07 Moe
池袋にも、風が吹いてる。
でもそれは、歌舞伎町のそれとは全然違う。
ネオンで澱んで吹き溜まり、怪しげな瞬きを発する歌舞伎町の風は、自分の脆さとか穢らわしさみたいなものを、覆い隠してくれるような錯覚を抱かせる。だからそれに魅せられて、吸い寄せられる連中はみんな、どんなに虚勢を張ってたって、煌びやかに着飾ってたって、芯の部分は、弱い。わたしたちみたいなガキはもちろん、大人たちも。
ここは違う。
北池袋。
この風の感じ。わたしにはわかる。
この風はきっと、そんな甘えは許してくれない。
駅から5分も歩けば、目を眩ませるようなネオンなんてないこの場所に吹く、この風。露骨に尖ってて排他的で、光も帯びずに乾いて吹き荒び、肌にちくちくと刺さる。
そんな風に魅せられるヤツらって、一体どんな感じなんだろう。
―――相手は大人だ。俺らにもそれなりの味方が要る。
目的地も告げられず、相手が誰か明かされることもなく、わたしはタクヤにこの北池袋まで連れ出された。その一角。仄暗い街中に、ぼんやりと淡く浮かぶような中華料理店の看板の前で、タクヤは足を止めた。
「ここだ」言ってタクヤは、深く深呼吸する。「いいか、モエ。ここで何があっても、とりあえず全部俺に任せるんだ」
わたしに向けて、と言うより、自分自身に言い聞かせるような口振りだった。
語尾が微かに震えていた。
どことなく、身体も、僅かに。
何かに怯えているような感じ。
それでもタクヤのまなざしはしっかりと据わっていて、これっぽっちもブレてない。
わたしがこれまで、見たことのないタクヤ。へらへらとあの界隈を歩き回っている時の雰囲気は、カケラも無い。
そんなタクヤに、違和感はあった。
でも何でだか、どこか、頼れる感じでもあった。
だからわたしは、こくりと頷く。それをみてタクヤは、一度小さく頷いてから、その中華料理店の引き戸を開けた。
店の中は思いの外、蛍光灯に無防備に照らされて明るく、そして広かった。でも静かだ。二十代半ばくらいの男たち七、八人が、店のあちこちにばらけて座っているけど、皆、黙り込んでわたしたちを見ているだけだった。
「よくここに顔が出せたもんだな、タクヤ」
わたしたちが店の中に足を踏み入れて一呼吸置いた後、その、どこか異様な沈黙を破ったのは、一番奥のテーブルに座る男だった。
少し艶のある長い銀髪を、きちっと頭の後ろで引っ詰めて、切れ長の目でタクヤを見据た男の声は、低く落ち着いてはいたものの、微かに怒気の様な、張り詰めた響きを帯びていた。
「今更ってのはわかってる。とは言えこっちも、もう
その響きに気圧されたのか、少したじろぎ気味にタクヤがそう返すと、銀髪の男は椅子の背もたれにぐっと寄りかかり、まなざしを宙に向けた。
「マサヤのことか?」
銀髪の男が口にした耳慣れない名に、タクヤは頷く。それを見て男は、宙にまなざしを向けたまま、これ見よがしに大きく溜息を吐いた。
「だから言っただろ? アイツはいずれ絶対に、お前を追い込むって」
男の声は、やっぱり低く落ち着いている。そしてやっぱり、どこか苛ついた負の感情が、密やかに滲みている。
タクヤは何も返せない。少し俯き加減に、男の座るテーブルに視線を落として、次の言葉が継げないでいた。
「あんま苛めんなって、
その時だった。不意に、客席とは対称的に薄暗い厨房の向こう側から声がした。それまでそこから人の気配なんて微塵も感じなかったから、わたしは思わずぴくりと身体を震わせてしまった。
薄暗がりの中から、ぬっと人影が姿を現す。長身の、坊主頭の男。ぱっと見た感じ線は細かったけど、それはただ無駄な脂肪が付いていないだけで、肌にぴったりと張り付いた黒いタンクトップのでこぼこが、その男の身体が鍛え上げられたモノだと主張していた。
