった。
「あなたたちは本当に気が合っていて、いい仲間ね。次、渚紗ちゃんスタンバイしてくれる?」
前の二人が普段通りの砕けた様子で映ったので、渚紗も引き出しをガサゴソ探すと、野菜の皮を剥くピーラーを持ってきた。そんな小さなもので何をするのかと美来が思っていると、何と! 左手の親指で顎を持ち上げ、右手に持ったピーラーで、頬と顎を剃るような仕草をする。
「ひげ剃りかよ⁉ 渚紗、女だろ? 信じられねー」
理久が身体を折って笑いだしたので、幸樹も美来もつられて噴き出した。
「だって、理久と幸樹が使いやすいものでポージングしちゃったんだもの。ピーラーを見た時に、今朝のお父さんの姿が、頭に思い浮かんだから、こうなっちゃったの!」
「渚紗ちゃん、面白かったわよ。そのノリでいいから、美来ちゃんラストいってみようか?」
上野に声をかけられ、美来はどうしていいか分からなくなった。一応引き出しを開けてみたが、包丁類などの危ないものは置いていないし、あるのは泡だて器や、菜箸、お玉やボールくらいだ。こんなものを使って、ふざけろと言われても考えもつかない。
「美来ちゃん、どうしたのかな? なんでもいいわよ」
上野は笑顔を貼り付けているが、今までのノリの良さが崩れたので、内心がっかりしているかもしれないと美来は焦りを感じた。待たせるのも良くないと思い、何も持たずにカメラの前に立つと、上野に向かって少し頭を下げた。
「すみません。私はこういうの苦手なので、できれば私抜きで、三人だけを撮影していただけませんか?」
「あら、そんなこと言わないで。桧山さんに、みんなの分のカメラテストを頼まれているんだから、ささっと早くすませちゃいましょ」
カメラテストは受けることを了承してもいないし、今もできないと断っているのに、ささっと済ませようなんて勝手すぎるんじゃないかと美来の胸の中にトゲトゲしい反抗的な気持ちが生まれた。
その途端に、美来が過去を見透かされまいとして抑えていた感情に火が灯り、覇気のない整った顔に強い意志が生まれて、鋭い眼光が上野に向かう。上野だけではなく、スタジオ内にいるみんながハッと息を飲んだ。
光度を落とした別室では、スタジオ内に隠された何台かのカメラを通して、角度の違う美来がいくつかのモニターに映し出されていた。桧山プロデューサーや番組ディレクターなど数人のメンバーが画面を食い入るように見つめている。
「どう?この子? Chez Naruseで見た時も、きれいな子だとは思ったんだけれど、表情があまり無くてお人形みたいなイメージだったんだ。でも、今の表情はドキッとさせられたね。理久君も、普段レストランの客に可愛がってもらっているせいで、人前に出る度胸もついていて悪くはないけれど、こういったタイプのアイドルは沢山いるからね」
「確かに……幸樹君も渚紗ちゃんも顔はいいとして、いかにも態度が素人という感じですからね。その中でも美来ちゃんは特別ですね。他の三人と違って化けそうな気がします」
「だろ? 他の子はジュニアそのもので屈託がないけれど、美来ちゃんはどこか違うんだ。大人びているというのか、とにかく計り知れない深みがある。でも、みんなの後ろで映してくれなんて言っているから、最初から一人だけスカウトするのは無理だろうな」
「桧山プロデューサーの言いたいことは分かりました。とりあえず、この子たちのために、料理番組を作ればいいんですね?」
「飲み込みが早くて助かるよ。企画は河島君に任せる。タイミングよく差し替え番組か繋ぎ番組で使えればいいんだけれど、とにかく先に作ってくれ。僕はねじ込む枠を調整するよ。じゃあ、ちょっとあの子たちに挨拶をしてくるから……」
