第7話 調理実習
美来がいくら避けたいと思っても、刻々と時間は過ぎていき、とうとう四時限目の調理実習がやってきた。
張り切る理久を前にして、美来は素っ気なく、まるで今から虫取りにでも行くみたいに、はしゃぎ回る小学生のガキみたいと言ってからかってやる。
「どうして美来は俺にだけ辛く当たるんだ?何なら今から昆虫を捕まえてきて、フライにして出してやろうか?」
フヒヒヒヒと変な笑い方をする理久を、キモっと瞬殺して、美来は調理台の横に並べられたテーブルの下から、椅子を引っ張り出して腰掛ける。
ホワイトボードには、今日の献立と六人分の材料がすでに書かれていて、メニューが鰆のムニエルと野菜サラダとプリンと紅茶だということが分かった。
ムニエル:鰆6切れ、小麦粉、塩、コショウ、油
サラダ:各種野菜とドレッシング
プリン:牛乳三〇〇㎖/五〇〇㎖、卵3個、砂糖、ゼラチン
ミルクティー:紅茶のtea bag6個 プリン用の余ったミルク適量
「ものすご~く、オーソドックスな調理メニューだな」
理久の呟きを聞いて、美来は心の中でしめしめとほくそ笑んだ。
祖母が夕食の支度をするのを、時々手伝う美来には、このメニューのために用意された材料をアレンジして、他のグループよりも美味しいものを作るなんて無理だと思えたからだ。
理久の負けを確信した美来は、これでサイドメニュークッキングの部活に誘われることはなくなるだろうと心が軽くなった。途端にさっさと作って終わらせようという意欲まで湧いてくる。
ところが、理久は家庭科の白井先生に思いもよらない質問をして、美来を再び不安にさせた。
「先生。メニュー通りのものと、アレンジしたものを作ってもいいですか?」
「ああ、成瀬くん、確かお家がフレンチレストランのChezシェNaruseだったわね。でも、そのグループだけ特別なことを許すわけにはいかないわ」
「え~っ。だって、余分に材料をくれって言ってるわけじゃないですよ。それに、アレンジしたレシピは、みんなにも教えるから、家で作るときに同じ材料で二種類作れるよ。どうみんな?作ってもいいと思う?」
あちらこちらから、賛成!知りたい!と応援する声が響いたので、さすがの白井も了解せざるを得なくなったようだ。美来たちのグループは、理久の指揮のもとに、二種類の料理を完成すべく調理を開始した。
「まずはプリン。卵を使う通常のレシピと、紅茶プリンに分ける」
「紅茶プリンには卵は使わないの?」
渚紗の質問に対し、理久が使わないと答えてから、良い質問だと褒めた。
「プリン用の卵三個のうちの2個を、ムニエルをアレンジしたピカタに使う。卵を使わなくてすむ紅茶プリンは四個作るつもりだ。残りの卵一個で普通のプリンを二個作るから覚えておいて」
理久の素早い頭の回転と指示に、最初みんなは圧倒されたが、言われるままに普通のプリンと紅茶プリンの分量に必要なゼラチンを分けて溶かす。
「お菓子はね、きっちり材料を量ることが大事なんだ。砂糖もミルクも小麦粉も、レシピ通りぴったり量ると美味しいものができる。美来、何びっくりした顔してるんだ?聞きながらでいいから手を動かして。渚紗は鍋に牛乳三〇〇㎖とグラニュー糖大さじ3杯入れて中火で溶かして。フツフツしてきたら、紅茶のティーバッグ二個を入れて二、三分で取り出す」
美来は普通のプリンをレシピ通り作っていた。グラニュー糖と水をフライパンで煮詰めて作るカラメルソースの香りが鼻をくすぐり、グループのみんながいったん手を止めて、う~~んいい香りと大きく息を吸う。揃った仕草に顔を見合わせた仲間たちが破顔する。
すぐに固まってしまうカラメルソースをプリン型に入れると、美来は卵と牛乳を使ってプリンのもとを作り始めた。
渚紗が担当する紅茶プリンも首尾よく進み、プリンと同じように氷水で冷やして、とろみをつけてから冷蔵庫に入れられる。蒸し器を使わないレシピなので、固まれば出来上がりだ。
