第2話 さやかという少年


 さやかは当時十四歳だった。さやかはUJのヒーローであり、そして同時に僕のヒーローでもあった。僕らは暇さえあれば、いつもさやかの話をした。さやかは強くて、美しくて、そして不思議な少年だった。 

  

 彼はこの街で誰にも心を許すことなく、孤独だった。さやかは持って生まれた「想像力」でこの街を生き抜いていた。この街では想像力がものを言う。学歴もいらない、お金もいらない。想像力さえあれば、僕とUJのようにビルの屋上から街に飛び降りることもできるし、シリンダーポオルと会話することだってできる。


 UJとさやかは割と年も近く、同性ということもあり、二人で遊ぶ機会も多かった。とはいっても、彼らは何もしないで自分達にとって心地よい場所を街の中に見出だすと、そこに座り込み、特に何も話さずにただぼんやりと過ごすことの方が多かった。そこにはいわゆるコミュニケーションは存在しなかったけれど、その間は、さやかが自分に気を許している姿をUJははっきりと見ることが出来たし、UJにとってはその時間がかけがえのない大切なものだった。

 

 二人はお互いをとても大事に思っていた。


 でも、そう思っていたのは、もしかしたら俺だけだったのかも知れないな。といつだったかUJは言っていた。

 でもなければ、さやかは街を出て行ったりしなかったはずだと。

 「自分だけがさやかにとって特別だと思ってたんだ。俺はさやかを理解してるつもりだったんだよ。馬鹿みたいだよな。」

 そう言って笑うUJがすごく寂しそうで、僕はその時初めて、UJのことを置いて黙って街を出て行ったさやかのことを意地悪だと思った。


 僕は実際にはさやかのことを何も知らない。さやかがこの街を出て行ったのは、僕がUJと出会うよりも、ずっとずっと前のことだったからだ。でも僕はこの街に来てUJと出会い、以前この街に住んでいたというさやかの存在を知ることになった。

 


 そして僕はすぐにその不思議な魅力のある少年のとりこになった。


 

 それから僕は暇さえあれば、まるでおとぎ話をせがむ子供のように、さやかの話をして。とUJにねだった。しかしUJの口から話されるさやかは、決しておとぎ話の中の偶像なんかではなく、鋭くリアルな存在として浮かび上がり、はっきりと僕の心臓を打った。僕はその存在をより近くに感じるために、UJの目をじぃっと覗き込んで彼の話を聞いた。その瞳の中に、はっきりとさやかの姿を見ることが出来たから。

 UJの真鍮のような黒い瞳を見ていると、現実と思い出話の境目がゆらゆら揺らいで、自分が今どこにいるのかわからなくなり、結局いつも目を逸らすことになった。






 全身を突くような痛みで、目が覚めた。

どうやら僕は屋上のアスファルトの上で、眠り込んでしまっていたらしい。

長い夢を見ていたような気がする。硬いアスファルトで長時間眠っていたせいで体がひどく痛む。

 僕は時間を確かめようと左腕を上げた。しかし僕の左腕はまるで油の切れた機械のアームにでもなったかのように硬く重くなっていて、腕を顔の前に持ってくるだけで、長い時間がかかってしまった。あまりに腕の動きが鈍いので、僕は首と肩を起こして腕時計を覗き込んだ。針は4時を指していた。



 ど っ ち の だ??



 地面に背中を下ろし、鼻で大きく息を吸い込むと、アスファルトからは温かく湿った匂いがした。

 夕方の、4時だ。

 頭の後ろでカチャカチャと食器がぶつかりあう音が聞こえた。UJはいつの間にか街から帰ってきて、食事の仕度に取り掛かっていた。

 もちろん誰も住んでいないこのビルの屋上にまでガスや電気が通っているはずはなく、食事の仕度といっても街で貰ってきた出来合いの料理を皿に盛りつけるだけの簡単な作業になる。


 「やっと起きた。できたよ昼飯」

 UJは、テーブルに手際よく皿を並べていった。僕らがこのビルの屋上で生活しようと決めた頃、僕が記念にUJにプレゼントした手製のテーブルだ。

 不器用な僕が造ったそれは本当にひどい出来で、テーブルというよりも木材のかき集めと言ったほうがふさわしかったけど、彼は地面で食うよりマシだと言って、いつもそのテーブルを好んで使った。UJはぶっきらぼうだけど優しい。


 「昼ごはん?今、夕方の4時だけど」

 僕がそう言うと、UJはきょとんとした顔をした。

 「え?ああ、だってお前も俺も、昼飯、食ってないじゃないか」

 「そうだけど。そういえば、ああ、僕、朝ご飯も食べていなかったっけ」

 頭の後ろをボリボリ掻きながら、寝ぼけた頭で記憶を辿る。言葉にすると、無性にお腹が空いてきた。


 小さなテーブルにはチーズとハムのサンドイッチにミニトマトとレタスのサラダ。何かの肉団子に甘辛いタレのかかったやつ。(ハムは大豆で、肉団子は豆腐で作られている。この街の住人は、肉も魚も食べない。)そして、あたたかい淹れたてのコーヒーがテーブルの上で窮屈そうに並んでいた。

 

 僕はコーヒーにたっぷりとミルクを入れた。ミルクはコーヒーの中でくるくると渦巻いて、不思議な図形をかたどって見せた。そしてそのくるくると気まぐれに姿を変える丸くて不思議な形を見ているうち、僕はふと、大切なことを思い出した。

 約束の時間は4時半で、腕時計は4時15分を指していた。

「どうかした?」

 時計を凝視している僕を見て、UJが手についた肉団子のタレを舐めながら言った。

「ごめん、約束を忘れてた。とても大事な約束なんだ」


 僕はそれだけ言って急いで身支度をした。揃えてあったスニーカーを履き、汗で汚れたシャツを新しいものに着替え、ハンモックの下に置いてあった工具箱から鋏と木工用ボンドを取り出すと、青いポリバケツに詰めてタオルでふたをした。

 サンドイッチを可能なだけ口いっぱいに頬張ると、コーヒーで流し込み、そのまま数百メートル先の街に向かってダイブした。

 しかし着地時にバケツの中の道具がバラバラと地面に飛び散ってしまい、それを拾うのにまた5分、余分にかかってしまった。

 ああ、やってしまった。見事に完全な遅刻だ。

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リハビリ・ダイバシティ macbookair @macbookair

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