美来たちのいるスタジオに桧山が入ってきた。上野が挨拶をした後、上機嫌で理久たちのタレント性を大いに褒める。笑顔で頷く桧山がチラリと美来見て、すぐに視線を外し、理久に話しかけた。
「みんな来てくれてありがとう。少しカメラ映りを見せてもらったけれど、みんないいね。最高だ。まだ、企画段階だから、社外秘なんだけれどね。僕は君たちが気に入ったから、特別に教えちゃおう。料理の特別番組をやるんだけれど、出てみないか?」
理久と渚紗は目を合わせて、嬉しそうに頷いた。
「嬉しいです。一生懸命頑張りますのでよろしくお願いします。あっ、先に言いますが、僕らを出演させる代わりにChez Naruseの取材をさせろと父に迫っても、多分無理だと思います」
「ああ、先を越されたな。理久君は本当に芸能界向きだね。大人の扱いがうまいよ」
本当にその通りだと、美来は心の中で桧山の意見に同意した。自分が理久のように器用に振舞えればいいのにとも思う。せめて二人の会話を盛り上げられればいいのだが、これから伝えることは、逆に雰囲気を壊してしまうだろう。
不安に慄きながら、美来は二人の傍に近づいていった。
「あの、企画のことでお話しがあるのですが……」
「ああ、美来ちゃんだったね。どうしたの? 何か作りたいものでもあるの?」
「いえ、違います。撮影をするときは、理久たちが作る料理をメインに撮っていただいて、私は最初と最後に顔を出すくらいにして欲しいんです」
「おや、それはどうして? 僕は味見できなかったけれど、紅葉の葉っぱに見立てたミルフィーユはきれいだったよ。もちろん飴の靴もチョコもいいけれど、テレビ画面に映したら、あれは絵的にいいと思うよ」
「私は撮られるのには向いていないと思います。理久たちはすぐにアドリブができたけれど、私は何も思いつかなくて……それにDes Canaillesは、本来サイドメニューを作るクラブだったんです。私がスイーツを作らせてくれるなら入るとわがままを言って参加させてもらったので、この中ではおまけなんです。だからメインの理久たちだけを撮って欲しいんです」
「う~ん。スタジオ全体を撮ると、美来ちゃんだけ映さないということはできないんだ。なるべく角度は考えるし、何か代案がないか探ってみるから、撮影を許可してくれる? ねつ? お願い」
スタッフ一同が見ている中で、桧山にお願いポーズをされたため、美来はそれ以上強く出ることができず、しぶしぶ承諾することになった。
どうせまだ先の話だろうから、今は理久たちのために、桧山の機嫌を損ねるのはやめようと思って頷いたのに、まさか、たった二週間で撮影の打ち合わせをしたいと桧山から理久に連絡が入るとは、いったい誰が想像できただろう。
あれよあれよという間に、撮影の日を迎えることになった。
撮影当日に会議室に集まったDes Canaillesのメンバーたちは、台本にかなり手が加えられていることを知って驚いた。
打ち合わせの時に、桧山から言われたのは、理久たちは撮影日に与えられたテーマに沿って料理を作ればよいので、セリフを覚える必要はなく、美来が希望した通り、デザートを作っているシーンも撮らないとのことだった。
美来はひとまずほっと胸を撫でおろし、理久と幸樹と渚紗の三人は、当日与えられるテーマだけを心配していればよいはずだった。ところがそのテーマさえもトリ肉料理であることを事前に教えられた。
「さすがにジュニア相手に、難しいお題は回ってこないだろうと思っていたけれど、これなら楽勝だな。みんな頑張っていこうぜ!」
理久の言葉に、三人は笑顔で頷いたのだが、それぞれ胸の中では、素人の料理番組で視聴率が稼げるのだろうかと不思議に思っていた。
そして、先ほど桧山から紹介されたディレクターの河島から手渡された台本には、やはりというか、考えてもみなかったストーリーと役割がふってあり、セリフも少しながら用意されていた。
