奇妙な旅人・4

 当然の如く熟睡することは叶わなかったが、陽が昇り始める前には目を覚ました。穴ぼこだらけの天井からのぞく、青紫色のトワイライトの空を眺めたあとでシイハは身体を起こした。


 焚き火は相変わらず燃えていて、向かい側に眠る少女の血の気のない顔をちらちらと照らしている。


「眠れたの?」

「おや。起こしてしまいましたか」


 ユイは目蓋を閉じたまま、首を横に振った。


「ずっと起きてた」

「それはもっとよくない。今からでも休んでください」


 む、と唸ったあと、ようやく目が合う。明け方の、これから昇る太陽のような、赤い瞳だった。


「貴方と話したら、胸がどきどきして眠れなかったの」

「えっ、いやあ。その。そう言ってもらえるのは光栄ですけど、私たちまだ出会ったばかりで──」

「蜜を集める虫の話」

「ああ、そっち……」


 ユイが同じように起き上がり、いまだ燃え続ける燃料を不思議そうに見つめた。


「この廃墟の外には、わたしの知らない世界が広がってる」


 シイハは燃料に砂をかけて火を消すと、石ころのようなそれを小袋にそっと仕舞った。燃えてさえいなければ呼吸のように一瞬で熱を吐き、温度がさがる。


「陽が昇ってしまう前にここを発ちます。短い間でしたが、色々と話せて楽しかったですよ──ユイ」


 慣れた手つきで散らかった荷物を纏め、防塵ゴーグルと麻のローブを装着する。くるりと背を向けた瞬間、それまでじっと様子を窺っているだけだったユイが、唐突にローブの端を掴んだ。


「わたしも一緒に連れていって。旅人さん」

「それはできない相談だ」


 振り返らずに即答して、シイハは取り繕うように笑った。


「知識と経験がある者ですら、旅をするには常に危険がつきまとう。無知なら尚更、旅路に命を捨てにいくようなものだ」


 ユイの手の中からするり、と、ごわごわした布地が名残惜しそうに抜けていく。


「お元気で」


 崩れた壁をひょいと飛び越え、大きなリュックが左右にがたごとと揺れながら遠ざかる。やがて、ごうっと吹いた茶色の砂煙に紛れ、その姿は見えなくなった。


「……お別れ、ちゃんと言えばよかったな」


 ぽつりと呟いた少女の肩を、いつの間にやら背後に立っていたリラが静かに叩く。もうそんな時間か、とユイは頷いた。


「おはよう、ユイ」

「……おはよう」

「さあ、いきましょうか」


 ***


 生まれてから一度も立ち入ったことのない、地下への入り口に向かって歩き始める。廃墟は全体的に遮蔽物が少なく、拓けた地形だが、シイハと焚き火をしていた場所からちょうど見えない位置に、それはあった。


 岩と岩の間にひっそりと佇む、重そうな鉄扉が少しだけ開いている。リラがわざと開けておいたのだろう。ユイがここに、自ら足を踏み入れることを喜んでいる。


 ユイは何も言わず、振り返りもせず、暗い地下室の奥へと進んだ。松明がちらちらと岩壁を照らしている。

 剥き出しの足がざらついた砂粒と、何か固いものを踏んだ。足元の一面に散らばるそれは脆く、軽く体重をかけただけで粉々に砕ける。微かな明かりの中を注視すると、それは綺麗に肉を削がれて廃棄された人骨だった。


 その小さな背中に、リラがたったひとりだけで着いてくる。


「昨日は久しぶりに外から人がきて、驚いたわね。食べられなかったのは残念だけど」


 買い物にでもいくような、楽しそうな口振りだった。


「彼ったら、まるで肉がないんだもの。あれで顔が不細工だったら、とっくにバラして首飾りにでもしていたところよ」

「…………」


 四角いベッドのような石の台座のうえに、ユイは横たわった。背中に鉄臭い液体が染み込む、冷たい感触がする。暗くてほとんど何も見えないが、ここがどういう場所かは知っていた。少なくとも死んだ姉妹たちは、ここに入ってから出てくることはなかった。


「何も言い遺すことはない?」

「こんなことはやめてと言ったら?」

「やめる? どうして?」


 段々と、彼女の声に怒気が混じってくるのがわかった。リラはこの話題になると、我を忘れたように感情的になってしまう。子どもの頃は叱られるのが怖くて、それ以上何かを言うことはなかった。けれども、もう――彼女を説得するのは、これが最後だから。


「ああ、貴女は最期まで愚かな妹だわ。私たちラヴィが人の肉を食べずに生きていけるだなんて、本気でそう思っているの? これは自然の摂理よ。神様が私たちをそんな風にお創りになったの。人の肉が獲れない以上、同族を殺して食べるしかない。だってもう、食欲を抑えられないの……!」


 わかっていた。次は私が食糧になる番。この前はあの子とあの子の番だった。順番なんてない。ただなんとなく、神様がそう決めたのだから、とリラは言った。


 ユイはぼんやりと虚空を見つめながら、真上に広がる暗がりの光を数えた。赤く点滅するそれは、眩い松明の残光であったが、姉妹たちの飢えた赤い目に見えて恐ろしかった。

 がち、がち、と鎖の擦れる音がして、そこに封じられていた首斬り斧が視界をちらつく。手にしているのはリラだ。大振りの刃は錆びていて、切れ味は期待できそうにないが、重さに任せてユイの細い首を捻じ切るくらいならば容易いだろう。

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