08 Aiko
直感は、ささやかであればあるほど、圧倒的に正しい。そして厄介なのは、ささやかだからこそ気に留めず、やり過ごして、後になって事態が悪化して、収拾がつかなくなって、後悔させられること。
経験からアタシはそれを、きっと誰よりもわかってた筈だった。
例えば、本当の父親と母親が別れた時、アタシは、家にいなかった父親よりも、いつも一緒だった母親に着いて行くのが当たり前だと思い込んでた。ホントは、母親の表情の翳りの中に、微かな、とは言え致命的な危うさを感じていたのに、それを無視した。そのささやかな直感に、気付いてないフリをした。
結果母親は残されることになるアタシのその後の境遇なんて、きっとこれっぽっちも気遣う事なく自殺して、ホンモノの身内は、アタシの周りから消え去った。消え去って色んなことが、望まない方向へ転がり出した。
そう、同じだ。
わかってたんだ、ホントは。
その時の直感と同じ、うなじを走る悪寒。
それを感じたのに、アタシはまた、ささやかな直感に、気付いていないフリをした。
今夜も広場の隅っこに座り込んで、辺りを見渡す。
ユキナ、ネネ、シオリ。
シンイチロウと一緒に、シンイチロウの取り巻きだったコたちが、広場から消えた。
ここに屯してたコが突然姿を見せなくなること自体は、別に珍しいことじゃない。マスコミにここが取り上げられるようになってからは特に、遊びに行くみたいなノリでプチ家出して、ツイッターやインスタで引き寄せられて、ここにたどり着くコたちが増えた。そんなコたちの半分くらいはしばらくすると、自分たちが妄想してたこの界隈のイメージと現実とが全然違うことに気づいて、いつの間にかいなくなる。最近はそれが界隈の日常になってたけど、でも、あの3人は違う。あの3人はアタシと同じで、家族がいない。だから、中途半端な憧れみたいなモノでにこの界隈に出入りするコたちと違って、帰るトコなんて無いんだ。
あの日。
シンイチロウとマーキュリーが揉めてた日。
あれからシンイチロウは姿を現さず、数日してその3人も見かけなくなった。だからマーキュリーが、エルメスが、この事に絡んでるのは間違いないんだろう。
アイツらと、距離を置いた方がいい。
それは分かってる。けど、今のアタシは、エルメスに借りがある。アタシが絡まないようにしても、向こうから近寄ってこられたら、シカトするのも、なんかちょっと、それはなくない? とも、思ったりする。
わかんないんだ。
アタシや広場のコたちを、見返りもなく助けてくれるエルメスが、ホントにヤバいヤツなのかどうなのか。
目線を下げて、重さとちくちくがごちゃ混ぜになったヤな感じの感触が、まだちょっとだけ残ってるお腹を見ながら、服の上から軽くさする。
この事だってそうだ。
堕ろすために病院まで付き添ってもらうパートナーを、エルメスは紹介してくれた。自分よりそれなりにちゃんとした身分の相手がいいだろうと、どことなく、アタシの一番お気に入りの“パパ”の植草さんに雰囲気の似た、40代くらいのおじさんと引き会わせてくれた。
良い人だった。
手術の日も、優しくアタシをエスコートしてくれて、病院との対応も、殆どその人がこなしてくれた。もうこの事は忘れた方がいいからと、連絡先も伝えずに、全てが終わるとその人はすっと街並みに姿を消していった。
出来過ぎなくらいに、大人な人だった。その人のまなざしに、ほんの少し、なんで言うんだろう、鋭い感じの瞬きみたいなものが見えた気がしたけど、そんなのが気にならないくらいに、その人にはあったかさがあった。もしアタシの父親がこんな人だったら、アタシだってもっと普通に、もっと自分に正直に、マトモに、生きていたのかも知れないと思わせるくらいの、不思議なあったかさだった。
もしエルメスが、アブない、ヤバいヤツだったとしたら、そんな人を紹介してなんでできるんだろうか。
なんだかもうホントにアタシには、わからない。
ため息と一緒に目線を上げた。