理久と幸樹と渚紗メインの撮影なら、自分は後片付けに回ろうと密かに思っていた美来は、当てがわれた役にショックを受けた。
「言葉を失ったプリンセス? 何これ? 私こんなの聞いていないし、できないよ」
「桧山のおじさんに嵌めらちゃったわね。でも、一応美来の希望は通ってるから、文句はいえないんじゃない? それにプリンセスなら良い役じゃない。私なんて魔法使いの弟子よ」
渚紗が面白くなさそうに口を尖らせて文句を言う。ところが衣装係が持ってきたピンクのかわいいミニスカートの衣装を見るなり、渚紗の機嫌が直ったので、理久に現金な奴とからかわれるはめになった。二人がふざけ合っている横で、幸樹が自分の役割を見て、うーんとうなり声を上げた。
「僕は言葉を失った姫の従者役か。数回しかあっていないのに、桧山さんの洞察力が恐ろしいよ。さすがプロデューサって感じだね」
「そうだな。幸樹は弱い者を見ると放っておけないもんな。でも、美来は自分の意見を持った強い女だから、従者はこき使われるんだぞ」
「理久~。それ以上私の悪口を言ったら、王女が食べたい物を書いたカードを、トリじゃないものにすり換えるわよ」
「うひゃーっ。プリンセスじゃなくて、女王様キャラじゃん」
「ふざけてないで、理久は自分の役割理解したの?一番大事な役なんだからね」
睨みつける美来に、片手でオッケーマークを作りながら、理久が台本に書かれた箇所を読み上げた。
「俺は食を司る魔法使いだそうだ。姫の口をきけるようにした者に、褒美を取らせるという王様の御触れを知って参加する。それまでに医者や術師が色々試したが全く効かなかったため、姫はうんざりしていて俺にも期待していない。それで姫の気持ちを開かせるのと、言葉が戻るのを願いながら調理する……か。まるでおとぎ話だな」
みんなが頷いた時に、河島ディレクターが会議室に入って来て、何か質問はあるかと訊いたので、美来は恐る恐る手を上げた。
「あの、この台本にはラストが書かれていないのですが、どうなるのでしょうか?」
「ああ、それは撮影しながら指示を出すから、みんな先に控室で着替えてきてくれるかな」
美来は台本の続きをどうしても知りたかった。プリンセスが口をきけるようにするため、魔術師が魔法の料理を作るなら、その後に続くことは……言い知れぬ不安が美来の胸に浮かんだ。
そこにあるキッチンはお城仕様にしてあり、壁や調理台がレンガ風のタイルで覆われていた。後方の壁には、キッチンを見下ろすように白いバルコニーと窓が設えてあり、そこに置かれた椅子に、ペールブルーのドレスを着た美来が腰かけ、みんなの作業を見守る手筈になっている。
ストーリーの出だしはアニメーションで進行するらしい。魔法使いの役柄に合わせ、スタイリッシュにアレンジした白いコックコートを着た理久が、口のきけない王女の好物が書かれたカードから、一枚を引く場面からの演技となった。
「トリ料理か……新鮮な鴨肉があるからこれを使おう」
理久はもう演技なんかしていなかった。素材が所せましとならべられたテーブルから欲しいものを中央のカウンターに持っていき、渚紗に下ごしらえの指示を出す。
二人の傍らには、薄いグリーンのベストを着た姫の従者である幸樹が立ち、理久たちの動きを監視するふりをしながら、理久の次なるセリフを待っていた。
『従者の幸樹殿。毒が入らぬか監視をされているようだが、その心配はいらない。それより、手が足りないので手伝ってもられるとありがたい』
セリフは台本通りに吐かれるはずだった。理久はまな板の上で、スープ用の玉ねぎをすごいスピードでみじん切りにしながら、幸樹の方を振り返りもせず、台本とは違う言葉で幸樹を誘った。