長身の男はそのままタクヤとわたしの傍まで歩み寄ってくると、わたしたちの目の前のテーブルに添えてあった椅子に手を掛け、背もたれをこちら側に向けて、跨ぐように座った。
「まあ、座れって」
言って、男は顎をしゃくる。タクヤはのそのそと男の言葉に従い、わたしもそれに続いて、テーブルを挟んで男の対面に腰掛けた。
「このカノジョは、お前の相手のひとり?」
にやにやとわたしを覗き込むように見ながら、男が言う。タクヤの病気を知っていて、敢えてからかうような口振りだった。
「違う」
男の見下すような態度にイラついて、その感情のまま、尖らした言葉をぶつけた。そのリアクションが意外だったのか、男は驚いたように少し目を見開く。でもまたすぐににやけ顔に戻り、今度はタクヤにまなざしを向けながら、言った。
「なるほどな。アンタ、タクヤのツボだわ。コイツ何気にMっ気あるからよ、そのうち本気で口説いてくるから気ぃつけろよ」
けたけたと、男は笑う。でも、ふざけているようでいて、目の奥で僅かに揺れる光は、霞んでいながらも鋭さを感じさせる、不思議な瞬きを帯びていた。その矛盾した感じに、何故か、背筋がぞっとした。
「で、だ」ひとしきり笑ってから、男は仕切り直すように手のひらをぱんと鳴らした。「タクヤ、お前がオレを頼るって事は、それなりのケジメをつける覚悟があるって理解でいいんだよな?」
そうタクヤに尋ねる男の、口元は笑っている。でも、目は違う。さっきまでの霞みが消えて、そこに宿る光は、鋭さだけが剥き出しになっている。タクヤはこくりと頷いて、覚悟を決めたように、男のその刺すようなまなざしを見つめ返した。
「ちょっと待て、
長身の男の背後から声がする。ジン、とか呼ばれていた銀髪の男だった。
「コイツに何のケジメがつけられる? そんなもんで今のマサヤと揉めても、こっちにはこれっぽっちのメリットも無いぞ」
「コイツの
そこで、沈黙が降りてくる。
その沈黙を噛み締めながら、わたしは思考を巡らす。
彼らの言っている事は殆ど、訳がわからない。でも、彼らが語るマサヤという人物が誰かは、察しがついた。そして、タクヤが彼らにどんな負い目を背負ってるのかなんてのも知る由すらないけど、何だかタクヤが不条理に無茶な要求をされてるような気がしてならなくて、わたしは何だかイラついた。
でも、不思議だ。
例えばアイコや、その他大勢の、あの広場の女の子たちに手を出しまくってたタクヤを、わたしは忌み嫌っていたはずなのに、タクヤが追い込まれてるようなこのシチュエーションを、何故か許せない自分がいる。
性嗜好障害。
その病気のことを知ったから、タクヤを許せる気持ちになってる?
わからない。わからないけど、それだけじゃない気もする。そんな事はさして問題じゃない気も、する。
ひとつだけ確かなのは、わたしは今、目の前のコイツらにイラついてて、コイツらの思い通りに物事が運ぶことが何だか許せなくて、だから、黙ってられなかった。
「しのごの言わずに手を貸せよ、めんどくさいな」
わたしが言った途端、
「黙ってろ、お前。調子乗んなよ」
「手を貸してよ。後のことはどうにでもなるし、どうにかする。だからぐちぐち言ってんなよ」
不思議とすらすらと、そんな言葉が半ば無意識に、私の口をつく。そして、そんな風に言い切ったわたしに向けた
荒みきった池袋の風に魅せられた連中も、実際のところ、大したことない気がした。
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