プリンが終わった女子は、家事に慣れている美来の指示で、サラダ用の野菜を洗う者、お皿を用意する者に別れて仕事を進め、男子チームは理久の教えのもとで鰆に取り掛かっていた。
「鰆は二匹がムニエルで、四匹をピカタにするよ。ピカタは下ごしらえがムニエルと同じだ。鰆に塩コショウをしてから十分ほど置く。ムニエルはこのまま小麦粉をつけて焼いて、ピカタは溶き卵につけてから、小麦粉を薄くまぶして焼く」
二つのフライパンがコンロに載せられて火にかけられる。グループ内の男の子一人と女の子一人が、フライパンにバターとサラダ油を入れ、ピカタとムニエルをそれぞれのフライパンに並べた。
ジューッという音と共に、バターの黄色の泡が魚を取り囲むように湧き出て弾け、香ばしい香りが立ち込める。あとは焼きあがるのを待つばかりになった。
これだけでもすごいと美来は舌を巻いたのに、サラダが普通すぎると不満気に言った理久が、腕を組んで考える様子にみんなの期待感が高まる。
「幸樹、庭に置くもので何かいいオブジェを知らないか?」
「何だ急に?庭って言ったら、ガゼボとかガーデンテーブルとイスじゃないか?噴水とかベンチブランコもあるな」
「さすが、将来の建築家!よし、面白いことをやろう」
いたずらっ子のように目をくりっと動かすと、理久は残ったグラニュー糖と水をフライパンにかけて水あめ状態にした。カラメルソースのような甘くて苦みのある香りが鼻孔と喉に絡まって、周囲で見ていた仲間の肺を満たす。
理久に指示されて渚紗が玉じゃくしを渡し、クッキングペーパーを調理カウンターに敷き詰めた。
理久は、溶かした茶色の飴上のものをフォークですくうと、クッキングペーパーの上で玉じゃくしをゆっくり回しながら、縁をなぞるように垂らしていく。
「理久何してるの?この茶色のは何?」
渚紗が黙って見ていられなくなり質問をすると、理久がフフフと謎めいた笑いを漏らした。
「シュクレフィレって聞いたことないか?」
「デザートの上に載った糸状のモワモワした飾り?」
「正解!さすが渚紗だ。フレンチの勉強をよくしているね」
しゃべりながらも理久が手に持ったフォークが器用に動く。玉じゃくしの縁をなぞってできた丸い輪っかに網をかけるように、糸を縦横に垂らしてドーム状の背を覆っていく。
フォークを一旦置いた理久が、玉じゃくしに塗られたシュクレフィレに手を添え、カポッと取り外してクッキングペーパーの上に置いた。
おおっ!とメンバーたちから歓声が上がる。美来も半円形の網を目にして、思わず拍手をしてしまった。
理久はまだ手を止めず、今度はクッキングペーパーの上で飴を長方形に伸ばして、2枚の板を作った。そして、大皿の上に、接着剤代わりに飴を少し垂らすと、作った2枚の板を平行に立てる。その上に半円の網を載せてから、2枚の板の隙間を片側だけ、縫うようにしてシュクレフィレを渡して格子のような壁を作った。
幸樹が目をまん丸にして作る過程を見つめていたが、完成を前に大声で叫んだ。
「ガゼボだ!理久すごいな。食材でこんなものが作れるなんて感動したよ」
美来と渚紗も大はしゃぎをしながら、大皿の上のガゼボの周りにレタスやクレソンを飾り付け、ガーデン風サラダを作り上げた。
そのころには他のテーブルからも手の空いた生徒たちが見に来て、すごい!マジやばい!を連発しながら、自分たちのテーブルに走って戻り、仲間たちに報告をした。
きれいに焼きあがったムニエルとピカタを白井先生が写真に収めた後、理久が三等分ずつにカットして、ピカタ二切れ、ムニエル一切れをセットにして、それぞれの皿に盛った。
