第8話 フレンチレストランでのひと時
調理実習の時に、理久の指示でグループが作ったアレンジ料理は、瞬く間に他のクラスにも伝わり、理久は一学年で一躍注目の的となった。
家庭科の白井先生とクラスメイトに約束した通り、美来と渚紗はアレンジ料理のレシピの原稿を作成しなければならず、料理の際に気を付けた方がいい点や工夫を相談んしては書き入れていく。横にかわいいイラストを入れて仕上げると、白石に見せるために、放課後に理久と幸樹を伴って職員室へ向かった。
白井はふっくらとした三〇代の女性で、幼稚園に通う息子が一人いる。理久が作ったピカタとガゼボを載せたガーデンサラダを、家でも作って出したところ、息子が喜んで食べたと嬉しそうに話す。
「よかった。喜んでもらえて。俺もアレンジしたかいがありました。俺たちは学生だけど、以前から創作料理を作りたい気持ちがあって、部活の創立を申請していたんです。創立に必要な人数が集まりそうなので、先生、どうか顧問をやってもらえないでしょうか」
お願いします。と他の三人も頭を下げる。白井はにこにこしながらすでに教務から打診を受けたことを告げた。
「それで?」
期待する四人の声がはもる。身を乗り出して目を輝かせる生徒たちに、受けてもいいわよと白井が答えた。
「うぉ~っ! やったぞ幸樹」
「おお! 夢が叶ったな」
雄叫びを上げた理久と幸樹の横で、美来と渚紗は手を叩いて喜んだ。
「そうだ。理久、せっかくだからホームページを作らないか?」
幸樹の案にみんなが沸き立ち、白井に調理実習の時に撮った写真を使わせてもらえないかと頼む。白井が快く、幸樹のパソコンにデータを転送することを引き受けてくれたので、理久が浮き浮きしながら言った。
「クラブが立ちあがったら、父が料理のアドバイスをしてくれる予定なんだけど、みんなで揃って報告しにいかないか?」
「賛成!」
一致団結した四人は先生に別れを告げて、理久の家の前に建つ
「今日は定休日だけれど、地元の人たちへのサービスデイで、パーティーを請け負っているんだ」
「ああ、月一回の地域優先の貸し切りパーティープランか。僕の両親も、取引先の家族を招いて、Chez Naruseでもてなしたことがあるんだよ。すごく喜ばれたみたいだ」
「ほんとか?それ、直接父に言ってやってくれ。喜ぶと思う。あのプランは母が考えたんだ。普通の日だと、他所からくる有名人とか、セレブの予約で一杯だから、月一回だけは、この地域に住んでいる人たちに、手頃な値段で楽しんでもらう日にしようってね」
「理久と幸樹のお父さんたちはこの町じゃ有名だから、お母さんたちのこともみんなが知っていて、幼稚園や小学校では役員をやらされていたものね。地元の人を無視できないから、おばさんは頭を働かせたのよ」
二人の会話に渚紗が相槌を打つのを、美来は黙って聞いていた。
美来がこの町に来たのは、小学校六年生に上がる前の春休みだ。それより以前の三人の話を聞くと、硬く結ばれた友情の絆で通せんぼされたような気分になり、疎外感を覚えることもあった。
それも最初のうちだけで、住んでいるうちに美来はあることに気が付いた。田舎の生活というのはゆったりと流れていて、子供がどんどん成長しても、周囲の習慣や人間関係はあまり変わらない。みんなが同じ話を繰り返すから、すぐに話題についていけるようになるので、焦る必要がないということを。
それは同時に、都会と地方の子供の違いを明確にした。
都会の子供は、大人が作る目まぐるしいほどの時間の流れの中で、何事も早く習得することを要求されるせいなのか、言葉の語彙も多く、会話もませている。長いセンテンスをやり取りする様は、まるで画一化された小さな大人のようだ。
反対に地方の子は、その地域が作りだす雰囲気に育まれて、独特のリズム感を持ち、物事に対する捉え方や感覚も個々によって違うように感じる。そのため、美来がこちらの同年代の子たちと話すときには、自分の中にはない純粋さや子供らしさを発見して、面映ゆい気持ちにさせられることが度々あった。
