第82話


 テーブルについたフランが、フォークを突き刺してナイフで肉を切る。中からじゅわっと肉汁が溢れ出した肉が、フランの薄ピンクの潤んだ唇に近づく。すんすん、と綺麗な鼻が動いてから、口の中に肉は消えていった。


「美味しい!!」


 フランの反応に、わっと場が盛り上がる。


「やったー! お兄ちゃん!」


「ラーイさん!」


「ああ!」


 皆で抱き合って喜ぶ。鋭い目で睨まれた気がして、フランを見ると、気のせいだったようで嬉しげな目をしていた。


「皆、本当にありがとう」


 気にするな、という旨のことを皆で言うと、フランはまた頭を下げた。


「フラン、ここからだな」


「うん、出来たからってまだ忙しいのは変わらないし。アル、このステーキはどうやって作ったの?」


「下拵えで筋を切ったり、揉んだあと、数時間ワインに漬け込んだものだよ。焼く時も水気とったり、工夫してあるよ」


「そっか。なら、明日にはレクチャーしてもらえる? 信頼できる料理人に協力を仰いだんだ」


「そうだね。僕一人じゃ、流石に大人数分を調理するのは厳しいし」


「ありがとう、アル。ラーイは仕入れればいいものとかわかる?」


「アルに教えてもらってる。それに、ステーキについてだけれど、節約のために、このステーキと、普通に調理したものを同時に出すつもりでいるから、必要量は俺の方がわかると思う」


 フランは首を傾げたが、すぐに、あ、と声を上げた。


「食べ比べできるように、ってこと?」


「そう。そっちの方が節約もできるし、わかってもらいやすいと思って」


「いいね。じゃっ、仕入れについては、私とラーイでやるとして、ネコルとアルは……そうだね、今日はもう休んでもらおうかな?」


 俺も、それがいい、と頷くと、二人はへなへなに溶けた。


「二人にも休んで欲しいけど、ごめん、そうさせてもらうよ」


「お兄ちゃん、フランちゃん、ごめんね?」


「気にしないで。じゃあ早速やることあるから、私とラーイは今から外出てくるよ」


 俺とフランは力の抜けた見送りの声を聞いて、宿の外に出た。


 ***


「必要な道具や資材なんかの確認と作業状況の調査。あとは……」


「了解。全部やっていると帰るのは夜になりそうだね」


 市場までの道中、今日やることについて話し、軽い打ち合わせが終わり、会話が途絶える。


 フランは何かを思案しているようで、どこか遠い目をしていた。


 それからしばらく歩き続け、市場に出た時、フランは、ねえ、と声をかけてきた。


「ステーキ、ラーイは美味しかった?」


「食べ過ぎて見るのも嫌だったけど、それでも美味しいと思ったよ」


「そっか」


 しばらく無言が続き、フランがまた口を開く。


「私も美味しかった。でも、ワインの風味、あれは人を選ぶよね?」


「うん、それはそう。だけどまあ好き嫌いについて言っても仕方ないし」


「そうだよね。でも、他の味も出せたら解決するし、出来ればまた別の方法なんかで……あのさ、ラーイ? 節約したから、お金は余ったよね?」


「フラン」


 責めるように名前を呼ぶと、あはは、とフランは笑った。


「わかってるよ、怖いなぁ。ただでさえギリギリだったのに、今からだともう時間はない。それに、疲れてるアルとネコルに負担をかけちゃう。ちゃんと、ワインにつけたステーキは美味しいし、ほかのことをやってる余裕もない」