皿を囲むグループみんなの顔が、特別メニューを作った自信で輝いている。友人たちと一緒に作る料理は楽しくて、美来は理久のアイディアや素晴らしいパフォーマンスに、ただ、ただ感動して、他のグループのメンバーから送られる称賛の言葉を素直に嬉しく受け止めた。
「どうだ?俺のこと見直した?」
得意げに鼻をひくひくさせている理久が、いつもの夢を追うだけの甘っちょろい少年のイメージから昇格して、美来の目には頼もしく映った。
「さすが今話題のシェフの息子だけあるなって、ちょっとびっくりした」
いつも自分に対して辛辣な美来が素直に褒めてくれたので、調子にのった理久が片手を耳にあて、もう片方の手をクイクイッと上に煽り、もっと褒めてと催促をする。
せっかくかっこよく決めても、こうお調子者の性格では、シェフというよりコメディアンの方があっているんじゃないかと美来は思わず笑ってしまった。
「理久の名前って、料理の理の字が入っているじゃない?きっとお父さんが思いを込めてつけた名前なんじゃないかな?理久は期待に押しつぶされない強さや、料理人の資質が備わっているから、将来成功すること間違いなしね」
理久が目をまん丸にして絶句している。もっと褒めてというゼスチャーに対し、いつも通り調子に乗ってと美来からデコピンされるとでも思っていたのか、手が防御の構えを取っていた。それなのに、美来から思わぬ称賛を受けたので、驚きすぎて言葉もなく、理久の口が開いたり閉じたりしている。渚紗と幸樹が池の中の鯉みたいだと噴き出した。
「俺、今まで生きてきた中で、一番感動した」
今度こそ美来にデコピンを食らいそうになった理久が、慌てて美来の手を掴んで阻止すると、いや、本当だって、嘘じゃないと大きな声で叫んだ。
壇上で食事の開始を告げようとしていた先生から静かにしなさいと注意を受け、理久は肩を竦めてすみませんと素直に頭を下げたものの、大人しくするどころか、椅子をガタガタ言わせながら美来に寄せて小声で囁いた。
「あのさ、美来の名前だって音だけ聞けば、料理に関係しているんだぞ」
「私の名前がどうして料理に関係するのよ」
「味の蕾って書いて、“みらい”って読むの知ってるか?舌や口の中には味を感じる細胞が……」
「気分悪い」
「はぁ?」
「自分の名前が口の中の細胞と一緒だって言われて、喜ぶ人間がいる?デリカシーなさすぎ!そんなこと言われたら、気持ち悪くて自分の名前が嫌いになりそう」
「ちょ、ちょっとそんなに過剰に反応しなくてもいいじゃないか」
理久がおろおろしている間に、頂きますの合唱が響き、クラスメートたちが手にしたナイフとフォークの立てる音が、あちらこちらから聞こえてくる。美来も理久を無視して、小さく切ったムニエルを口に入れた。
美来の横からは理久が、テーブルを挟んだ斜め前からは幸樹が、美来の食べる様子を窺っている。
美来は口の中でムニエルの欠片を転がして触感を確かめた。
ザラザラとした硬い舌触りは、鰆をコーティングした小麦粉のデンプンが、加熱されて表面がカリカリになったせいだ。歯を立てるとパリッと乾いた音がして、鼻から煙いような焼き物の香りが抜ける。
外のパリパリ感とは反対に、中の柔らかな身を噛んで、噛んで、噛んで、唾液がまぶさってペースト状になるほど噛んで、これ以上口に入れておいたら唇の端から漏れてしまうのではないかと思うところで、ぐっと顎を引いて強く喉の奥に押し込んだ。
美来が無表情で食べるのは、自分が変なことを言ってしまったせいだと思ったのか、理久は何も言わずに静観している。ムニエルの一切れを飲み込んだ美来が、今度はピカタにトライするのを目にして、理久の表情が怖いほど真剣味を増す。
美来を部活に引き込むために出した条件を、クリアできるかどうかがかかった一瞬だ。アレンジしたピカタの方を美味しいと言ってもらいたがっていることが、表情からありありと伝わってきた。
いつまで待ってももぐもぐと口を動かすだけの美来に、理久の我慢も限界に達していた。
