第100話 氷室 誠 逢瀬⑧

 小気味よく鳴る包丁の音。

 熱せられた油と、卵の混じり合う音。

 

 本のページをゆっくりと捲(めく)りながら、匂いと混じり合うように聞こえてくるそれらに、居心地の良さを感じた。


(なんか、いいな。こういうの)


 機嫌よさげにフライパンを触っている透のまとめられた髪の毛が、飛び跳ねるかのように宙を舞っている。

 

 本当に、些細な日常の一コマ。

 でも、そんなことが……どうしようもないほど愛おしい。

 それこそ、ずっとこのまま見ていられるような、そんな気にさせてくれた。


 

「どうしたの?お腹空いちゃった?」



 そして、ぼーっとそんな光景を眺めていたからだろう。

 料理を手に持った透が不思議そうな顔で、こちらに視線を向けていた。



「…………そうだな。腹が減り過ぎて爆発しそうだ」


「あははっ。なにそれ?爆発しちゃうんだ」


「ああ。ギリギリ間に合ってよかったよ」


 

 陽だまりのような温かい雰囲気に、くだらない冗談がついつい、口から出ていく。

 きっと、今この場でしか笑えない、そんなものなんだろうけど。

 それでも、透が笑ってくれるなら、言ってよかったとそう思えた。



「ふふっ、お待たせ。ちょっと手抜きな部分もあるけど、許してね?」


「いや、ぜんぜんいいぞ。というか、作ってくれるだけでも大感謝だ」


「ありがとう」



 もし、これが出来合いのものを並べるだけだったとしても、俺はそれに感謝するだろう。

 誰かが自分のために使ってくれている時間や手間は、とても貴重なものだ。

 それが例え、どれだけ短くて、どれだけ簡単なものだったとしても。



「お礼を言うのは俺の方だ。本当に、ありがとう。嬉しいよ」


「えへへ。どういたしまして」


 

 それこそ、そう思うが故に、俺は選んで生きてきた。

 好きな物、好きなこと、好きな人、不器用なほどにはっきりと。

 自分にとって大事なもののためだけに、人生を使いたいと思っていたから。


(…………だから、今ならわかる。透が、俺にとってどんな存在なのか。どれほど大事なのか)


 女の子として好き、たったそれだけの言葉を言うのにたくさん待たせた。

 普通の子なら愛想が尽きてしまうような、そんな煮え切らない態度を何度も見せながら。

 でも、その過程があったからこそ今がある。一緒に生きていくと決めた、今が。

 


「じゃあ、早速食べるか。冷めちゃうと悪いし」


「うん。早く食べて、イチャイチャしよう」


 

 しかし、目の前の光景をスルーしようと、素知らぬ顔で手を合わせるも、どうやらそれはうまくはいかなかったらしい。

 私、意地悪したいですと書かれたような顔が、爛爛とした目でこちらをジッと見つめていた。



「イチャイチャって………………いや、これ見せられたらもう何も言えないな」


「ふふふっ。なに?言いたいことがあるなら言っていいんだよ?」


 

 並べられた料理はオムライス、コーンスープ、サラダと特筆すべき組み合わせではない。

 だが、それぞれが統一されたコンセプトで準備されたことが一目でわかり、思わず苦笑してしまうようなものになっていた。



「………………あー、まぁ、気持ちはわかったよ」


 

 ハート型に整えられたオムライスには、どうやったらここまで上手くできるのかと思うほど達筆な『誠』という文字がケチャップで描かれている。

 加えて、コーンスープの上には散りばめられたパセリのハート、サラダすらもスライストマトでハート型の枠が形取られていた。


(今時、少女漫画でもここまではやらないんじゃないのか?)


