ストレイ・ガールズ・フィロソフィー/High-School Girls' Universe Final

北溜

01 Moe

 夜の歌舞伎町には、湿っぽくて生温い、初夏の風が溜まる。

 それは新宿中のあちこちの細い路地に、行き場もなくわだかまっていた色んな匂いを吸い寄せて、歌舞伎町の一角にある映画館脇の、この界隈に集まってくる。

 集まった風は最後にここでぶつかりあって、歌舞伎町の仰々しいネオンの光をこびりつかせて、淀んで、揺蕩たゆたって、濃い部分と薄い部分とが混ざり合わないヘドロのようなマーブル模様を象ると、ゆっくりと沈んできて、わたしを包む。

 映画館脇の植栽の縁に座っていると、わたしはいつも、そんな幻覚を見る。見えるはずのない風の流れが、見えているような気分になる。

 そのヘドロっぽい、この界隈全体を包み込むしゃぼん玉のような膜が、現実のわたしに降りかってくる何もかもから、わたしを守ってくれているような気がして、だから、ここでまどろんでいる時が一番、わたしは心が休まる。


 この界隈も、今はもうずいぶんと静かだ。

 去年の夏ごろまでのカオスみたいな騒がしさは、跡形もない。

 今夜もローソンの前あたりに、それっぽい地雷系女子の3人組がいるくらい。

 知らない顔。ぱっと見、私と同じ、高校に入るくらいの年頃。この界隈が世間で騒がれてから、ここと繋がりたいって、軽い憧れみたいなノリでここに来る子たちも増えてて、彼女たちもたぶん、ソレ系。

 匂いが違うんだ、全然。

 ケンゼンな家庭に生まれて、ケンゼンな両親のもと、ケンゼンな友達に囲われて、ケンゼンに生きてきたっていう匂い。でもその刺激の無さに飽きて、ちょっとアブナイ感じの世界を覗きたいみたいなスタンスで、ここに来る連中。ケンゼンって、実はすごく貴重な財産だってことを、わかってない子たち。

 でも別に、そういう子たちを否定はしない。

 嫌いでも、好きでもない。

 ただ、関わりたくないだけ。

 そういう子たちは逃げ込める場所を持っていて、絶対に最後の最後で、こっち側に見切りをつけてそこに帰っていくって、わたしは知ってるから。もし仮に仲間と認定したヤツにそれやられると、実は、結構しんどい。だからわたしは距離を置く。

 わかち合えない価値観とか世界観って、あるじゃん?

 たぶん、そんな感じなんだ。

 でも、ほら、やっぱり。

 わたしを見つけたその三人組は、私のそばに寄ってくる。

 「ねえ、ここってこんなに人いないんですかあ?」

 甘ったるい声でそう訊かれて、わたしは映画館の向こう側を指差した。

 「今はみんな、あっちの広場に溜まってるから」

 できる限り優しく、柔らかく。声色に気を使う。でもそのずっと奥に、関わんな、というオーラを忍ばせることも忘れない。

 これ、最近覚えたワザ。

 揉めないように、穏便に、とはいえわたしの心のテリトリーに入らせないように、近寄ってくる相手から距離を置きたい時、これが一番効くアプローチ。

 絶妙なコツが必要なのは、オーラの忍ばせ方。忍びっぷりが足りないとイラつかれて揉めるし、忍ばせすぎると気づいてくれない。その辺のさじ加減が大切で難しいんだけど、わたしは大丈夫。そのバランス感覚を、完全にマスターしてる。

 狙い通り三人組は、きゃっきゃとはしゃぎながら、映画館の角の向こうへ消えていった。

 それを見届けてから、わたしはもう一度、ビルに囲われた狭い空を見上げる。

 今日はやけに、マーブルのうねりがぐちゃぐちゃだ。こういう日の運勢は大抵、あまりよくない。なんて思ってたら、わたしの横に腰かける人の気配を感じた。同時に鼻を突く、シーケーワンの安っぽい匂い。振り向かなくてもわかる。タクヤだ。やっぱり、今日はついてない。

 「いいのかよ、あの子たち、あっちに送り込んじゃって」

 にちゃにちゃとガムを噛む耳障りな音。ウザいヤツ。

 「あんたと関わらせるよりマシ」

 わたしが空を見上げたままあからさまに不機嫌に返すと、きゃはは、とこれもまた耳障りな、甲高い笑い声をあげる。

 「ホントはそんな風に思ってないだろ? マーキュリーの連中、嫌いじゃん、モエ」

 マーキュリー。何ヵ月か前から、ボランティアだとかなんとか言って、広場を仕切ってる大人たちのグループ。大人と言っても、20代後半とか、そのくらい。確かにわたしは、あいつらが嫌い。