「わかってるなら、いいよ」


「うん。あ」


 フランが何かを思い出したような素振りをした。


「何かあった?」


「お財布、宿に忘れた」


「いいよ。今日は、昼食くらいしかお金使わないし」


「優しい男だぁ〜」


「奢ってもらう気でいるのか、まあいいけど」


「冗談、冗談」


 そんな会話をしながら、俺たちは歩いた。


 ***


 宿に帰ってきたのは、夜もいい時間だった。


「はぁ〜、疲れたぁ」


「本当にな。俺も今日は休むよ」


 大きな息が漏れる。


 足は棒のようだし、頭もくらくらする。


 全てを終えて、もはや扉にかける手が力ない。


「情けないなぁ」


「じゃあフランが開けてよ」


「開かない……」


 体を押し付けるようにして重い扉を開くと、中から煙がもわっと溢れ出てきた。嗅ぎなれた匂いが鼻腔をついて、思わず声が漏れる。


「え?」


 同じく驚いていたのか、フランも目を丸くしていた。


「お帰りなさい、二人とも。早速だけど、テーブルについて」


 わけのわからぬまま、俺たちは椅子に座る。すると、しばらくして、ステーキが運ばれてきた。


「食べてみてください」


 しばらくフランと間抜けな顔を見合わせていたが、言われるがままに食べてみる。すると、驚嘆の声が勝手に出た。


「やわらかい!?」


 フランも口に運ぶと、目を丸くした。


「良かった! こっちも食べてみて!」


 アルが新しく皿を持ってきたので、そっちも食べてみる。


 こっちも同様に柔らかい。


 二つともワインを漬けたものとは、味も風味も異なっていた。


「アル、美味しい! これどうしたの!?」


 早口で捲し立てたフランにアルは微笑む。


「玉ねぎとキノコ、それを細かくして、それぞれ漬けてみたんだ」


「どうしてそんなこと……」


「あっ、帰ってたんだ!」


 階段の奥からネコルが降りてきた。近づいてくると、ネコルの頬が腫れていることに気づく。


「ネコル、どうしたのその怪我!?」


 慌ててフランが駆け寄ると、ネコルは照れ臭そうに笑った。


「ちょっとしつこくし過ぎちゃって」


「しつこく?」


「うん。フランちゃんに財布を届けに行ったんだけど、たまたま会話が聞こえちゃって」


「会話って、あ、もしかして私が他の味を出せたら、って話を?」


 ネコルは頷いた。


「急いで帰って、アル君と相談したんだ。でさ、調味料じゃなくて具材と浸けても柔らかくなるんじゃないか、って話になってさ」


 その言葉に、俺は大体のことを把握した。


「肉に合わせる具材を聞いて回ったんだな?」


「うん。それで教えてくれない人に、しつこく聞きすぎて打たれちゃった」


 あはは、とネコルが笑うと、フランは堪らずネコルを抱きしめた。


「ごめんね、ネコル!」


「痛いよ、フランちゃん。それに、ありがとうって言って欲しいな」


 フランは下唇を噛み、ありがとう、と籠もった声で言った。


 聞き出すのがどれだけ難しいかは経験している。それでも挫けず、厭わず、傷ついてもやり遂げた。


 俺もネコルを褒めてやりたかったが、くっと熱いものが競り上がってきていて、声が上手くでない。


「アルぅ、ネコルぅ、疲れてるのにありがとう」


「お兄ちゃんとフランちゃんが頑張ってるのに、やっぱり休めないよ」


「僕だって現状を変えたいって思ってるんだ、手伝うのは苦じゃないよ」


 アルとネコルの声には芯が通っていた。きっと、昨日のことも関係しているだろう。


「それにさ、ありがとうは早いかな。まだ人に出すには考えなきゃいけないことが沢山あるし」


 アルの言葉に気を引き締められる。そうだ、ここからさらに、研究して仕上げなければならない。


「アル。材料調達、料理人のレクチャーを考えれば、制限時間は明日の朝までだけど出来そうか?」


「具材を漬け込む時も、やっぱり色は関係しそうだし、最適な温度もありそう。それに濃さと速さなんかには密接な関係もありそうで、全部は調べられないかもしれない」


 だけど、とアルは力強く言った。


「何とか出せるようにする」


「よし。じゃあ今から取り掛かろう、明日、朝までに形にしよう。昨日よりも辛いだろうけど頑張ろう」


 アルは頷き、ネコルは拳を掲げ、フランは頭を下げた。


 さあ、最後の追い込みだ。

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