 少なくとも、今までの俺の人生数週分のハートを見せられたことは確かだ。

 あからさま過ぎるアピールに、若干の脱力感を感じつつそう返事をした。



「え?何のこと?ちょっと、わからないなー」



 しかし、とぼけた顔でそう聞いてくる透は、その答えではお気に召さなかったらしい。

 未だ何も描かれていない自分の方のオムライスを、赤いチューブと共にこちらに寄せてくる。


(これは、何か描けってことか)


 楽し気に頭を揺らす透が、まるでメトロノームのように見えてしまうのは、俺が見えない圧力を感じているせいだろうか。

 小さなため息が、思わず口から出ていくのが分かった。


(………………なんかやられっぱなしってのもあれだよな)


 しかし、色々な文字が頭を素早く通り過ぎていく中、ふとそんな考えが浮かんでくる。

 どうせなら、驚いた顔を見てみたい。

 それに、そっちの方が後で思い出したときに楽しいはずだと、何となく思った。


(…………よしっ。やってみるか)


 そして、俺はケチャップのチューブを握ると、目の前のオムライスに、文字を素早く描き上げていく。

 透は、それをしばらく不思議そうに眺めているだけだったものの、やがてその意味が分かったのか、びっくりした顔でこちらを見つめてきた。



「どうだ?ちゃんと、読めたか?」

 

「………………誠君は、ほんとに、ズルいよね」



 自分の胸の辺りを指しながら伝えた言葉は、確かに届いたのだろう。


 描いた文字は、『心』

 思った言葉は、『冷めないハート』  

 驚きは、悔しそうな顔に、やがて最後には嬉しそうな笑顔に変わっていく。



「ははっ。やられっぱなしじゃ、いい塩梅にならないだろ?」


 

 心が読める透と、それを知っている俺だからこそ、成り立つこと。

 それに、最近になってよく思うのだ。 


 きっと、そこにただ蓋をし続けていくのは、あまりいいことではない。

 透にとっての一番の闇。だからこそ、二人だけの時くらいは想い出を上書きしていくべきだ。

 そもそも、そこを含めた透の全部が好きなんだと俺は思っているから。



「…………………………なら、今度は私がもっと驚かせないとね」


「おいおい、勘弁してくれ。いつも振り回されっぱなしなんだし」



 徐々に加速する悪戯は、透本来の地頭のよさのせいか、なかなかこちらを揺さぶってくるものも多い。

 この先、いくらでもイベントはあるのだ。その度にやられていたら、いつかノックアウトさせられてしまうだろう。



「やだ。コツコツ貯金した分は、誠君が根こそぎ持ってっちゃうんだもん」


「いや、そんなことないだろ」


「ううん。そんなことあるよ」


「ほんとに?」


「ほんとに」


「ほんとのほんとに?」


「ほんとのほんとに」


「「あははっ」」



 オウム返しのように続く言葉に、どちらからともなく笑いが漏れる。

 まるで、鏡合わせ、そんなタイミングで。



「冷めちゃうし、食べるか」


「ふふっ。こっちは、冷めちゃう方だしね」


「別に、変な意味はないぞ?美味しいし、これ」


「……あははっ。気にしてないよ。ただ、気に入ったから言ってみただけ」


「そっか」


「うん。また、誠君語録が増えちゃった」


「なんだよ、それ。そんな大層なこと言ったこと無いだろ?」


 

 確かに、今回はそれなりに捻ったことを考えたつもりだ。

 でも、他の時はそうでもない。ただ、思ったことを言った、ただそれだけな気がする。



「………………ううん、言ったよ。誠君は、素敵な言葉をたくさんくれた」


「んー、例えば?」


「………………………………内緒。言ったらたぶんにやけちゃうから」


「…………あー、そっか」


 ほんのりと頬を染め、上目遣いにそう伝えてくる透に、こちらまで照れさせられる。

 そして、俺は何も言えず、透も何も言わないまま、食器の音だけがしばらく鳴り響いた頃。

 調子を取り戻してきたらしい透が、再び口を開いた。



「ふふっ。でも、この後がもっと楽しみになったね」


「ん?なんで?」


「だって、今度は私の番だから。仕返し、どうしよっかな」


「…………せっかくなんだし、静かに観ようぜ」



 今まで見たことのないジャンルの映画なので、そこそこ興味があった。

 どうせ見るなら、映画は静かに観たい派だ。

 正直なところ、あまり喋るのを期待されても困る。



「静かには観るよ。静かにはね」

 

 

 思わせぶりな台詞。

 それに、何やら妄想を広げているのか、透は今までで一番楽しそうな顔をしている。



「…………なんか、怖いなぁ」



 俺は、その様子に何度目かになる呆れたため息を吐いた後、やがて同じような笑みを彼女に返した。





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