introduction-4 父親
駅に着く頃にはもう日が沈み、同じように家路につく生徒で溢れかえっている。皆に帰る家があるのだろう、迎えてくれる家族がいるんだろう。
乗り換えアプリで、市ヶ谷までの時刻を調べる。新宿で家と反対側の方に乗り換えて少しで着く。何も返事がなく無視のままで終わっているショートメッセージに、学校の書類の印鑑が欲しい、とだけ親父に送る。
普段なら「わかった」とか「用意する」とだけ返事をすぐ寄越すはずなのに、何も返事が無い。会議中か、何かなんだろう、新宿までは少しかかるし、その間に返事が来ると思って胸ポケットの定期入れを出す。
ヒバリハルト17才、あと日付と駅名が書いてある定期券を改札にタッチして、電光掲示板に目をやる。急行があと一分で出る。タイミングが悪い。さっさとコーヒーを飲めばよかった。そんなことが頭をよぎるが別に急ぎの用でも無い。寧ろ返事が無いまま、突然行くと勝手に来るなと怒鳴られそうだ。
そもそも印鑑を親父が管理しているのが面倒だ。百円ショップとかで適当なシャチハタを用意したい。しかし陽羽里と言う組み合わせが特異なハンコはどこにも置いてない。象牙で拵えたと言う立派な印を、ただの高校生でも十分に殺気を感じる市ヶ谷まで取りに行かねばならない。
あそこは嫌いだ。自衛隊とか、防衛省とか、壁で阻まれている訳でも無いのに、不気味な街だ。親父は、ずっとそこで官僚をしていると言う。
具体的に何をしているか、一切話は聞かない。ただ、ニュースで見るきな臭い国際情勢や北朝鮮問題、警視庁と足並み揃えたと言う魔法術対策の特殊部隊の存在など、親父はそう言う類を相手にしているんだろうと、なんとなく感じる。真相はわからないが。
新宿方面行きのホームには、やはり人が多い。学校から帰宅する生徒、仕事終わりのスーツ姿も見える。まだ見ぬ将来に期待する若者と、その成れの果てのような大人が混在する、不思議な空間だ。
列車を待つ人々は、みんなスマホに興味津々だったり、ガールズトークに華を咲かせたりしているが、おれは待つ時にスマホに没頭するのは好きじゃ無い。インターネットは、有象無象の意見が戦場の如く乱発され、授業前の教室のようで落ち着かない。
仕方なく、参考書でも読み込んでおくかと、読書代わりに読みふける英語長文と書かれた本をカバンから取り出した。少し読んでいると対岸の小田原方面ホームから列車の接近メロディが鳴る。マリンバで弾いたような短いメロディが鳴ると、線路を通じ、遠くからの反響音が聞こえてくる。
特急が通過する旨と黄色い線の内側に下がることを促す自動放送が流れる中、対岸ホームの人混みの中、唯一顔と名前が一致する男がいた。
陽羽里不知火、おれの親父がそこにいた。なぜ、こんなところにいるんだ。市ヶ谷にいるんじゃないのか。なぜ経堂にいるんだ。このあたりに関係する施設があると言うだろうか。だとして、なぜ市ヶ谷のある新宿方面のこっちのホームでなく、箱根と小田原方面のホームなんだ。疑問が脳内で走り回り、持ち合わせの手札で勝手に回答を導き出そうとしている。
そしてなにより、親父は異常だった。前に会った時は、年始だというのにシワひとつないスーツに身を包み、しっかりと首元まで締めたネクタイが印象的だった。いかなる時も身だしなみを揃え、すぐに仕事に飛んで行った姿を思い出す。だが今は、赤いネクタイは終電に乗っているサラリーマンみたいに緩み、スーツは着ているが覇気が無いし、灰色のスーツもなんだかくたびれている。
さらにカバン一つ持たずにいる。このまま箱根観光をするような人間にも見えない。仕事を終え家路につく人間にも思えない。
おもむろに、スマホで電話のアプリを開き、父親とだけ書いた項目をタップした。今までこちらから電話をしても滅多に出なかった親父が、ワンコールで出た。
対岸にいるおれに気づいたのか、目があった。
どうしたんだよ、そう言いかけた矢先、先陣を切ったのは親父だった。
「すまない、晴翔」
はっきりと聞こえた。強く、冷たくあしらった前の親父とは違う、憔悴しきったようなか細い声で。
はっきりと見えた。夢の中の、笑顔で語りかけた父親とは違う、懺悔と申し訳なさそうな顔をして、両目から雫がこぼれた瞬間を。
直後、白く、窓が大きい特急が左側から侵入してくるのが見えた。駅のポスターでよく見るロマンスカーだ。
親父は、まるで列車が入線して、乗り込むように、さも当然のように、足を動かした。彼の体が黄色い線を超えた瞬間、警笛が聞こえた。
ドンッ、と鈍い激突音が聞こえた。刹那、生きていた肉体は弾け、赤い線をばらまき、人間では無い何かに豹変した。
キキーッ、と激しいブレーキ音が構内に響く。無理やり止めた車輪は線路から火花を撒き散らし、なおも進む。そして肉の塊は吹っ飛ばされた後、枕木に落ちた。
衣服をまとった肉塊を車両下の台車に巻き込んで、やっと車体が完全に静止した。
ホームにいた駅員が、柱に設置してある赤いボタンを押すと、ホーム上にジリリリリと警報が鳴り響いた。遅れて、悲鳴がこだまする。
自然と体は列車の先頭部分が見える位置に向かった。側から見れば悪質な野次馬かもしれない。
先頭車両のところに行き反対側のホームに目をやると、血しぶきが飛び散っており、同じ高校のブレザーを着て、白いマフラーをした女子生徒が座り込んで、ヒステリックを起こしたように絶叫している。
彼女の白いマフラーに、赤いまだら模様がつき、必死に顔をハンカチで拭いている。周りを見れば、同じように叫ぶ人が何人かいる。
平穏な帰宅ラッシュの空間は、一瞬で戦場と化したようだ。
「運輸司令。運輸司令。こちら経堂。下り線で人身事故発生」
「おいおいグモかよ」
「新入り! 階段下から用具持ってこい! 警察も呼んで!」
「は、はい!」
「ああ、くわばらくわばら」
駅員たちがホームを走り回ったり、線路に降り、赤いスモークの発煙筒を焚いたりする中、流線型の車体の先頭部に目をやった。元々、白いボディと側面に赤く細いラインの車両だったが、先頭部だけは別の列車のように真っ赤に染まり、先頭部の乗客がいる部分のフロントガラスにはヒビが入っている。
ふと、足元に何かが当たった。よく見ると血だらけになり、ガラスが割れているシチズンの腕時計だ。これには見覚えがあった。
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