「おい、従者の幸樹。ぼさっと突っ立ってないで、手伝えよ。監視なんてしなくても毒なんか入れないからさ、心配ならここに来て一緒に作ればいい」
理久はどこにいても理久だと、幸樹は笑ってしまいそうになるのを堪えながら、理久に合わせて気軽に返事をする。
「分かった。手伝うよ」
そして、理久の指示のもと、幸樹と渚紗が忙しく立ち回る姿を、フロアにある通常のカメラとクレーンのように首が伸びるカメラが追いかけて、映像をモニターに映し出した。
出演者の耳にはイヤホンがつけられ、ディレクターの指示が耳に入るようになっている。理久と幸樹のフレンドリーなやり取りについての注意はなく、ストップの声もかからなかった。
調理はどんどん進んでいく。渚紗がサラダを作り、理久と幸樹がスープを用意すると、理久が肉を焼く前の下準備として筋切りの網目模様を入れてから渚紗に手渡し、次の処理を告げる。
「渚紗、洋ナシと青りんごを四分の一すり下ろして、砂糖と醤油を加えて鴨肉を浸して。幸樹、塩、黒コショウ、マスタードシード、パプリカ、黒砂糖、クミン、ナツメグをすってくれ」
二人が理久の言葉を書き留め、グラム数を聞いて用意にかかっている間、理久は別の料理に使うために、レンジで下ごしらえをしたジャガイモの薄切りと玉ねぎを順番に重ね、その上に載せる鶏肉を焼いた。
その様子を、バルコニーから身を乗り出さんばかりにして、美来が見つめている。いつもなら、あの中に入って、脇目も振らずにレシピと材料と自分の手元だけに集中しているのに、上から三人の動きを見られるのは新鮮だった。
理久はすごい! 私なら自分のことだけで手いっぱいなのに、理久は他の二人より速いスピードで動いて調理も倍受け持っているのに、幸樹と渚紗の動きまで完全に把握している。
幸樹が少しでも顔を上げれば、頼んだ準備が終わったと察知して、理久はすぐ次にしなければいけないことを説明する。
食べものの味を生かすも殺すも瞬時に決まる。熱が通り、色が変って、香りが潮時を知らせる瞬間に、素材が何を求めているかを察して、それを施してやらなければいけないと、理久はまるで一人前のシェフのようなことを言うことがある。
今、まさに炎の上がったフライパンで鶏肉を揺すってあやし、ひっくり返して赤ワインを入れる瞬間を狙っている理久は、戦っているように凛々しかった。
こうして見ると、理久はとてもかっこいい。美来は近すぎて見えなかった理久の良さを改めて感じた。
ふざけていない時の理久は、本当に頼れる男の人にみえる。
食い入るように理久を見つめていたら、天井にある可動式のカメラが動いたのが視界の隅に映った。ランプが点いているのは、今メインで映しているカメラだと撮影前に聞いたけれど、角度が完全に下を向いていないような気がする。
その時、ジュ~ッという鴨肉を焼く音がして、香りが立ち上ってきたので、美来はカメラなどどうでもよくなり、あの鴨料理を味わうことができたら幸せなのにと心から思う。要求が満たされない不満から、口元に当てた指で唇を揉みしだいた。
美来が気にしたカメラは、スタジオセットの隅で進行を見守る桧山の目に映像を届けていた。
モニターをチェックしながら良い絵が撮れているか確認をする河島の横に並んだ桧山は、理久たちが料理する姿に引き付けられて、ベランダから下を覗き込んでいる美来の姿に思わず微笑えんだ。アップで撮った美麗の顔も頬が紅潮し、目が輝いていて、新鮮な美しさに目が釘付けになる。桧山と河村は逸材を見つけた喜びを味わっていた。
そして、料理が出来上がり、理久が怪しげな呪文を唱えたところで、桧山がカットと声をかけた。
「はい、みんなお疲れ様。理久君すごいリーダーシップだね。もちろん腕前も素晴らしくて、大人顔負けでびっくりしたよ。幸樹君も渚紗ちゃんも、理久君が出したいくつもの指示を的確に聞いて、素早くこなすんだから大したものだ。素晴らしい映像が撮れたことにお礼を言うよ。ありがとう」
