第33話 蓮見 透 四章⑥

 料理を終え、食器の準備を手伝っていると、玄関の方から音がした。



「ただいまー」



 男の人の声が聞こえ、ドタドタと急いだ様子でこちらに近づいてくる。



「君が例の子か!」



 平均ぐらいの身長に、それなりに整った外見。早希ちゃんと誠君によく似た柔らかい目元が特徴的な男の人がこちらに近づいてくる。


 笑った顔がとても早希ちゃんによく似ていて、彼女が父親似であることが良く伝わってくる。



「おお、えらい別嬪さんだ!誠も隅に置けないな~。ねえ、君はアイツのどこらへんが好きなの?」



 ニコニコした顔でこちらに話しかけてくる様子は本当にそっくりだ。活力と言えばいいのか、パワフルさが溢れ出ており、最初この家に入った時のように気圧されてしまう。



「え?あの、その、優しいところとかですかね」


「いいね!青春っぽくて!もう君に誠を頼んだ。愛想は悪いが見捨てないでやってくれ」


「は、はい」


 

 瑛里華さんがため息をつきながらこちらに近づいて来ようとした時、ちょうど誠君が部屋に入って来て私の前に立つ。



 そして、彼が父親と二、三言話してくれたことで、改めて自己紹介をしあうことができた。



 息子は母親、娘は父親とよく似たものだと感心させられる。







「悪いな。早希が二人いると思ってくれればいい」



 彼が気遣うような目でこちらを見てくる。



「あ、はは。元気なお父さんだね」


「あれで仕事帰りだからな。正直、どこからそんな力が湧いてくるのか理解できないわ」



 本当に元気な人だった。だけど、どんな悩み事も吹き飛ばしちゃえるようなその強さは少し羨ましい。



「…………強い人なんだね」


「まぁ、何を強いと定義するかにもよるけど、そうかもしれない」


 

 私の心は、とても弱いから、見習いたいなと思う。生まれ持ったそれが簡単に変わるとはとても思えないけど。



「そっか、それは、いいね、うん」



 私は、取り繕った笑顔を浮かべると、仄かに沸き上がった嫉妬をそれで押しつぶした。









◆◆◆◆◆







 そのまま、誠君のお父さんが戻ってくると、夕食が始まった。



「ねえ、透ちゃん。誠って学校でどんななの?」


「あ、それ私も聞きたい!」


 

 目元以外の顔のパーツはけっこう違うのに、瓜二つに見える二人がこちらにどんどん話しかけてくる。



「そうですね。とても優しいですよ。細かなところにも気づいてくれて、さり気なく助けてくれるんです」


「ふむふむ。誠、ナイス!」


「お兄ちゃん、ナイス!ご褒美に人参あげる!」



 二人にグッジョブといった感じでサインを送られた当の本人は、全くそれに反応せずに黙々と夕食を食べ進めており、早希ちゃんが置いてきた人参も迷わずそのまま返した。


 だが、もう一度早希ちゃんがそれを押し返そうとした時、瑛里華さんがそちらを睨みつける。



「早希?」


「ひぃ。ちゃんと食べるから」


 

 情けない声をあげた早希ちゃんの横にそっと誠君がマヨネーズを置くと、彼女はそれで器用に小さい絵を描いてから苦い顔をして食べ始めた。


 静かに、周りを見る母息子に、ムードメーカーな父娘。本当に仲の良い家族だと改めて思う。



「いや~、母さんの料理はほんとに美味いな。世界最高!」


「恥ずかしいから、やめてもらえる?」


「恥ずかしがる母さんも可愛い!」


「…………隼人さん?」


「はい、ごめんなさい」



 幸せな家庭、それらは手で届くほどに近くにあるのに、決して手に入ることは無い。


 願ってやまないそれは、決して珍しくも無く、世の中にはありふれているはずなのに、私にはあまりにも遠すぎる。

 

 だって、普通の幸せを手に入れるには、まず普通であることが大前提なのだから。

 








「悪い、うるさいだろう。疲れたか?」



 彼がこちらを心配したように優しい声色で話しかけてくる。どうやら、ぼーっとしてしまっていたらしい。



「え?ううん。大丈夫だよ。とってもいい家族だね」


「そうか?」


「うん、とっても。楽しそうで、仲良しで、ずっと、眺めていたくなるような、そんな家族」


「まぁ、ありがとう?当事者だとよくわかんないけど」


 

 本当は輪の中に入りたい。だけど、私が触れると、壊してしまうから。

 なら、眺めていられるだけでもいい。その温かさを想像するだけでもいい。



「この幸せの味がする食事は、私には贅沢過ぎて、たぶんずっと忘れられないと思う」



 もう、混ぜてくれなんて贅沢は言わない。


 でも、覚えておくだけ。そう、ずっと覚えておくだけなら、いいよね。そしたら、たぶんこの先もなんとか生きていけると思うから。



「そんな大層なもんじゃないだろ。それに、なんならまた来ればいい」


「…………そうだね」



 彼にとっての普通と、私にとっての普通は違う。だって、こんな些細な幸せすらも、私にとっては太陽みたいに眩しく、身を焦がしてしまうほどに力強く感じられてしまうのだから。



 










『「ごちそうさまでした」』

 


 そのまま、まるで綺麗な絵を見ているようにぼんやりと眺めながら、幸福の味を体に刻み込んでいると、食事は全て無くなっていた。




 離れなくちゃいけないのに、離れたくない。そう考えれば考えるほど、心が重く、胸が苦しくなる。

 

 以前はこんなことは無かった。でも、一度幸せを知ってしまうと、人は抜け出せなくなるようだった。


 このままずっと、ここにいたいという自分と、ダメだという自分がうるさいくらいに頭の中でせめぎ合う中、このまま座ったままでもいられないので気合を入れて立ち上がる。


 