もちろん中には例外はある。そのうちの三人は美来のよく知る友人たちで、家庭環境が子供に与える影響の大きさを、三人と付き合ううちに学んだ。
理久の父親は、海外でシェフの修行を積んで、海外のマナーとフレンチを習得して帰国。都会の人たちを相手にフレンチレストランを開くようになった。
一流の味を追求することに余念のない父と、父をサポートするしっかり者の母親に育てられた理久は、都会とか地方とか年齢とかを度外視して、口も料理の腕も達者で右に出る者がいない。
幸樹も家族環境は恵まれていて、親が大きな建設会社を経営している。公共事業の請負いでは官僚と付き合いがあり、自社ビルなどの建設では、大手企業の社長を始め新進企業などとも取引があるため、親の考え方や会話のやり取りが都会的で、それが幸樹にも影響している。
つまり、理久と幸樹は商売を生業とする親を手本にして育っているから、言動が大人びているのだ。
二人に長いこと付き合ってきた渚紗も大いに影響を受けていて、阿吽の呼吸で受け答えをする。
美来が少々ひねくれた態度を取ったところで、この三人の目には、クレームをつける客よりもうんとかわいい存在に映るようで、いとも簡単に受け流してしまう。
美来にとっては、付き合うのが非常に楽な相手と言えた。
「ねぇ、そういえば学校のクラブの名前と、Chez Naruseに置かせてもらうサイドメニューのブランド名は同じにするの?もう候補は決まった?」
美来の質問に三人が顔を見合わせ、実はまだ決めていないと口ごもる。
「ホームページを作るなら名前が必要でしょ?」
「そうだけどさ。俺と幸樹じゃ、うまい、安い、早いってワードしか思い浮かばないわけよ」
「それって、どっかのチェーン店のコピーじゃなかったっけ?」
「男の子は食欲旺盛だから、ロマンチックなネーミングを考えるのは無理よ。私も考えたんだけれど、お惣菜のお店にはちょっと大げさだって言われて、ボツになったの」
「どんな名前なの?聞きたいわ」
美来が渚紗の案を聞こうとすると、幸樹がやめといた方がいいと首を振るので、余計に興味が湧いた。美来が渚紗の手を取って、ねぇ、教えてとしつこく繰り返しすと、渚紗もついに折れて、聞きなれないフランス名を口にする。
「
「それ、どういう意味?」
「総菜の惑星っていう意味。ねぇ、キッシュとかテリーヌとか、おいしいものでできた惑星を想像してみて。素敵だと思わない?」
「……確かに壮大なネーミングね。私なら立ち寄りたくないけれど」
「え~っ! 美来までそんな冷たいこと言うの? じゃあ、アイディア出してみてよ」
「う~ん。急に言われてもね……総菜って言うから、ぴんと来なかったけれど、キッシュとかパテとかテリーヌ言われると、なるほどって感じで、ようやくお店に出すものが分かったわ。理久は本場のレシピ通り作るの? それともアレンジして出すつもり?」
お店に出すものが伝統的なのか斬新なものかで、名前も変わってくると思いながら美来が尋ねると、理久は半々だと答えた。
「最初は小さなコーナーで試し売りをするから、味は伝統的でも、見た目がぐっとくるものがいい。思わず手に取りたくなるような感じかな。もちろん派手とかじゃなくて品よく視覚に訴えるもの。素材は四季を感じさせるものを使いたい」
「一目ぼれするような感じ?」
「おっ、それいいね。一目ぼれか。でもどっかで聞いたことある名前だな。他には?」
「季節を感じさせるなら、気配をイメージして色や音だけれど。色だと季節が限定されちゃうから音……音……足音。季節の足音なんてどう?」
「すげー!美来はネーミングセンスあるな」
夢が一つ一つ形になっていくのを理久と渚紗が無邪気に喜んでいる横で、幸樹がそそくさとスマホの翻訳機を操作して、候補のフランス名を音読させる。
「Coup de Coeur!クゥー・ドゥー・クー.今のが一目ぼれの方な。次が季節の足音。押すよ?Pas de la saisonパ・ドゥ・ラ・セゾン.うん、どっちもカタカナ読みしやすいかな。rとかhが入るとフランス語は日本人には発音しにくいから」
