第10話 ローズ

王太子宮で生活することになってから数日後。名前を聞かれた少女は、名乗らなかった無礼を詫び、「ローズ」と答えた。


王太子妃の名をいただくグレース孤児院で、シスターたちに付けてもらったリゼという名前は言わなかった。ローズという名前の孤児はグレース孤児院にはいない。ローズという名前になれば、何か失態を起こしても、育ててくれた孤児院に叱責が及ぶことは避けられる。シスターや仲間たちを巻き込みたくなかった。悲しい思い出のある名前と、別れたかったのもある。


 王太子宮にはたくさんの薔薇が植えられていた。好きな花の一つだ。だから、ローズという名になることにした。

 

 今日も、まだ薔薇の咲いていない庭に迷い出たローズは、溜息を吐いた。


 王太子宮の構造は分かりにくい。外観は左右対称だが、一歩中に入ると複雑な構造であり、慣れていないローズは迷ってしまう。夜、寝間着で途方に暮れていたローズを見た侍女が、悲鳴を上げたことは一度や二度ではない。


 数日たち、ローズ自身も、迷うこと慣れた。誰彼となく尋ねることにした。覚えることを半ば放棄したのだ。ロバートというアレキサンダー王太子の腹心らしい近習は、逆にすべて覚えているらしい。ローズにわかりやすい通り道をいくつか教えてくれ、まずはそれだけ覚えるようにと言ってくれた。

 

 アレキサンダー王太子やグレース王太子妃だけでなく、ロバート達王太子の近習も、ローズを賢い子供だと思っているらしい。間違ってはいないが正しいことでもない。ローズの中に、もう一人、記憶だけの誰かがいるだけなのだ。ローズはその誰かを“記憶の私”と名付けていた。“記憶の私”は、ところどころ欠けた本のようであり、誰か人のようでもあった。それが、今回、ローズが王太子宮に押しかけた理由だった。


 孤児院で、遠くの町の疫病の噂をシスターたちが話しているのを聞いた。その町のシスターから連絡があったのだ。内容を聞いたとき、“記憶の私”の知る疫病と同じであることが分かった。このままだと沢山の人が、特に子供と老人が死ぬ疫病だ。早く手をうたないと間に合わないと、“記憶の私”が、ローズの心の中で叫んだ。“記憶の私”は、助ける方法を知っていた。孤児院で一緒に育ったのに死んでしまった子供たちの思い出に背をおされ、ローズは孤児院を出た。


 行くところがあると告げた時、シスター長が、あなたにはやることがあると言ってくれた。シスター長の言葉を支えに、王太子宮までたどり着いた。到着後、数日の自分の言動は、本当に不敬極まりなかったと思う。


 王侯貴族からみれば、孤児など数にも入らない存在だろう。だが、アレキサンダーはローズの話を聞いてくれた。不敬罪に問われて極刑となってもおかしくなかったローズの言動を見逃してくれたのは、疫病の町を救うためだろう。国民のためを思い、ローズを処罰しなかったアレキサンダーに、ローズは精一杯報いようと思った。


 不敬だったことを詫びたら、自覚していたのかとアレキサンダーに呆れられた。ロバートには、お小言をもらってしまった。長さはシスター達のお小言の半分もなかったが、迫力は三倍以上あった。普段優しい人だから、余計に怖かった。


 連日、ローズはアレキサンダーと色々な話をした。内容は多岐にわたった。そのうちに、アレキサンダーが「大切なお客様たち」とのお茶会にローズを呼んでくれるようになった。ローズも最初は遠慮した。


だが、近習の中で一番偉いロバートに、「大切なお客様たち」が、ローズのために、わざわざ持ってきて下さったお菓子があるから、参加してお菓子をいただかないと大変な失礼になると言われてしまった。


ロバートは、いつもローズを持ち上げ、椅子に座らせてくれる。座ったローズが、「大切なお客様たち」と顔を見ながら話ができるように、椅子には分厚いクッションが置いてあるから、一人では座れないし、降りられない。ロバートは、ローズがお菓子をこぼして服を汚さないように、膝にはナプキンをかけてくれ、首元にはハンカチをまいてくれた。ローズ用のお皿にお菓子も取り分けてくれた。美味しい紅茶とお菓子をいただきながら、ローズは「大切なお客様たち」とアレキサンダーの話に参加させてもらった。


 アレキサンダーの「大切なお客様たち」は、貴族、学者、司祭といろいろな人がきた。話の内容はより広範囲になった。うち一人はアレキサンダーにとてもよく似ていたが、身分を明らかにはしてくれなかった。


