第31話 氷室 誠 四章⑥

 階段の下から親父のうるさい声が聞こえてくる。ついでに、微かではあるが、戸惑っているような透の声もするので、呆れながら少し足を早める。



「おお、えらい別嬪さんだ!誠も隅に置けないな~。ねえ、君はアイツのどこらへんが好きなの?」


「え?あの、その、優しいところとかですかね」


「いいね!青春っぽくて!もう君に誠を頼んだ。愛想は悪いが見捨てないでやってくれ」


「は、はい」


 

 リビングに着くと、案の定親父が透に迷惑をかけていたので間に割って入る。

 そして、母さんに目配せをし、混ぜるな危険の早希をとりあえず今は抑えておいて欲しいことを伝える。

 小さく頷いた母さんが、こちらに近づこうとする早希の襟元を掴んで食器の配膳を頼んだのが視界の端に映る。さすが、ナイスプレーだ。




「親父、圧がすごすぎ。困っちゃってるだろ」


「おっと、悪い悪い。ちょっとテンション上がっちゃって」


「い、いえっ!ぜんぜん大丈夫です。あの、私、誠君のクラスメイトの蓮見 透って言います。よろしくお願いします」


「これはご丁寧にどうも。俺は……いや、私は誠の父親の隼人だ。よろしく」



 突然、謎に低い声を出し始めた親父に呆れてため息が出る。



「はぁ、親父もうその路線は無理だから諦めろ」


「え?無理か?まだいけそうじゃない?」


「それを目の前で聞いてる時点でダメだから」


「マジかー。今日の会議中もずっとイメトレしてたのに」


「おいおい、仕事に集中しろよ。というか、今日帰ってくるの早くないか?」


「どんな子か気になり過ぎて終業ダッシュで帰ってきた。エレベーターのボタンも連打しちゃったし。はははっ」


 

 少し頭が痛くなってくる。料理を運んでいる母さんも若干呆れているように見える。

 こんなんでも、仕事ができるらしいから世の中というものは本当にわからないものだと毎度のことながら思う。

 


「まぁ、いいや。とりあえず、着替えてきたらどうだ?」


「おお、確かにそうだな。透ちゃん、また後でね」


「はい」


 

 どうやら、一番の難所は終わったようだ。服を着替えている間に一旦クールダウンできるだろう。



「悪いな。早希が二人いると思ってくれればいい」


「あ、はは。元気なお父さんだね」


「あれで仕事帰りだからな。正直、どこからそんな力が湧いてくるのか理解できないわ」



 昨日も、かなり話していたはずなのに、本当に元気な人だといつものことながら思う。



「…………強い人なんだね」


「まぁ、何を強いと定義するかにもよるけど、そうかもしれない」


「そっか、それは、いいね、うん」


 

 そう言って笑う彼女の顔はどこか儚げなように俺には見えた。







◆◆◆◆◆




 


 すぐに親父が戻ってくると、そのまま夕食が始まった。

 透が父娘の会話のサンドバッグになりそうになりかける度に止めながら、適当に食事を続ける。


 彼女も少し疲れたのだろうか、笑顔なのだが、どこか元気なさ気な様子にも見える。



「悪い、うるさいだろう。疲れたか?」


「え?ううん。大丈夫だよ。とってもいい家族だね」


「そうか?」


「うん、とっても。楽しそうで、仲良しで、ずっと、眺めていたくなるような、そんな家族」


「まぁ、ありがとう?当事者だとよくわかんないけど」



 やはり、どこか変に見える。でも、どこがというのはやはり俺には分からない。



「この幸せの味がする食事は、私には贅沢過ぎて、たぶんずっと忘れられないと思う」


「そんな大層なもんじゃないだろ。それに、なんならまた来ればいい」


「…………そうだね」


 

 彼女の目には、強すぎるくらいの力が宿っていて、言っていることは本心なのだろうという不思議な確信があった。

 

 浮かべた笑顔、嘘のない好意的な言葉、どれをとっても楽しそうな透。でも、何故か俺には、ずっとそれが気になってしまい、美味いはずの飯の味はあまり頭に入ってこなかった。











『「ごちそうさまでした」』



 食事が終わり、流し台の方へ食器を運んでいく。

 そして、透も自分の物を持って立ち上がろうとした時、一瞬ふらつき倒れかける。


 咄嗟に腕を掴むことでなんとか支えることはできたが、彼女の手から離れた食器が落ちていくのが嫌にゆっくりと見える。



「「あっ!」」


 

 同じ言葉が響くが、その色に宿る感情は明らかに違った。



「ごめんなさい!!本当に、すぐに片付けますから」



 可哀想なくらい必死になって、すぐにそれを集めようとする彼女を止める。

 


「全然いいから。それに、手で触ると危ないぞ」


「でも」


「怪我は無いか?」


「うん、無いけど。それより、お皿が」


「気にするな。皿なんてまた買えばいい」


「こんな、バラバラになって…………私が、余計なことしようとしたから」


 

 何かが彼女の琴線に触れたのか、そのまま涙を流し始める透に動揺する。



「本当に、本当に、ごめんなさい」


「気にしなくていいから。な?泣くほど大したことじゃない」


「ごめんなさい。私が、全部、悪いの」



 台所の方に行っていた母さんたちも異変に気付いたのか、こちらに寄ってくる。

 家族総出で彼女をしばらく宥めていたが、それでも彼女は、壊れた蓄音機のように、ひたすら謝り続けていた。








◆◆◆◆◆





  