照れながら顔を見合わせる三人に、美来がベランダから拍手を送る。理久が振り返って声をかけた。
「美しいお姫様のために頑張ったぞ~っ。美来に食べて欲しくって、最高のソースに絡めたからな楽しみにしてろ」
「……ありがとう。理久。みんなもお疲れ様。迫力があって、みんなすごかったよ」
幸樹と渚紗が笑顔で手を振り返した時、河村ディレクターが手をパンパンと叩いて注意を引いた。
「みんな、悪いね。おしゃべりは後にして、料理が冷めるといけないから、別室へ移動するよ。ついてきて」
全員が連れていかれたのは、真っ青なシートで覆われた部屋だった。
「何にもない。椅子とテーブルと料理だけ?」
理久が辺りをキョロキョロ見回しながら言うと、桧山が説明をしてくれた。
「これは後で、背景のCGを入れるために、余分なものが映りこまないよにしているんだ」
「ああ、僕はネットで紹介されているのを見たことがあります。今はコンピューターグラフィックスだと見破れないほど処理能力が上がっているんですよね?」
「幸樹君はそういの興味あるんだ?」
「家は建設関係なので、設計したものを映像化する際にCGを使うんです。この背景には、多分豪華なダイニングルームの画像が合成されるんですよね?」
「そうだよ。楽しみにしていてくれ。さて、美来ちゃんは席について、幸樹君はその斜め後ろに立ってくれ。理久君はこの辺りで、かわいい渚紗ちゃんは理久君の横に行ってくれる?」
桧山がみんなに指示を出すのも、美来には水の中で聞いている音のようにくぐもって聞こえた。テーブルに並べられた美味しそうな料理は一人前で、その席に座れと言う。みんなで食べれば、会話をしている人が注目を集めるので、美来がどんな風な顔をして食べようが、まず気にかけられることはない。
ところが、今は全員が美来一人に注目して、しかもカメラが回っている前で食べなければならなかった。
「じゃあ、台本に書かれていない部分のラストシーンを説明するよ。まずは理久君、さっき美来ちゃんに声をかけたみたいに、心を込めて作ったから、食べてくださいと言って欲しい。そしたら美来ちゃんの味見がスタートする。そして、声を出せなかった美来ちゃんが感想を言って、幸樹君は姫が言葉を取り戻されたと言って喜んで欲しい。あとは、王様が理久君と渚紗ちゃんに褒美を聞くから、それぞれ答えてくれ。以上だけれど、質問はあるかい?」
理久は横に首を振りながら、料理が冷めないうちに、早く撮影がスタートしてくれないかと少し苛ついていた。美味しい料理を美来に食べてもらいたいと言ったのは本心だ。美来がどんな感想を言うのか楽しみで視線を向けると、美来が不安そうな顔で後ろにいる幸樹を振り返るのが目に映った。
途端に、理久のイライラが増幅され、どうして幸樹を見るんだと心がざわついた。俺の作ったものを食べるのがそんなに不安なのだろうかと、舌打ちをしたい気分だった。。
その時、横からフーッとため息が聞こえ、ハッと我に返った理久が隣を見ると、渚紗が口を尖らせて無言の不満を訴えてくる。理久が離れている幸樹に向かってパンチを繰り出す真似をすると、渚紗も真似をしてダブルパンチを繰り出すので、これだけ元気があれば大丈夫だと安心して視線を美来に戻した。すると、幸樹が料理を指しながら美来の耳元で何かを囁いている。
理久は傍に言って文句を言いたい気分になった。二人とも距離が近すぎるだろう。まるで恋人同士みたいに囁きあってるんじゃないよ。
質問があるなら作った俺にきけばいいのに……それに何で美来はいつも幸樹を頼るんだ? 渚紗が幸樹を思っているのを知っているはずなのに、二人ともひどくないか?
