Chapter1 始動

Chapter1-1 放浪

 思わずシチズンの時計をカバンに放り投げたせいでカバンの内側とノートに血が着いてしまった。

 あの後にどういう感じだったかとか、簡単な質問責めだった警察の事情聴取を受けて、そのまま経堂駅の構内にある喫茶店で運転再開を待った。あのコーヒーは、いつもより苦かった。


 運転再開した後、車内から乗り換えの新宿までは地獄のように混雑していた。車内では息をする隙間も無いほどにすし詰めにされ苦しい思いをしたが、頭は動き出した。冷蔵庫はそろそろ空っぽだか駅近のスーパーに行って、晩御飯は何にしようか、そんなことをずっと考えていた。

 煌びやかな新宿の夜景を眺めていると、ふと自分の顔が見えた。なぜか、頬が少し濡れていた。


 毎日通っていたはずの、駅から自宅まで道が、永遠に終わらないような、迷路みたいだった。街灯も普段より暗く、降り落ちる雪が、微かな光を反射させ、ゆっくりと重力に従っていた。

 いつものマンション、いつものエレベーター、いつもの五階、いつもの玄関。少し時間が遅いことを除けば、何も変わらない日常だった。

寒い、寒すぎる。真っ先にエアコンを強めに入れ、温度も普段より高くしたシャワーで汗を流した。


 なんとなくテレビをつけると、ニュースが始まった。

『本日、十八時頃。世田谷区にある小田急線経堂駅で人身事故が発生しました』

『えー現場の経堂駅です。事故が発生した頃は帰宅ラッシュの中、目撃者も多いようです』

 ブルーシートがかけられたロマンスカーの先頭部と、現場検証する警察がホームいる映像が軽く流れて、すぐに違うニュースが流れた。


 親父は死んだのだ。親の死に目に会えない、とはよく言ったものだ。それが嘘である事を証明させた。二度もだ。

 湯沸かし器が、熱湯ができた事を湯気で訴えかけてくることに気づき、ひとまずは備蓄してたどん兵衛に湯を注ぎ、ぼーっとした。


 本当は駅前のスーパーで惣菜でも買おうと思っていたが、そんな考えは玄関にたどり着くまでぽっかりと抜け落ちてしまっていた。

 ふと、時計に目をやると湯を注いでから十分が経過していた。しまった、タイマーも忘れてしまった。


 少し伸びた麺をすする。ズルズルとだけ、勢いよく室内に響いた。うまい。無性にうまいのだ。味がしみきった甘いおあげと、本来のうどんと乖離しているはずなのに、うどんとわかる太い麺、申し訳程度の薬味、おとなしいかまぼこ、どれもうまいのだ。

 目元が緩む気がした。今ほど人生でうまいと思ったものはない。たかだか一つ二百円なのに、至高がここに詰まっている。


 ふと、唇の裏側を噛んでしまった。痛い、ダシが効いたつゆが傷口を抉る。だが、不快ではない。この痛みが、濃厚なダシの風味が、ほのかに混ざる血の味が、《生きる》を実感させている。

 つゆまで飲み干した。まるで、最初から何もなかったようなプラカップの底には、溶けきらなかった粉末がこびりついている。


 腹が満ちると、少しずつ頭の中の歯車が、油を刺されたかの如く動き始める。思い返せば、ほぼ会えなかった父親が本当に死んだに過ぎない。元から死んでいたのだ。すでに、おれの親父だった陽羽里不知火は、二年前に死んだのだ。

 思えば、薄情な親父だ。人生のアドバイスとか、何も教えてくれなかった。旅行とか、映画とか、遊園地とか、どこにも連れて行ってくれなかった。授業参観にも、来てくれなかった。おれには何もしてくれなかった。


「チクショウ!」

 思いっきり、テーブルを叩いた。木目調の表面にヒビが入っただけだった。強く握った拳が震え、また涙が溢れ出す。なんでだ、なんでなんだ。せめておれに何かしてから死んでくれ。



  ***



 私が彼の監視を初めて数日が経過した。顔立ちは母親譲りなのだろう、整っている。そして目元は陽羽里室長にそっくりだ。

 今日は平日だが、通っている都立高校に行かず、新宿を徘徊している。黒のスウェットにダウンコートを羽織り、足元は黒のスニーカー。夜になると闇に紛れるような格好だ。


 人通りが少ない裏道、歌舞伎町をはじめとする周辺を無作為に移動し、自分より大柄な通行人に肩をぶつけては、拳を交える。そんな彼の頬には痛々しい大きな痣ができていた。

 そしていつの間にか手に入れたタバコを吹かしていた。自暴自棄、という言葉がもっとも相応わしいと思った。


 そして深夜になると、ネットカフェで朝を待つ。そんな一日を過ごしていた。敢えて私の存在を彼にわかるようにしても、反応がなかった様子から察するに、世捨て人にでもなってしまったのだろう。

 こういう尾行のとき、対象によってはこんな行動をよく取る。おおむね、自分の死を理解し、自ら破滅に走るのだ。


 だが彼は違う。生きる意志が少なからずある。殴り合いの喧嘩になっても、しっかりと相手の攻撃を避け、カウンターを決めてたり、食事も三食は何かしら摂取し、睡眠も七時間はネットカフェで取っていた。

 行動が相反している。こんな対象は初めてだ。



 ***



 歌舞伎町から少し離れた、喧騒を忘れさせてくれる閑静な公園のベンチに腰掛けた。明るい街中でも薄暗い深夜帯だが、照らしてくれる街灯のおかげで、ここだけ明るい。

「そこのインフィニティ」

「530円」

 タバコ売りの老婆に言われるがまま小銭を差し出せば、おれでもタバコが買えてしまう街だ。


 混沌としている。夜が深まれば、深まるほど、果てしなく欲望と闇が広がる街だ。

 紺色をベースに銀色で〈INFINITY〉と刻まれたデザインの箱から一本、タバコを取り出した。このインフィニティという銘柄にしたのは、他のものよりデザインがかっこいいと思ったからだ。


 ありふれた100円のライターで火をつける。本当は魔力を集中させ、指先で火をつけたいのだが、おれの力ではただタバコを温めるだけで、発火は不可能だ。

 加えたタバコから煙を吸い込む。肺まで吸い込んでしまうと、むせて上手く吸えないから、口の中だけに留めておく。


 芳醇なバニラの香りが広がる。今までタバコは、ただクサイものとしか認識していなかった。しかし、銘柄によって大きく違うんだな、と感じる。

 どこか、甘みを感じさせるような煙を吐き出しながら、灰を落とす。もちろん携帯灰皿も買った。足元は砂利が広がっているが、そのまま落とすのは気分が悪い。


 吸っては、風味を楽しみ、蒸気機関車さながらに煙を吐き出す。これを何度か繰り返していると、あっと言う間に短くなる。

 空は黒い。しかし街の灯りが照らし、明るさを伴っている。しかし星も、何も見えない。


 本当の星空は、綺麗なんだろうか。

 おもむろに、持っていたビニール袋に手を突っ込む。レモンのイラストが描かれたチューハイを取り出すと、缶コーヒーを飲むように、プルトップの封を開ける。プシュ、っと軽快に音が鳴る。


さっきコンビニでも、堂々としていれば何も言われず、そのまま酒が買えた。

 そしてそれを飲む。チューハイってなんだ。レモンの味が強い炭酸ジュースみたいだ。しかし少しすると、なんだか頭がフラフラしてくる。風邪のような、でも心地いいような気がする。

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