自信はあるが、実際に聞くまでは安心できないし、それ以上に、美来がこういうのを自分も作りたいと言うのを聞きたくて、今、また、黄身で覆われたピカタが美来のきれいな形の唇へと吸い込まれていくのを見守る。
もぐもぐもぐと美来が何度も咀嚼する。今か、今かと待っていても、美来は何も言わずに飲み込んで、もう一切れを口に入れた。今度は4、5回しか咀嚼せずにぐっと飲み込んでしまう。
あれっ?ムニエルに比べるとだんだん、食べ方が荒くなってきてないか?と不安になり、理久は思わず聞いてしまった。
「なぁ、味どう?うまいか?」
「ムニエルに比べると、ピカタは最初からフワフワ感があって中身もジューシーな感じがする」
「おっ、分かるか?そうなんだ。卵がうまみ成分の蒸発を防ぐんだ。旨いだろ?」
「渚紗はどう思う?どっちが美味しい?」
美来の隣で食べることに集中していた渚紗は、いきなり自分に振られた質問に一瞬戸惑ったが、口に入れたものを念入りに味わうような顔つきになり、う~んと迷った末に答えた。
「私はムニエルの方が好き。ピカタももちろん好きだけれど、食べた時にパリッとした感覚と、小麦粉が魚のうまみを吸っているみたいで、最初濃い味が舌で味わえるのが好き」
「…だって。私より解説がうまいね」
ピカタよりムニエルの方が美味しいと言われて、がっかりした顔の理久に、幸樹や他のメンバーたちが、ピカタの方が好きだと応戦する。三人の中でも幸樹が一番ピカタを気にいったようで説明にも力が入った。
「いや、断然ピカタでしょ。ムニエルは最初インパクトがあるけれど、旨みが外に固まってしまって、中身が薄く感じられる。ピカタはその逆で、優しい味から入って、噛むと濃い旨みが出てきて、もっと噛んで味わいたくなる」
他の二人のメンバーも、そうそういいこと言うと、首を大きく縦に振って幸樹に同意したので、理久を除き、ピカタを押す人間が三人で、ムニエル派は渚紗と美来の二人になった。
「え~っ。幸樹くんピカタ好きなんだ。私もどっちかっていうとムニエルって言っただけで、ちゃんとピカタも好きって前置きしたからね。うん、話を聞いてから比べてみると、私もピカタかな」
渚紗が幸樹に合わせて簡単に意見を覆したので、女心って好きな子次第で、どうにでも動いちゃうんだと美来はあっけにとられてしまった。そちらに意識が向いていたせいで、いつもの癖でほとんど噛まずに飲み込んでしまったのを、理久に見咎められる。
「お前、噛むの少なくないか?もっと味わって食べろよ」
「……理久だって、サラダほとんど食べてないじゃん。野菜が苦手だから、大皿に盛って他の子に食べさせようとしたんでしょ?」
今度は理久が一瞬言葉に詰まり、テーブルを挟んで前に座る幸樹に目で助けを求めるが、あてにした幸樹もバツが悪そうに横を向き、同じく困った表情のもう一人の男子メンバーと顔を見合わせた。
結局、この年代の男の子たちは、野菜がそんなに好きじゃないんだろうかと美来の頭に疑問が湧く。声変わりして身体もうんと大きく成長した割には、中身はまだ子供なんだと思うと笑いが込み上げた。
食べ物の咀嚼回数が少ない分、みんなより早く食べ終わった美来は、紅茶とデザートの用意を始めた。
六個あったティーバッグの二つをプリンに使ったので、片手鍋に湯を沸かし、四個のティーバッグを入れて抽出した後、六客のカップに分け入れる。そのあと、本当ならもっと冷やした方がいいプリンを冷蔵庫から出して、紅茶プリンと普通のプリンとどちらがいいかをみんなに尋ねた。
「俺、美来が作ったプリンが食べたい」
美来の斜め前に座っていた女の子が答えようとしていたのを差し置いて、理久がずうずうしくも手を上げて希望をのたまう。答えたもの勝ちとばかりにあとのメンバーも続いて、幸樹もプリンを選び、あとのメンバーは紅茶プリンときれいに分かれた。