 ローズは、“記憶の私”の助けをかりて、彼らといろいろな話をした。


 当たり障りのない会話から、今後の町の再建や、この国の抱える別の問題へと話が広がっていく。国の仕組みが目の前で議論され、一つ一つが目の前で吟味されていく様には、心躍った。ローズの中にいる“記憶の私”が、誰かの役に立つのもうれしかった。


 彼らにとっても、ローズにとっても、疫病に侵されつつあるイサカへの対策が最も重要な話題だった。


 ローズが言う通りの町の防疫体制を実行した場合にかかる予算は膨大だ。

「町を閉鎖したら、町以外の国は救われるでしょう。でも、町の人々はどうなりますか?町を救うための対策が必要です。町の中の人を救うことで、この国の、国王陛下の政に対する人々の信頼性を高めることもできるでしょう。自分達に何かあった場合も、国王陛下は救ってくださると。町を救うことで、国家のみならず国王陛下のご威光も高めることもできるのです」


 それでも、国の予算が、という面々にローズが冷たい目を向けた。

「むろん、財産をお持ちの皆様が、浄財を寄付をなさることで、国王陛下への忠誠心を示すこともできますし、人々への手本となる素晴らしい行いではありませんか」


 反論する貴族がいないことを確認しながら、ローズは言葉をつづけた。

「民の忠誠心を得ることも、国王陛下からのご信頼を得ることも、一朝一夕にはできないことです。それにはお金に換えられない価値があるのではないでしょうか」


 ローズはにっこりと微笑んで見せた。アレキサンダーは教えてくれなかったが、ローズは、彼らが相当権力の中枢に近いと踏んでいた。それでもローズは全く動じなかった。笑顔で正論を言う子供には、反論するような大人げない真似は貴族の誇りが許さないはずだ。


「やはり貴族の方々は、その行いも、世の手本となるような素晴らしい方々ですのね。素晴らしいことですわ」

にこにこと微笑みながら、同意しろ、とローズは、アレキサンダーに目線で合図した。アレキサンダーが、口元を引き締め、重々しい顔をつくり鷹揚に頷いてくれた。


 お茶会のあと、ローズはロバートに手を引かれ、お客様のお見送りもするようになった。


「君はなかなか気が強いようだね」

アレキサンダーにとてもよく似た、年上の人物がほほ笑んだ。明らかに国王なのだが、“とある高貴なお方”としか紹介されていなかった。


「先ほどの議論のことですか?皆さま人生の先達ですから、お知恵を拝借したいですわ。無論、お金をお持ちの方には、お金を出していただきたいですし」

ここ数日議論を重ねるなかで、出席者は厳選されてきた。貴族の中でも相当身分が高そうな人たちばかりだが、ローズの発言にいちいち怒らない寛容な人達が残ってくれていた。


「ずいぶんはっきりと、面白いな」

「おほめにあずかり光栄です」

ローズはにっこり微笑んだ。身分を明かさない国王の覚えが良ければ、不敬罪は避けられる。


「町の再建に関しては、皆様の方が私などより見識をお持ちです。私が申し上げたいことは一つだけです。今回の疫病に関して、町の人が広めた、原因だと、他の町から憎まれないようにしていただきたいのです。疫病の次、町の人は噂に苦しめられることになります。町の人は、疫病と戦い、封鎖の中、国に広めないように努力した英雄だというような噂になれば素晴らしいことです」


 町を護るため、情報操作、宣伝も必要だ。この国の識字率はまだまだ低い。低い識字率に応じた情報操作の方法を考える必要がある。為政者の親子であれば、そういった方法も知っているはずだし、広めたい内容があるだろう。ローズは、疫病に苦しんだ町が、噂でさらに苦しまないようにしてほしかった。


「あとはこの冬、天候がどうなるか、本当に心配です」

感染防御のためローズが知る方法を実行するには、大量の建築用の木材も薪もいる。厳冬となれば、薪が必要になる。感染者の治療のため、人を集めると、限られた地域で食料が大量に必要になる。そんなときに不作になれば食料問題がおきる。ローズは天を仰ぎ見た。

「例年と比較し、今年の気候はどうですか?」

「目の付け所がいいね」


ローズの発言は、“とある高貴なお方”のお気に召したらしい。

「そのようにおっしゃっていただけますと、うれしいです」

ローズは微笑み、グレースに教えられた通りにお辞儀をして、“とある高貴なお方”のお見送りをした。

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