どっちもいいと四人がはしゃいでいるうちに、Chez Naruseが見えてきた。
休耕田が広がるこの辺りは、草が生えないように池のように水が張ってある。その一角を買い取って建てられたChez Naruseは、田んぼの中に土を盛り、広い敷地をぐるりと木で囲んであるので池に浮かんだ島のようだ。
木々の間からは、優雅な曲線を描くサーモンピンクの塗り壁の建物が見える。モスグリーンの屋根の真ん中には、明り取りを兼ねた円柱の塔が煙突のように突き出ていて、同じ色の三角屋根をかぶっている。
まるで、おとぎ話の中に出てくるようなかわいい建物を見る度に、美来の胸には、手の届かないものに対しての憧れと、悲しみにも似た気持ちが沸き起こる。
そんなことを美来が感じているなど知る由もない理久は、ずんずんとレストランの敷地に入っていき、レストランの窓から中を覗き込んだ。
「あちゃーっ。ディナーパーティーだけだと思ったら、今日はティーパーティーをしている客がいるな。みんな裏へ回ろうぜ」
「でも、客がいるんだろ?おじさんの邪魔をすると悪いから僕たちは帰るよ」
「いや、もうすぐ四時半だからディナーの準備を考えると、もう終わると思う。ちょっとだけ寄って行ってくれ」
建物の裏へと回るとときに、美来も窓から店の中を見るともなしに見てしまい、若い母親たちと一緒に座る子供たちの様子から、幼稚園のお母さんたちの集まりじゃないだろうかと想像した。
小さな赤ちゃんを膝に抱えながら、隣に座る幼児の口をナプキンで拭いている母親の姿が目に入り、慌ててその光景から目を逸らす。ともすると、あの暗いマンションの部屋へと意識が戻されてしまい、今見た親子の残像に、あの日の自分が重なった。
弟の口をタオルで吹いているのは母親ではなく、まだ母親に世話をしてもらうのを必要としていた小さな美来だ。
くぼみに足を取られ、転んでけがをした時には、大人に頼ることも無く、自分で洗面所の下から救急箱を取り出し、痛いのは不注意だった自分のせいだ思いながら、黙って手当をした。
急に夕立が来てびしょ濡れになっても、冷たいのは傘を持っていかなかった自分が悪いと思い、チェストから乾いた服を出して一人で着替えるのは当たり前だった。
ただ、自分でも気持ちをコントロールできないほど苦手だったのは、分厚い真っ黒な雲を、引き裂くように走る鋭い光と、空気を揺るがす轟音に見舞われる雷だ。
怖くて、怖くて大人に縋りたかったけれど、康太が泣くので、必死になって励まさなければならず、雷なんて怖くないと平気なふりをした。
ようやく帰ってきた母親が慰めるのは弟だけで、一緒に駆け寄った自分は振り向いてももらえず、指を咥えて見ているしかなかった。
真っ暗な記憶に覆われそうになって、美来はフンと鼻を鳴らし、今更自己憐憫もないわ!と小さく呟いて、レストランの庭に目を向ける。
周囲の景色を集中して見ることで、記憶に焼き付いたものに、上書きしようとでもするように、レストランの南側に面した小さな川の流れを目で追った。
だが、無視しようとすればするほど、捻じ曲げられた孤独と悲しみが悲鳴を上げて、心の底で青白く冷たい怒りの炎が燃え上がるのを止められなかった。
「おい、美来ぼーっと見てるんだ。早く来いよ」
いつの間にか、三人は建物の北側にいて、理久が美来を手招きしている。美来は、いけない、いけないと首を振って、理久の方へ走っていった。
美来が建物の西側を通って北に回り込み、北東にある家族や業者用通用口に辿り着いたとき、北西のドアから次々と客が出てきて、北側の駐車場に止めた車へと歩き出す。見つからないように、通用口から中へと滑り込むと、そこは厨房の横にあるパントリーを兼ねた準備室になっていて、理久の母親の佳奈がみんなを迎え入れてくれた。
「あら、美来ちゃん、お久しぶりね」
佳奈は、中肉中背で明るい笑顔が印象的な女性だ。客商売をしているせいか、誰に対しても人当たりが良く、美来に初めて会った時も、噂は聞いていただろうに、おくびにも出さずに普通に接してくれた。