 「だからそれでも、あんたよりマシなんだって」

 見上げていた空から、まなざしをタクヤに向け直して、言った。拒絶と嫌悪を意図した棘を、瞳の中に携えて。

 タクヤの顔半分を覆う、黒いウレタンのマスク。その向こう側にそれなりに整った顔立ちが隠されていることを、わたしは知ってる。

 「何? オレ、モエにメチャクチャ嫌われてる?」

 「嫌われてないと思える神経が、どうかしてるっての」

 「もしかして、アイコのこと言ってんの?」

 「それだけじゃねーし」

 そう言い返すと、タクヤは少し、へこんだ感じの雰囲気を醸し出す。わかってる。ホントはこれっぽっちも、へこんでなんかない、この男は。

 「マーキュリーの連中がオレよりマシって、まあ、それがホントならいいんだけどね」

 言って、タクヤはすっと立ち上がった。黒いスリムジーンズと、ぴちぴちのVネックのシャツ。細身だけど長身で、筋肉で引き締められた身体。以前、ツイッターの自撮り界隈を盛り上げた中心にいたヤツだけはある、スタイルの良さ。

 立ち上がったままわたしを見下ろし、タクヤは切れ長の目尻をすこしだけ吊り上げて、笑った。たぶん、笑ったんだと思う。マスク越しの口許がホントはどんな風に動いたかなんて、わからないけれど。

 そのまま踵を返して、タクヤは二丁目の方へ消えていく。

 タクヤの残した台詞。その響きはわたしの胸の奥に、古びたラーメン屋の床にこびりつく、ぬめりとしてるくせにねっとりとした、あの得体の知れない感触の油みたいに、引っ掛かる。

 マーキュリー。

 ボランティアなんていう、世間では風通しの良さそうな看板をこれ見よがしに掲げて、わたしたちに摺り寄ってくる大人たち。

 確かに、わたしたちが散らかしたゴミを文句も言わずに拾い集めてくれたり、食べ物をくれたり、半グレっぽい輩を遠ざけてくれたりはするけれど、胡散臭さは拭えない。

 きっとそれは、彼らが大人だからだ。

 結局彼らは、映画館脇の路地からわたしたちを追い立てて、広場に集め、見通しの良い環境で、わたしたちの為だなんて言いながら、彼らが勝手に創り上げた秩序みたいな檻に、わたしたちを閉じ込めようとして、それまで在ったわたしたちだけのちっぽけだけど愛おしい世界を、ぶち壊した。

 大人はみんなそうだ。

 わたしたちはただ、放っておいて欲しいだけなんだ。

 それなのに、取材と称してこの界隈の実態を赤裸々に世の中に晒す、ユーチューバーとかジャーナリストとか呼ばれる連中。若さは金になるとにじり寄ってくる半グレとかヤクザ。そのせいで世間が騒ぐことを良しとせず、一斉検挙でわたしたちを児相に追いやる警察とか政治家。

 何でわかんないのかな?

 わたしたちより長く生きてるくせに、バカなの? それとも、大人になるってことが、バカになるってこと? そのくらい、何にもわかってなくて、バカバカしい。ほんとにもう、何もかも、全部。

 だってそもそも、一番近くでわたしたちを守るべき親と呼ばれる大人たちが、わたしたちを放棄した事で、わたしたちは大人と呼ばれる人種を最も忌み嫌っているのに、そんな当たり前のことに気付かず、この世の中にほんの僅かにぽっかりと空いた居心地のいい隙間に創り上げたわたしたちだけの世界に土足で入り込んで、全てを抹消したのは、大人だ。その自覚すらなく、わたしたちを救った英雄気取りでいる、クソみたいな大人たちだ。

 救われてなんかない。

 追い込まれただけだ。

 わたしたちがそんな彼らに求めるのは、ただひとつだけ。

 身勝手に放り出したんだったら、放っといてよ。

 ただ、それだけなんだって。

 大人って、そんな簡単なこともできない、そんなシンプルなわたしたちの気持ちもわからない、クソったれなの?

 いやいや。

 落ち着け、わたし。

 急に憤った自分を慰めるように、落ち着かせるように、深呼吸してから、空を見上げる。

 でも、さ。

 今日はやっぱり、マーブル模様がぐちゃぐちゃだ。

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