第30話

☆☆☆


クルミが家に戻ったとき、外から消防車のサイレンが聞こえてきた。



それがどこへ向かっているのか、クルミは興味のないフリをするので精一杯だ。



「どうした食欲がないのか?」



父親にそう聞かれてクルミはハッと我に返った。



クルミは今食卓についていて、目の前に出されている肉料理に少しも手を伸ばしていなかったのだ。



「ううん、そんなことは――」



そう言って肉に手を出そうとするが、頭の中は空き家での出来事がグルグルと繰り返し再生されている。



あの仮面は本物だった。



そして自分はどうやら放火の才能を手に入れることができたらしい。



そう思うととてもご飯なんて喉を通らなかった。



こんなこと誰にも言えない。



言うつもりもない。



「やっぱり、今日は少し体調がよくないみたいだから、横になるね」



クルミはそういって席を立つ。



両親に背中を向けてダイニングから出るクルミの顔には、笑顔が浮かんでいたのだった。



クルミの体調がよくないということで、今日の勉強は見送りになった。



だけどクルミは別に嬉しさを感じることはなかった。



そのかわり土日の勉強時間が増えることはすでに知っている。



夜になるのを待ち、クルミはそっと自分のベッドから置きだした。



ベッドの下に自分で準備しておいたジーンズとTシャツという姿に着替えをして、同じようにベッド下に隠していた点火棒を取り出す。



これはキッチンで使われていたもので、クルミは寝る前にこっそりと盗んできていたのだ。



準備を整え、仮面を両手に持った。



窓からの月明かりで輝いて見える。



昼間これを見つけたときもそうだった。



この仮面は迷える人の心に寄り添ってくれる。



こうして光を照らしてくれるものなのだ。



クルミは口元に笑みを浮かべて、仮面を自分の顔に近づけた。



まだ2度目だというのに仮面のすっかり肌触りのとりこになっていた。



うっとりと目を閉じて仮面をつけるとすぐに吸い付いてくる。



この瞬間、自分と仮面がひとつになったと感じることができるのだ。



仮面をつけて真っ白な顔になったクルミの行動は早かった。



素早くドアを開けて廊下を確認し、誰もいないことがわかると足音を殺して玄関まで向かう。



警備会社へ通じているスイッチを切り、鍵を開けて外に出るまでほんの数分間だった。



本来のクルミだったら部屋に出るだけでも何十分も迷っていたに違いない。



それからクルミは裏手に回り、そこに常備してある灯油缶へ視線を向けた。



もちろんクルミ本人が風呂やストーブに灯油を入れたことは1度もない。



しかし、そこに灯油があることは知っていた。



お手伝いさんの仕事を見ていたら、どうやって缶の蓋を開けるのかもわかっている。



クルミの心臓は早鐘を打ち始め、緊張で背中に汗が流れていく。



しかし、手足は勝手に動き続けていた。



灯油缶へ近づき、その蓋を開ける。



持ち上げようとしてその重さに一瞬ひるんでしまった。



こんなに重たいものを持っていたの!?



女性のお手伝いさんがこれを両手で持って運んでいた光景を思い出し、クルミは目を見開いた。



こんなに大変な作業をしているとは夢にも思っていなかったのだ。



クルミは歯を食いしばり、どうにか灯油缶を持ち上げると家の周りに透明な液体を巻き始めた。



液体は刺激臭を放っていて、長時間においをかいでいると気分が悪くなりようだった。



しかしクルミの手際はよかった。



灯油缶をすべてまき終えると、家の裏手へと戻っていく。



裏から火をつければ生垣の隙間からすぐに逃げ出すことができる。



家の横側からだと高い塀が立っているので逃げることは困難だ。



クルミ自身はとても緊張していてそんなことまで気が回っていなかったが、体は勝手に動いてくれる。



もう少し。



もう少しで私は自由になれる。



その期待だけを胸に秘めて裏へと戻ったときだった。



黒い人影が見えてクルミは咄嗟に身を隠した。



こんな時間に一体誰だろう?



お手伝いさんはもうみんな帰ったはずだし、両親も眠っているはずだ。



ドクドクと心臓が高鳴る中、クルミはそっと顔だけ出して人影があった場所を確認した。



そこは勝手口だったが人の気配はない。



こんな時間に勝手口から誰かが出入りすることはないから、きっと見間違いだったんだ。



たとえば少し大きな野良犬とか、そういう野生動物が横切っていったのだろう。



クルミは自分にそう言いきかせ、点火棒をまいた灯油に近づけたのだった。

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