母親から虐げられた美来は、母親と同じ年代の女性と初めて会うと、どうしても警戒心を持ってしまうが、佳奈は渚紗の母親と共に、数少ない例外の一人にあたる女性だった。
店の中からは、パーティー後の皿やカトラリーを片付ける音が絶えず聞こえてくる。美来は、忙しい中母親が出迎えてくれたことに恐縮しながら頭を下げた。
「こんにちは。お忙しいのに、急にお邪魔してすみません」
「丁度お開きの時間だったから大丈夫よ。テーブル席は今片付け中だから、みんな店内のカウンター席に座ってちょうだい」
佳奈に案内されて店内に入ると、理久の父の昌喜まさきが厨房の中で夜の分の仕込みを始めていた。
パートの女性が運んできた皿を食器洗い乾燥機に入れている後ろで、忙しく立ち回っている。
やっぱり帰ったほうがいいのではないかと思っていると、昌喜が手を止めて、カウンターごしに美来たちに話しかけてきた。
「いらっしゃい。ドタバタしていて悪いね」
美来たちが頭を下げて、挨拶をしているとき、理久が立ち上がって厨房の中に入り、業務用の冷蔵庫を覗いた。
「おっ、いいもんみっけ! 今夜は立食パーティーだね。みんなに見せてやってもいいかな? クラブで作るサイドメニューに役立てたいんだ」
「ああ、例のやつか。ちゃんと活動できる目処が立ったのか? 美来ちゃんをようやく口説き落としたことは聞いたけれど……」
「うん、顧問も決まったし、今日は名前を決める予定なんだ。だから、ちょっとだけみんなに見せてもいい?」
「いいよ、余分に作ったデザートの味見もしてみるか?」
総菜よりもデザートにひかれた渚紗がやったーと叫んで、美来の方を振り返ったので、美来も喜ぶふりをして渚紗とハイタッチをする。心の中では、私がデザートを担当することを、理久は父親に話しただろうかと心配になった。
シェフの前で試作品の味見をすれば、当然感想を聞かれるはずだ。一体何と答えればいいのだろう。
美味しいという言葉ぐらい誰でも言える。そんな単純な言葉では、きっと失望されるだろうと不安になったとき、幸樹が心配そうにこちらを見ているのに気が付いた。
不安な気持ちが外に漏れていたかもしれないと思い、美来は表情を消して、背筋をピンと伸ばし、厨房に入っていく渚紗の後を追う。厨房の中の大きな業務用冷蔵庫内には、深さの違ういくつものステンレス製パッドが並んでいて、理久が取り出して中身を見せてくれた。
寒天上に小さな色とりどりの野菜をちりばめ、コンソメジュレで固めてあるもの。鶏肉をミキサーにかけ、ハーブ、玉ねぎと混ぜ合わせてペースト状にしたパテをオーブンで焼いたテリーヌ。サワークリームとほうれん草をサーモンでくるんだサーモンロール。サラダやマリネなど、全ての料理が芸術品だ。
外観と香りに刺激された四人は、胃の辺りを押さえながら、お腹が空いたと合唱した。
パッドをきちんと業務用の冷蔵庫に戻すと、理久はその隣にあるデザート用の冷蔵庫の扉を開けて中を覗いた。理久がその隣にあるデザート用の冷蔵庫の扉を開けて中を覗いた。
幸樹も渚紗も美来も、興味深々で覗き込み、立食用に作られた小さくカットされたデザートの数々に歓声を上げ、すごいと感嘆しながら顔を見合わせる。それぞれの瞳に映った友人たちの顔は、冷蔵庫の中の青白い光に照らされて、目も表情も生き生きと輝いていた。
ワイワイとはしゃぐ理久たちを見て、昌喜が愉快そうにDes Canaillesデ・カナリと言いながら笑うので、美来はそれを日本語だと勘違いして、昌喜に相槌を打った。
「そうですよね。でかい成りをして、子供みたいにはしゃいで恥ずかしいですね。ごめんなさい」
「いや、美来ちゃん、フランス語だよ。いたずらっ子達って言ったんだ」
「えっ? いたずらっ子達? ……おじさん、それいい! その単語頂き! 綴りを教えてください」
いきなり美来が大きな声で叫んだので、みんなが何かと振り返ると、昌喜から綴りを教えてもらった美来が、クラブの名前はDes Canaillesデ・カナリにしない? と楽しそうに聞いた。