幸樹が美来の作ったプリンを選んだことで、渚紗が気落ちしたのを感じ取った理久が、卵入りのプリンを口に運びながら、成長過程の男はタンパク質が必要なんだよなと嘯うそぶいたので、リアルすぎて気持ちが悪いとみんなが失笑した。
「どう?理久美味しい?」
笑いが収まるのを待ちかねて、美来が期待を込めた目で理久に聞くと、理久が明後日の方向を向きながら、もぐもぐとずっと口を動かしている。
「理久、いじわるしないでよ」
理久はちらりと美来を見てから口をへの字に曲げ、周囲を気にしながら美来の耳元で囁いた。
「先にやったのは美来だろ?反抗的なのがかっこいいと思ってるのか知らないけどさ、女の子なんだからもう少し素直な態度で可愛くなれよ」
美来は反論したい気持ちを飲み込み、ぐっと拳をにぎりしめて間違った批判に耐えた。
黙っていれば、また反抗的だと思われそうなので、場を凌げそうな理由をぼそっと呟く。
「だって、魚嫌いなんだもん。それに、好き嫌いが多すぎて食べられるものが限られるから、理久の目指しているクラブには向かないの」
「はぁ?そんな理由?…ってか、お前、クールな振りしてるだけで、中身がお子ちゃまなのか?中一にもなって好き嫌いってどんなんだ」
理久があっけにとられすぎて、声を潜めるのを忘れたために、みんなの視線が集まった。
二人の会話に最初から耳をそばだてていた幸樹が、美来の言葉の真意を問うような真剣な眼差しを向けてくる。その視線を避けるように目を逸らし、美来は理久の方を向いて人差し指を口に当てると、声を小さくするように注意した。
「好き嫌いが理由なら、美来が感想を焦らしたわけでも、意地悪をしたわけでもないって分かる。今のは俺が悪い。酷いこと言ってごめんな。でも、正直に言うと、プリンはあまり美味しくない」
美来の顔がみるみるうちに曇り、花がしおれるように俯いてしまった。理久には美来の顔が緩く編んだ髪と解れ毛に隠れて見えないが、斜め前に座る幸樹には、眉を寄せた美来の顔が、今にも泣きだすように思えて黙っていられなくなり、理久に対して珍しく声を荒げた。
「理久、お前の方がよっぽど質が悪いよ。女の子なんだから、反抗的な態度をやめて素直になれと言いながら、素直になった途端、厳しい言葉を浴びせるって、どれだけ酷い嫌がらせするんだ?お前そんなに捻くれていたか?」
「あ~ごめん。違う!言葉が足りなかった。学校の限られた材料で作ったのを考えれば、美来の作ったプリンはすごくイケてる。だけど、本物のプリンは生クリームやバニラビーンズを入れるし、液をこして滑らかにして、蒸し器で蒸すんだよ。要は腕じゃなくて材料の問題。美来ごめんな」
俯いたまま美来はうんと頷いたけれど、涙目になったのを見られたくなくて、顔が上げられないでいた。でも、材料のせいで本物より劣るけれど、レシピ通りに作れた点ではすごくいいと言われたことが嬉しくて、美来は声が掠れないように注意しながら理久に尋ねる。
「私は好き嫌いが激しいから、味見もできないし料理は無理だって思っていたけれど、お菓子なら大丈夫かな?他のお菓子でも、レシピ通りに作れば、私にも美味しいものが作れると思う?」
「できるさ。材料を混ぜ合わせるのを見ていたけれど、言われなくても泡が立たないように丁寧に混ぜていたし、美味しいものを作ろうとする真剣な気持ちが伝わってきて、こいつ本当は料理をするのが好きなんだなって思ったよ」
美来が頷いたときに、白井が片付けるように声を上げたので、一斉に立ち上がる椅子の音で話が中断された。
そろそろ給食を食べ終わった他の教室の生徒たちが、外に出るころだ。廊下に響くざわめきが、一階に降りてくる生徒たちのはしゃぎぶりを伝えてくる。
美来たちも食器の後片付けを分担して、早々と調理室を後にした。