 しかし、心が思った以上に疲弊しているのだろう。自分の体すらも支えきれず、よろめく。


 

 倒れこみそうになる瞬間、誠君が支えてくれ何とかそれを防ぐことは出来たものの、手に持ったお皿が落ちていくのが走馬灯のようにゆっくりと見えた。



「「あっ!」」



 甲高い音がして、その食器が粉々に砕け散る。

 


「ごめんなさい!!本当に、すぐに片付けますから」

 


 その無残な姿は、私が触れるとこうなるということを暗示しているように見えて、寒いくらいに心が冷えていく。


 誠君がかけてくれる声も遠く聞こえる中、その残骸をかき集め、何とか元に戻そうとするが、手を掴まれ止められる。


 

「こんな、バラバラになって…………私が、余計なことしようとしたから」


 

 私が、関わったから、しちゃいけないことをしようとしたから。


 この醜い身に不相応な幸せに手を伸ばそうとしたから、粉々になって、消えた。



「本当に、本当に、ごめんなさい」



 周りの音など聞こえず、私はただ、泣きながらそう謝り続けることしかできなかった。

 








◆◆◆◆◆







 

 必死に歯を食いしばり、涙を止める。



「本当に、ごめんなさい。私、帰ります。また、後日弁償させてください」



 心を凍らせ、優しい言葉から必死に耳を塞ぐ。そうしていないと、たぶん弱い私はまた愚かな望みを抱いてしまうから。










「透ちゃん、大丈夫?」


「本当に車で送っていかなくていいのかい?」


「はい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」



 心配気な顔に心がより一層痛む。そして、彼の優しさを断り切れず、見送られることが決まると、最後の挨拶をするため佇まいを改めた。

 


「………………本当にお世話になりました」



 心からの感謝と謝罪の言葉を織り交ぜて伝える。もう、ここに来ることはできないだろうから、これ以上無いほどの気持ちを込めて。





 

 


 未練が出ないよう、彼に近づかず、顔が見えない位置を保って歩く。


 

「何か、気に障ることしちゃったか?それとも、少しうるさすぎたとか?」


「ううん。本当に、誠君の家族に悪い所は一切無いの」



 悪いのは全部、私なのだ。彼の家族には、それこそ感謝しかない。



「もしかして、楽しくなかったか?」

 

「すごく、楽しかったよ。それこそ、ずっと一緒にいたいくらい」



 本当に楽しかった。全部忘れて、自分がそれを手に入れられると錯覚してしまうほどに幸せだった。



「じゃあ、なんだ?良かったら教えて欲しい」



 彼には、いや、私以外にはきっとわからないことなのかもしれない。



「わからないよね。でも、そうだね。怖くなったのかな」 


「怖い?」


「うん。あまりにも楽しすぎて、幸せすぎて、居心地が良すぎて、怖くなった」



 失ってしまうのが、壊してしまうのが怖くなった。それに、あれ以上いたら、きっとあの冷たい部屋には二度と戻れなくなる。


 人は慣れる。不幸にも、幸せにも。この先私がなんとか生きていくためには、不幸に慣れた今のが好都合なのだ。


 独り言のように、自分の気持ちをただ呟く。きっと彼には全く理解できないことだろうから。



「…………」


「ごめんね、困らせて。でも、本当に大丈夫だから」

 


 予定通りの時間に、バスが到着し目の前で停まる。

 


 何とも言えない表情の彼に改めて謝罪の言葉をかける。


 大丈夫だから、私は。一人でも、大丈夫だから。これまでもそうやってきたんだから、これからもそうやって生きていけばいい。



 束の間でも幸せを教えてくれた、夢を見させてくれた。それだけでも、私には不相応なものだったくらいなんだから。




「バイバイ…………氷室君」

 

 

 ありがとう、そして、さようなら。彼との関係は、もうおしまい。


 夢から覚めて、現実へ戻るため、私は彼の呼び名を改める。






 最後くらいは、笑顔で別れよう。


 だが、そのまますぐに後ろを向いた私の手は何故か彼に掴まれて、力強く抱き寄せられる。


 

 

「行ってください」




 驚きで反応できないまま、胸元に押し付けられた私が、何も言葉を発することができないでいると、そのままバスが動き出してしまう。




「どう、して」






 頭が動かず、考えを読むことさえもできない。凍らせつつあった心を切り替えきれず、ただ茫然と言葉だけが口から出ていく。





「悪いが、俺のわがままに付き合ってくれ」


「…………わがまま?」


「ああ。考えても、考えても、全く答えが出ないから、自分のしたいことをすることにした」


「………………したいことって?」

 



 彼は、何を言おうとしているのだろう。何を、しようとしているのだろう。




「俺は、今の透の顔が嫌いだ。正直、見ていたくない。だから、理由を教えて欲しい」




 ゆっくりと、だが着実に頭の中に言葉が染みわたっていき、その意味が朧気おぼろげながらも理解できてくる。



「何でもいい、整理できないなら支離滅裂でもいい。ちゃんと、聞くから、それこそ、何でも。だから、どうか話して欲しい」



 彼が、私の方に踏み込んでいる。これ以上無いほど、明確に。


 らしくないほど、力強く。いつも通り、優し気に。こちらに手を伸ばそうとしている。


 怯えと、期待。それらがごちゃ混ぜになってさらに私を混乱させる。



「俺は、透のこともっと理解したいから。一方的に終わるなんて、納得いかないから。後悔するのがわかってるなら、俺は何があっても先にそれをする」



 その強すぎるほどに意志を感じさせる彼の瞳に魅入られてしまった私は、ただじっと見返すことしかできなかった。

 

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