「いたずらっ子達? お父さんも言ってくれるよな」
「僕は賛成! 名前も単純で覚えやすいし、意味も面白いよ」
「私も美来の案に賛成! 何を作ろうかって、いつも楽しいことを考えるのにぴったり」
昌喜は良いアイディアだと褒めてから、ご褒美をあげようと言って、冷蔵庫からデザート用のパッドの一つを取り出した。そこには色々なデザートの試作品が入っていて、昌喜は四枚の小皿に違う種類の試作品を一つづつ載せてカウンターに並べていく。
「確か、美来ちゃんはデザートを担当するんだったね?」
ほら来た! とばかりにドキリとしたのを押し隠し、美来はにっこりと笑って見せる。昌喜が皿の上に載った平たい陶器製のカップにグラニュー糖をまぶし、上からバーナーの火を噴きつけて表面を焼いて焦げ目をつけた。
「ワァオ! クレームブリュレだ。美来、プリンとは違うけれど、これもうまいぞ」
美来の前にどうぞと差出ながら、昌喜が茶目っ気たっぷりに質問する。
「これは、今の季節に合うものを入れて作ってみたんだが、何か分かるかい?」
美来は顔が半分強張るのを感じた。美味しいで済ませられる感想ではなく、何が入っているか当てろという。美来にとっては最悪の質問だ。小さなデザート用スプーンを持つ手が震えそうになった。
「おじさん。僕にも半分分けてもらえますか」
「ん?幸樹君は……クレームブリュレが好きなのかい?」
もう少しで、幸樹君は美来ちゃんが好きなのかいと言いそうになった昌喜は、渚紗が幸樹に片思いをしていると、理久から聞いたことを思い出し、すんでのところで名前をデザートに変えた。
恋愛ごとで仲間同士揉めれば、クラブを立ち上げるどころではなくなるだろうと危ぶみながら、渚紗の顔をちらりと見ると、案の定暗い顔で俯いてしまっている。これはまずいのではと思った時に、美来がガリガリと音を立てながら、キャラメルをスプーンで崩した。
「いくらプリンが好きだからって、調理実習に続いて今回も横取りはさせないわよ。おじさんは私に当てろって言ったんだから。おとなしく違うデザートを食べてなさい」
渚紗のしょんぼりした顔が目に入った美来は、暗に引っ込んでなさいと幸樹に告げ、中身をすくったスプーンを口元に持っていく。その途端、嗅ぎ覚えのある香りが鼻孔をくすぐった。
この香りは知っている。いつだったか……そう、ここに来た時に、祖母と渚紗と一緒に摘みに行って、理久と幸樹にも出会うきっかけになった。四人を結び合わせたもの。それは……
「よもぎね?」
「当たりだ!すごいね。ほんの少しだけ入れただけだから、分からないだろうと思ったのに、食べないうちから香りで当ててしまったか。それじゃあ、優秀なパティシエ見習いさんに教えておこう。プリンとクレームブリュレの違いだ。二つは入っているものがミルクとクリームで材料が違う。調理方法も蒸すのと焼くので違うから覚えておいて」
「そうなんですね。勉強になりました」
「あと、よもぎの花言葉を知っているかい?」
昌喜が四人の顔を見て聞くと、みんなは首を振った。
「幸福。平和。決して離れない。君たちが幸せでいてくれて、ずっと仲良く離れないでいてくれたら、Des Canaillesデ・カナリを教えていくことになる私は嬉しいだろうね」
昌喜の言葉はそれぞれの胸に深く届き、四人は静かに頷いたのだった。
美来たちは、Chez Naruseで理久の家族と三十分ほど話してからお暇を告げた。
その際、幸樹は理久に言われたことを実行するのを忘れなかった。
「父の会社がこの店で接待をした時に、相手の人たちがすごく美味しかったと喜んでいたそうです。父から聞いて、さすが伯父さんだと思いました」
「そうか。感想を聞かせてもらえてうれしいよ。今度はぜひ家族で食べに来てくださいとお父さんによろしく伝えておいて」
「はい。伝えます。ありがとうございました」
昌喜と佳奈が笑顔で見送る中、三人はレストランを後にした。