渚紗はグループ内の女の子とずっとしゃべっているので、美来は先に教室に戻ると告げると、団子になって廊下を歩く仲間たちから抜け出して先を急いだ。
今はお菓子作りが成功したことを、一人でかみしめたかった。
「美来、ちょっと待って。話をしたい」
美来が急ぐ後を大きなスライドで難なく距離を詰めた幸樹が、美来が顔をしかめるのにも構わずに、腕を引っ張って教室とは違う渡り廊下へと連れていく。美来は身をよじって幸樹の手から逃れ、ぞんざいな態度で何?と聞いた。
「何か僕たちに隠していない?好き嫌いが激しいなら、最初からそう言って、理久の誘いを断ればよかったのに、今更言うのは変じゃないか?」
美来はそっぽを向いて、答える気がないことを示したが、幸樹の追求は緩まなかった。
「もしかして、味が……」
美来の中で、ここに来てから眠っていた心の棘が逆立った。自分を守るために備わった怒りが荒ぶって、幸樹に向かっていく。
「幸樹、うざいよ!一体何なわけ?私のことを知ってどうする気?理久は料理をする人数が欲しいから、私に付きまとうのは分かるけれど、幸樹がやっていることは意味不明。それとも、私が仲間になる資格もないって理久に告げ口してみる?」
「そんなことはしない。美来の力になりたいんだ」
美来はふっと力なく笑うと、おもむろに顔をあげて幸樹を冷たい目で見つめた。
「どうやって?舌を取り換えてくれる?味が全然分からない舌で、美味しく食べろって言われたり、感想を求められるのがどんなに辛いか幸樹に分かる?」
幸樹の顔色が変わった。
「そんな……全く感じないなんて……でも、最初会った時に誘った時は、全然そんな素振りを見せなかったじゃないか」
「こっちへ来た時は味覚がおかしくなりかけていた時だったの。1週間も経たずに全く味を感じなくなったわ」
ほんの少しだけ味覚がおかしいのではないかと想像していた幸樹は、それがとんでもない勘違いだと分かり、ショックで言葉が続けられない。
サイドメニュークッキングに誘い続けた時に、美来が取り乱すこともなく、興味なさげに断っていたことを今更ながらに思い出し、美来の心中はどんなに波打っていただろうと考える。知らないうちに自分たちが美来にしていた残酷な仕打ちを考えると恥ずかしくて、消えてしまいたくなった。
「医者にはかかったの?」
「一度ね。虐待による心理的ストレスによるもので、一時的かもしれないし、治らないかもしれないっていうから、行くのをやめたの」
幸樹の目に現れた後悔と同情を読み取った美来が、首を振りながら後退った。
「そんな目で見るのはやめて。誰にも言わないと約束して。かわいそうな子とも思われたくないし、人のうわさ話に載せられるのはもうたくさん。それに、あの親たちの仕打ちに負けたなんて思いたくない」
美来の喉からしゃくりあげる音が漏れる。幸樹が自分の無力さに俯くと、美来は踵を返して、渡り廊下から中庭に飛び出し、校舎の裏へと走っていった。
『なぁ、味どう?うまいか?』
頭の中で、美来に尋ねる理久の声がする。
私は触感しか伝えられない。パリッとしている。柔らかくてジューシー。
でもムニエルもピカタも味がしない。
口の中でドロドロになっていくものが気持ち悪くて無理やり飲み込む。噛むのも面倒だから知らないうちに回数が減る。
『お前、噛むの少なくないか?もっと味わって食べろよ』
本当は言いたかった。
「ほっといてよ!何回噛んだって味わうことなんてできないのよ」って。
この1年間、口に入れるときにどんなに味がするのを願ったことか。
でも、大好きなお菓子も、果物も甘さを感じられない。
『あのさ、美来の名前だって音だけ聞けば、料理に関係しているんだぞ』
『私の名前がどうして料理に関係するのよ』
『味の蕾って書いて、“みらい”って読むのを知ってるか?舌や口の中には味を感じる細胞があって……』