考えれば、考えるほどムカついてきて、理久が本当に文句を言おうとして一歩踏み出しかけたときに、ディレクターの河島がスタートと声をかけて撮影が始まった。
理久がもやもやした気持ちのままセリフを言ったとは知らず、美来はカトラリーを手にとった。
美来は、さっきみたいに理久が大らかに料理をアピールするのかと思っていた。理久にしてはずいぶんかしこまって、心を込めて作ったことをセリフで伝えてきたので、少し不思議に思いながら、鴨のソテーにナイフを入れる。
肉が抵抗した後、じゅわっと肉汁が染み出した。途端に作り終えた時の理久の嬉しそうな顔と言葉が頭に浮かぶ。
『美しいお姫様のために頑張ったぞ~っ。美来に食べて欲しくって、最高のソースに絡めたからな楽しみにしてろ』
理久が言った通り、最高の香りがする。何ていい香り。一口大に切った鴨肉を口に入れた。
でも、舌の上に載った固形物は舌と上あごとの間で揉まれて形を変えただけだった。イヤホンから桧山の声が急に聞こえ、美来は我に返った。
「どうした?美来ちゃん。口が動いてないよ」
返事をするわけにはいかないので、美来は肉を噛み始めた。理久の心配そうな顔が見えて、美来は泣きたくなった。あんなに一生懸命作ってくれたのに、私にはこのお肉がどんなに美味しいか言ってあげることもできない。幸樹に使った材料を聞いたけれど、それらが合わさってどんな味になるのか全然分からない。心から美味しいっていいたいのに……理久ごめんね。
「お…いし……い」
それだけ言うと涙があふれた。嗚咽を堪えて喉を押え、もういちどバカみたいに同じ言葉を繰り返す。美来には感想を言うことはできなかった。
十一月の頭に撮影された映像は、驚くことに異例の速さで中旬には放映されることになった。ある俳優の不祥事が発覚したため、その俳優が出演していたクイズ番組が流せなくなり、差し替え番組として美来たちの「
俳優の事件発生から三日後の放映だったが、インターネットやCMを使って、テレビ局が差し替え番組の映像を少しずつ流したのが功を奏し、新しいアイドルグループと勘違いした若い世代や、料理につられた主婦層など、幅広い年齢の人々が番組を見て、高視聴率を獲得できた。
特に、ラストシーンあたりで、美来が再び言葉を発した喜びに涙を流すシーンに感動したという感想が、電話やインターネットに届き、美来は期せずして有名人になってしまった。
続いて料理を指揮した理久が人気を博し、三番手は幸樹と渚紗が同じくらいの好感度を得た。
放送を一緒に見ようと約束していた四人は、理久の部屋に集まり、テレビ録画を見て感想を話し合っていた。
理久が美来に、あの時は、料理が本当にまずかったのかと思って、心臓が止まりそうだったと本音を漏らすと、幸樹もどうしたらいいのか分からずおろおろしてしまい、イヤホンで桧山にセリフ!と急かされたことを白状する。
そして、極めつけは、王様からどんな褒美が欲しいと聞かれた理久が、美来姫が欲しいと言って場を盛り上げたシーンだった。
本音が入っていたよねと渚紗が笑いながら言うと、幸樹が確かにと頷いて、あれには驚かされたと苦笑した。
「僕なんて、理久に突き飛ばされたんだぞ。姫の隣は俺の場所だから、従者はあっち行ってろだってさ。本気で言ったよな?」
幸樹の質問に乗じて、渚紗が期待を込めた目で理久を見つめ、どうよ? と答えを迫る。理久がふんと鼻を鳴らした。
「当たりまえだろ。幸樹は渚紗の傍にいればいいんだよ。美来は俺がスカウトしたんだから、俺のものなの」
真っ赤になった美来に見向きもせず、理久たちが言い合いを始めた。
居心地がいいのか、悪いのか分からない思いで眺めながら、美来は自分が臆病になりすぎるあまり、テレビ出演のチャンスを潰すところだったことを思ってヒヤリとした。
料理番組で視聴率を稼げたことは、将来理久たちが付き合いを広げるうえで、良い話題になるだろう。美来にとっても、もう少し自分に自信を持って、前に進んでもいいんじゃないかと思えるきっかけになった。
本当は言葉が出た喜びで泣いたわけではない。良い編集をしてもらったおかげで、視聴者に受けたことは十分に分かっているけれど、誰一人として美来の映像に過去を嗅ぎ取り、暗くて嫌なイメージを抱かなかったことが、美来に希望を与えた。
学校でも、街中でも、Des Canaillesのテレビ出演は有名になり、今まで美来に向けられていた同情の入り混じった笑顔が、羨望へと変わっていくのを見て、美来は初めて過去から解き放たれた気分を感じることができた。
理久たちに出会えた幸運をかみしめながら、きっと四人でいられるこの時期が、自分にとって一番幸せなのではないだろうかと思う。
できることなら、ずっとこの幸せが続きますようにと願わずにはいられなかった。
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