店の前の道路に出ると、家までたった五分の道のりなのに、幸樹が送っていくと言って、美来たちの後ろから自転車を引いてついてくる。
理久の家は、中学校から約一キロの距離で徒歩十五分ほどかかる。そこから五分ほど歩くと渚紗と美来の家に着く。幸樹の家は中学校から二kmも離れているので、この仲間内では一人だけ自転車通学だ。
自分の方が家が遠いのに、五分の道を送ってくれるところが、幸樹らしいと美来は思った。
四月中旬の五時代は、まだ日の入りまで充分な時間を残していて、休耕田に張られた水をきらめかせ、あぜ道に咲き誇るたんぽぽやしろつめ草の花に、柔らかな日差しを降り注いでいる。その光と戯れるように、空中をひらひらと浮いたり沈んだりしながら、モンシロチョウが舞い、少し先にある田んぼでは、シラサギが首を前に倒したままの姿勢で静止して、獲物に飛び掛かる隙を狙っていた。
「そういえば、クローバーの花と茎で首飾りを作ったよね。渚紗は上手に編んで、きれいな首飾りを作ったけれど、私は慣れてなくて、頭からかぶろうとしたら、途中で分解しちゃったの。たった一年前なのに、懐かしい気がする」
いつもは喋りすぎるくらいの渚紗が静かなので、美来が渚紗の気を引こうとして、ここに来たばかりのころの思い出を話すと、渚紗は一瞬明るい表情をしたものの、すぐに笑顔を消してしまった。
「でも、半分になった首飾りを、幸樹が繋いで花冠にしたんだよね」
「ああ、そういえば、そんなこともあったな。僕はプラモデルとかを作るのが趣味だったから、組み立てるのが大好きだったんだよね。でも見事に……」
「ドボーン」
三人が田んぼの脇を流れる小川を指さして笑った。
できた冠をかぶせるために、幸樹が立ち上がって美来の頭の上にかざした途端、びっくりした美来が両手で突っ撥ねてしまい、バランスを崩した幸樹が小川に落ちたのだ。
「理久は俺だけに美来は冷たいっていうけれどさ、僕だって十分虐げられてると思うよ」
「ごめん、ごめんね。あの時はびっくりしたのよ。故意じゃないってば」
二人が楽しそうにじゃれ合うのを見て、渚紗がぼそりと呟いた。
「理久は美来に本気でやり返すけれど、幸樹は冷たくされても、すごく気を使っているみたいに感じる。何か庇うっていうのかな?調理実習の時も、美来にひどいこと言うなって理久に怒ったし、今日のクレームブリュレの時も変だったし……」
「幸樹は優しいから、困っている人間を見捨てておけないのよ。私が好き嫌い激しいのを知っていたから、つい庇ったの」
「そんなこと、美来は私に言ったことないじゃない。どうして幸樹が知ってるの?」
勢い込んで尋ねる渚紗をなだめるように、幸樹が説明をした。
「僕が美来に聞いたんだ。調理実習の日にずっと不機嫌そうにしていたから、料理を嫌う理由が何かってね」
幸樹の横で、美来がそう、そうと大きく頷くのを見て、拍子抜けした渚紗が、それだけ?と確認する。うん、それだけと美来がにっこり笑って答える。
「でも、そんな理由なら、なおさら私に話してくれたっていいじゃない」
「それが、あれよ。えっと……マイナス面を知られたくないっていうプライド? 好き嫌いを直してDes Canaillesに参加する予定だったのに、中学生になっても治らなかったっていう努力と敗北感を知られたくない気持ちっていうのかな……」
「すご~く小難しいこと並べてるけれど、要はお子ちゃま舌を知られるのが恥ずかしかったってこと?」
「大正解!」
信じられない! と渚紗が笑い出したので、美来はよもぎの花言葉に託して、ずっと仲良くと昌喜が言ったのを無駄にしなくてよかったと安心した。
ホッとした途端に、口元に自然に笑みが広がっていく。
美来とは反対に、普段から作り笑いをする必要もなさそうな幸樹が、今は目を伏せたまま口の端を上げている。美来にはそれが、痛ましいものから目を逸らし、悲しみを堪えているように見えた。
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