いつの間にか、目の前にしゃがみ込んだエルメスがいて、アタシは思わずびくりと身体を震わせてしまった。
「わりい、びっくりさせた?」
言ってエルメスは、柔らかく笑む。これに騙されちゃいけないとは思うけど、どこかアタシをほっとさせるのもまた、確かなんだ。
「こないだはありがと。あの人紹介してくれて、マジ助かった」
一応お礼は言っとく。
「もう、具合は大丈夫なん?」
ちらりとお腹をささるアタシの手に視線を投げてから、エルメスが聞いてくる。
「まだちょっとだるいけど、まあ、へーき」
アタシがそう返すと、そっか、よかった、と呟くように言って、エルメスはタバコに火をつけた。そしていつものように、ポケットの中から携帯灰皿を取り出す。相変わらず、こういうトコはちゃんとしてる。
「ところでさ、シンイチロウはどうなったの?」
ホントは聞いちゃいけないことなのかも知れない。でも、何でか、どうしても確かめておきたいって気持ちが湧いてきて、聞いた。聞いてしまった。ちょっと怖くて、緊張して、少しこえが震えてたかも知れない。
「ここには来ないように、念を押しといた」
柔らかく笑んだまま、エルメスは答えた。でもまた、“念”と言う言葉に染み込んだ力みが、歪に響いた。ヤな感じの響きだった。柔らかい笑みとのギャップが、その歪さを余計に目立たせてる感じがした。うなじに少し、冷たい何かが走った。
どこか憶えのある感覚だった。
記憶を辿ってその正体に気づいた時、アタシは思わず、あ、と小さく声に出してしまった。
母親に着いて行くと決めた時、その母親の表情の中に、ほんの僅かな、でも、どうしようもない危うさを見つけた時に感じた悪寒。それとそっくりだ。
ヤバい。これ多分、ヤバい流れだ。
アタシはそう直感した。したけど、ホントにそう? と疑うアタシも、アタシの中にいた。
「そんなに気になる?」
ふう、と無駄に明るく瞬く歌舞伎町の夜の空にタバコの煙を吐き出しながら、エルメスが聞いてくる。
「気になるってか、まあ、ちょっとあの後、どうなったのかなって」
予感に従おうとするアタシと、気にすんなって言うアタシが、アタシの中でぐちゃぐちゃになって、うまく答えが見つけられずに曖昧にそう返すと、エルメスは大きくタバコを吸い込んで、また、夜の空に煙を吐き出す。
「答えたくないならいいんだけど、もしかしてその子って、シンイチロウの?」
その子、と言う言葉を放つと同時に、アタシのお腹にまなざしを向けて、エルメスは聞いた。アタシは一瞬躊躇してしてから、小さくこくりと頷いた。
「好きなの? アイツが」
責めるというふうでもなく、柔らかく尋ねられる。でもその声色のずっと奥の方に、得体の知れない圧みたいなものを感じる。
「そういうんじゃない」
だからなのか、アタシの返す声も、弱々しくなる。
「ならもう忘れた方がいい。アイツはもう、ここには帰ってこないから」
帰ってこない。
それをアタシは、変なふうに勘ぐった。
もしかしたらシンイチロウは、何か酷いことをされて、最悪、殺されたりとかして、ここに戻ってこれなくなったとか、そういうことなの? なんて、思ったりした。
予感がアタシの中で、変な形に膨らんでいく。でも、気にしすぎだよって、訴えてくるアタシも、アタシの中にいる。
そんな感じで妄想してたら、エルメスは突然、吐き出すように笑った。
「なんだよ、もしかして俺らがシンイチロウを殺しちゃったとか、そんなこと考えてる?」
笑いながら、エルメスが言った。図星だ。アタシは思わずたじろいで、そーゆーんじゃないけど、と返すのが精一杯だった。
「よし!」勢いよく、エルメスが立ち上がる。「じゃあ、一度会わせるよ」
そう言って、エルメスが差し出してきた手を、アタシは掴んだ。
それは、アタシがまたアタシの直感を蔑ろにした瞬間だった。後になって、そう気づいて、アタシはその時のアタシを、アタシ自身で呪うことになる。
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