第94話 蓮見 透 逢瀬②
バスを降りると、せっかく引いていた汗が再びじわりと滲んでいくのがわかる。
待ち合わせ場所は涼しい駅の構内なのでそれほど問題はないものの、それでもやっぱり恨めしい気持ちになってしまう。
(汗臭いって思われちゃうかな)
実家に帰った時はもっと暑かったはずなので、何を今さらと思われるようなことかもしれない。
でも、きっと私は何度でも同じことを思ってしまうのだろう。
少しでも相手によく思われたいと、そう思ってしまうから。
(………前は、それを否定していたはずなのにね)
変化を嫌い、取り繕われるのを嫌い、自分に淡い想いを抱いた人たちを避けてきたはずの自分。
しかし、いざわが身に降りかかってみると、それが仕方がないことなのだと初めて理解できる。
愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。
本当にその通りだ。私は、みんなが言うような賢者ではない。
「…………………………誠君はほんとにいいのかな?私なんかで」
両想いになれたことで、時折浮かびあがってくる不安。
本当に、重くて、面倒くさい女だと自分でもわかっている。
でも、胸から飛び出してしまいそうなほどの好意に、ついついそんな言葉が口を出ていってしまった。
「俺は、透じゃなきゃ嫌だよ」
「………………え?」
不意に聞こえた声に、驚きとともに振り返る。
待ち合わせまで、まだ三十分以上はある。そんなはずは無いと。
「………………なんで」
「早く会いたかったってだけじゃ、ダメか?」
呆然とする私を、ふわりと温かさが包み込み、気づくと彼の顔がすぐ真上にあった。
呼吸が聞こえるほどの、距離。
のぼせた頭は、何も考えられなくなり、ただ思ったことを言葉にすることしかできない。
「………………汗、かいてるから」
「大丈夫」
「………………それに、ほら。目立っちゃってるし」
「大丈夫だ」
「………………でも、さ」
「全部、大丈夫だから」
頭に乗せられた大きな手の温もりに、視界が少しずつ滲み始め、唇を噛みしめても止められなくなる。
せっかくの初デート、泣きたくなんてないのに、楽しく笑っていたいのに。
「………………誠君はさ……ほんと……私を泣かせるの、上手だよね」
本当に、ズルい人。
せっかく頑張ったメイクも、服も、褒められる前に台無しにさせてしまったのに、それでも私をこんなにも幸せにしてくれる。
「そうか?…………いや、そうだな。いっそ、枯れるまで泣いて欲しいと、俺は思ってるよ」
涙が尽きた先にあるもの。
それがなんなのか、答えなんて一つしかない。
「……………………枯れちゃったら……ヨボヨボになっちゃうよ?」
「それでもいいさ。どうせいつかはヨボヨボになるんだ。後でも先でも、関係ない」
「…………………………………………ほんと、ズルいなぁ」
「透が笑ってくれるなら、それでいいさ」
この先の長い人生を、誠君は歩んでくれる気でいる。
これ以上無いほどわかりやすく、私でいいと、そう言ってくれている。
もしかしたら、愚かな私は、また同じことを繰り返してしまうのかもしれないけど。
それでもきっと、彼もまた同じことを返してくれるのだろう。
私の涙が枯れ果てて、いつか、何もかもはき出し尽くせるその時まで。
「ああ、そうだ。忘れてた」
「え?何を?」
そして、しばらく私が落ち着くのを待ってくれていた誠君が、急に何かを思い出したかのように声をあげる。
肩にかけた鞄は小さくて、財布と携帯くらいしか入ってないように見えるので、もしかしたら、何かを忘れたのかもしれない。
「透」
「え?あ、うん」
「待ったか?」
「へ?」
一瞬、何を言っているかが分からず、戸惑う。
しかし、少しずつその言葉が頭の中に入りこみ、やがて、誠君の家でしていた会話を思い出すとその意味をようやく理解できた。
「あ……あはははははっ!それ、今言うんだ」
デートで定番の台詞。
しかし、それは今更過ぎるほどのタイミングで、我慢できずに笑うことしかできない。
「笑い過ぎじゃないか?」
「あは、ははっ。だって、ほら、おかしすぎるんだもん」
「……透がやりたいって言ったんだろ?」
少し拗ねた顔にさえ、愛おしさがこみあげてしまう。
私がやりたいことを何よりも優先してくれる、そんな彼に。
(………………本当に、出会えてよかった)
毎日のように思っていること。それは、どんどん強さを増し、際限なく積み重なっていく。
「ごめんね?だから、もう一回……もう一回だけ、言って欲しいんだ」
「…………わかった。今度は笑うなよ?」
「ふふっ。大丈夫だってば」
さすがに、これ以上笑うのは可哀想だろう。
そう思い深呼吸をして心を落ち着けると、続きを促すように一度だけ頷く。
「透、待ったか?」
人生はやり直しなどできない。
もし、運命の歯車が少しでもずれていたら、私は誠君と出会うことなくこの先を生き続けていたのだろう。
大切な人達を巻き込まないことだけを考え続けて、自分の中に闇を抱え込んで、心が擦り切れてしまうその日まで。
だから、本当によかったと心から思う。
あの時、あのくじを引いて。彼の隣の席になって。
それまでの人生を帳消しにするくらい、幸せになれたから。
「…………うん、待った。ずっと、待ってた!」
そして、私は彼の胸にもう一度飛び込んだ。
誠君に出会えなかった時間、それをまるごと飛び越えていくかのように。
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