 ようやく、透が泣きやんだ後、彼女は謝りながら、帰宅することを俺達に伝えた。


 あまりにも急な帰宅で心配ではあるが、気の休まらない慣れない場所にいても逆に辛いかと母さんと話し、一度帰らせることにした。





「透ちゃん、大丈夫?」


「本当に車で送っていかなくていいのかい?」


 早希が心配げに声をかけ、親父が何度目かになるその問いかけをした。



「はい、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」


「いや、迷惑は一切かかって無いんだけど」



 頑なにそれを主張する彼女にこちらも困惑してしまう部分がある。


 

「バス停までは送るよ」


「本当に、一人で大丈夫だから」


「これくらいはさすがにさせてくれ」


「でも」


「な、頼むよ」


「…………ありがとう」



 俯いた顔で頷く彼女の姿に、俺たち家族は顔を見合わせる。

 早希と親父は繊細な言葉を扱うことが不得手なのを理解しているのか、めっきり口数が少なくなっているものの、その目は、表情は言葉以上にその感情を伝えてきていた。



「じゃあ、ちょっと送ってくるよ」


「………………本当にお世話になりました」


「もし来たいならまた来てくれてもいいのよ?今日のことは本当に気にしないでいいし」

 

「はい、どうも、ありがとうございます」



 力無く返事をする彼女はやはり何か変だ。母さんから、目配せをされ、俺もそれに頷いた後、ゆっくりとバス停へ向かう。


 行きは少し近すぎるくらいの距離を保っていた彼女は、だが今は一定以上の距離に近づけようとせず、黙って前を歩いていた。



「何か、気に障ることしちゃったか?それとも、少しうるさすぎたとか?」


 

 人によって気になるところは違うので一度彼女に尋ねる。



「ううん。本当に、誠君の家族に悪い所は一切無いの」



 俺の位置からだと表情は窺えない。だけど、その声色はとても真剣で、嘘なんか微塵も入っていなさそうで、逆に混乱する。



「もしかして、楽しくなかったか?」


「すごく、楽しかったよ。それこそ、ずっと一緒にいたいくらいに」

 

「じゃあ、なんだ?良かったら教えて欲しい」


 

 一緒にいたいのに、いれるのに、離れる。それが俺には理解できなかった。



「わからないよね。でも、そうだね。怖くなったのかな」 


「怖い?」


「うん。あまりにも楽しすぎて、幸せすぎて、居心地が良すぎて、怖くなった」


「…………」

 

 

 何と言えばいいのかわからない。だって、それは自分の中では噛み砕けない、とても複雑なものであるように感じたから。



「ごめんね、困らせて。でも、本当に大丈夫だから」



 あっという間にバス停に着くと、バスがちょうど目の前に停まるところだった。


 途中から足を少し早めていたところを見るに、もしかしたら彼女は時間をしっかりと調整していたのかもしれない。



「バイバイ…………氷室君」


 

 振り返り、彼女が力無い笑みを向けてくる。


 そして、バスの扉が開くと、彼女がそちらに踵を返して足を一歩踏み出した。







 彼女がそれをしたいなら、尊重すべきだ。


 無理をしてるのは一目でわかる。それでも、彼女がしたいならそれが一番正しい。 


 自分の価値観と、意志の尊重。それらが、一瞬の間にグルグルと頭の中を駆け巡り続ける。


 





 止める権利は俺にあるのか?俺達の関係はなんだ?それを自問自答し続ける。







 

 分からない正解。なら、最後の答えは決まっている。

 自分のしたいことをする。それだけだ。

 






  

 俺は、遠ざかる彼女の手を掴むと、こちらに引き寄せ、声を出せないように抱きしめた。

 


「行ってください」



 俺がそう言うと誰も乗っていないバスの運転手は、怪訝な顔をしながらも車を動かし始めた。






「どう、して」



 混乱しているのか、こちらを唖然とした表情で見る透と目が合う。



「悪いが、俺のわがままに付き合ってくれ」


「…………わがまま?」


「ああ。考えても、考えても、全く答えが出ないから、自分のしたいことをすることにした」


「………………したいことって?」



 そこに、怒りは無い。ただ、抜け殻のように言葉を返すだけの彼女の目を見て、俺は言葉をはっきりと伝えた。



「俺は、今の透の顔が嫌いだ。正直、見ていたくない。だから、理由を教えて欲しい」


 

 そこにいたい。その意志は明確なのに、それをしない。

 彼女はいつもそうだ。



 人の気持ちを考え過ぎて、自分のしたい事より周りとの調和を大事にする。


 それが悪いこととは言わない。それに、まだ席が隣だった時は思ってても特別干渉することも無かった。


  

 でも今は、あの時とは状況が違う。


 俺達は、少なくとも友達だ。毎日のように連絡を取り合い、一緒に遊ぶ。


 個人的には、咄嗟にとはいえ自分の家に呼んだくらいには心を許しているつもりだ。




「何でもいい、整理できないなら支離滅裂でもいい。ちゃんと、聞くから、それこそ、何でも。だから、どうか話して欲しい」



 彼女の目に徐々に力が戻っていく。怖がるような、怯えるような、それでいて期待するような、そんな目だけど。彼女はもう、抜け殻じゃない。



「俺は、透のこともっと理解したいから。一方的に終わるなんて、納得いかないから。後悔するのがわかってるなら、俺は何があっても先にそれをする」



 だから、目の前の彼女に俺は言葉を伝える。はっきりと、わかるように。

 想いが表情に出にくい俺には、それしかできないから。

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