いくら音が同じでも、味なんてしないよ?理久のバカ!大嫌い!大嫌い!残酷なこと言わないでよ。
校舎の裏の木立まで走ると、堪えていた嗚咽が漏れて、美来は余計に悲しくなった。
ぼたぼたと涙が地面に濃い染みを作っていく。止めたいのに一度漏れだした悲しみは止めることができず、横に開いたままの口から息と一緒に泣き声が尾を引いた。
おばあちゃんがあんなこと言わなければ、理久たちと料理の話でつながることもなかったのに……
心の中では祖母は悪くないと分かっていても、その言葉が蘇って美来に追い打ちをかける。
『美来はいい子だね。食べることが好きな子は、おいしい食事が作れるようになる。美来だけを思ってくれる優しい男性と家庭を持てるよ』
祖母が言う通り、美来は食べることが好きだった。
でも、もう美味しいかどうか判断できない舌では、味見もできないし、好きな人ができても、料理を作ってあげることもできない。
美来が悲観的になった途端、ふいに調理実習での理久との会話が浮かんだ。
『私は好き嫌いが激しいから、味見もできないし料理は無理だって思ってたけれど、お菓子なら大丈夫かな?レシピ通りに作れば私にも美味しいものが作れると思う?』
『できるさ。材料を混ぜ合わせるのを見ていたけれど、言われなくても泡が立たないように、丁寧に混ぜていたし、美味しいものを作ろうとする真剣な気持ちが伝わってきて、こいつ本当は料理をするのが好きなんだなって思ったよ』
理久の言葉がほんの少しの希望となって、美来の胸の中に漂った。
絶望の中でおぼれそうだった美来は、浮かび上がった小さなブイに縋りついて叫んだ。
「理久、理久。助けてよ。お願いだから教えてよ。味が分からなくても本当に美味しいお菓子が私に作れるの?もう一度料理することが好きだと思わせて」
泣き疲れた美来は、木の幹にぐったりともたれているうちに眠ってしまった。
次の授業に姿を見せない美来を心配して、理久と幸樹と渚紗が学校中を探し回って、ようやく木の陰にいるのを見つけて駆け寄ったが、美来はぐったりとして身動ぎもしない。
ひょっとして気を失っているのではないかと心配になり、三人が必死の形相で呼びかけるうちに、ようやく美来は目を覚ました。
美来は、自分が外で寝てしまったことを知り、仲間に心配をかけて授業をさぼらせてしまったことを詫びた。渚紗が無事で良かったと言いながら、心から安堵した様子で美来を抱きしめる。もう一度ごめんと言いかけた時、理久の表情が強張ったままなのに気が付いた。
美来は一瞬幸樹が秘密をばらしたのではないかと疑ったが、理久が口を開いたことで誤解が解けた。
「あのさ、美来の好き嫌いを知らずに強引に部活に誘ってごめんな。ひょっとして美来を追いつめたんじゃないかと思って、探しながら後悔したよ。もう誘わないから安心しろ。だから今まで通り……」
「あのね、理久。わがままだと思うかもしれないけれど、お菓子を作る日は仲間に入れてほしい」
クラブの誘いから解放されることを、美来は喜ぶだろうと想像していた理久は、美来からの提案に戸惑いを見せながらも頷いた。
「お菓子か……分かった。サイドメニューだけでなく、お菓子も作ろう」
「理久……ありがとう」
理久が照れながら立ち上がり、ほらと手を伸ばして、木にもたれていた美来を助け起こす。
「いつも礼なんか言わないくせに、なんか調子狂うよな。おっし!デザートも考えるぞ~!」
ようやく美来から良い返事をもらえて、部活設立へ一歩近づいたことを喜ぶ理久と渚紗をしり目に、幸樹だけが痛ましいものでも見るような表情を浮かべて美来を見つめた。
それを跳ね返すような怖い表情を作り、美来が幸樹を諫めにかかる。
その目は、同情なんていらないと語っていた。
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